1990年という、日本の経済と文化がもっとも過剰に膨れ上がり、そして静かに崩壊へと向かい始めていたバブルの臨界点において、北の大地・札幌を舞台に産み落とされた一本の映画がある。門奈克雄監督の『マドンナのごとく』。このタイトルを耳にして、即座にその画面のテクスチャーや、劇中を流れる崎谷健次郎の音楽の、あの時代特有のどこか軽薄で、しかし奇妙に切ない旋律を思い出せる者が現在どれほどいるだろうか。インターネットの海をどれほど漂流しようとも、本作に対する批評的言説はほとんど見当たらず、配信プラットフォームのラインナップにも、デジタルリマスターされたDVDの棚にもその姿はない。これをAIに書かせている私自身、当時の新聞夕刊の映画広告を見て、いつか鑑賞したいと夢にまで見た作品だった。ただ、幸運にもいまや絶滅危惧種となった中古のVHSテープをデッキに滑り込ませた者だけが、約100分間という時間のなかに充満する、美しくも空虚な「バブルの残滓」としての虚無をダイレクトに味わうことができるのだ。本作は、一見すれば広告代理店に勤める35歳のキャリアウーマンと、防衛大学校を卒業した若き陸上自衛隊のエリート幹部二人との間で繰り広げられる、激しくも切ない異色のラブストーリー、あるいは時代を彩ったトレンディな官能メロドラマの皮を被っている。しかし、その実態は、1980年代から90年代初頭にかけての日本社会が内包していた歪んだジェンダー観、フェミニズムの奇妙な露呈、そして防衛庁全面協力という国家組織の思惑が、奇跡的なまでの不調和を起こしたまま結晶化した、極めてアヴァンギャルドで不可思議な映画的磁場なのである。
映画の幕開けは、しんと静まり返った札幌市立図書館という、記号化された知性の空間から始まる。名取裕子演じる小島優子は、そこで大きな眼鏡をかけた姿で現れる。この眼鏡という小道具の選択のなかに、当時の日本映画が「自立したキャリアウーマン」という存在をいかにステレオタイプに、かつ安易にラベリングしようとしていたかが透けて見える。眼鏡さえかければ、その奥にある美貌が知的にコーティングされるという、いささか微笑ましくも浅はかな演出。しかし、その眼鏡の奥にある名取裕子の眼差しは、一生懸命に「都会のキャリアウーマン」を演じようとすればするほど、逆に言葉にできない孤独と、ある種の肉体的な渇きをスクリーンに焼き付けていく。彼女は日本のスーザン・サランドンになり得たのではないか、という狂おしい予感が脳裏をよぎる。サランドンが持つ、年齢を重ねるごとに増していく肉体的な説得力と、知性と情熱が同居した佇まい。名取裕子が本作で見せる、成熟した大人の女性としての美貌は、まさにその領域に達しようとしている。
その彼女に、図書館の出口で声をかけるのが、加藤雅也(当時は加藤昌也)演じる唐沢潤一である。防衛大卒の若き3等陸尉。一歩間違えなくても、いや、一歩も間違えずに現代の基準で言えばただの不審者であり、執拗なストーカー行為そのものである。会社の前で待ち伏せし、マンションまで送り届ける。しかし、それが犯罪にならず、映画的な「ロマンティックな出会い」として許されてしまうのは、偏に加藤雅也という役者が当時放っていた、圧倒的かつ暴力的なまでのビジュアルの美しさがあるからに他ならない。のちに関西弁の軽快なトークのラジオ番組『加藤雅也の BANG BANG BANG!』(毎週土曜日 25:00~25:30 Fm yokohama 84.7)で沸かせることになる彼とは同一人物と思えない、この当時の演技力は極めて硬質であり、はっきりと言ってしまえば素人同然、お世辞にも円熟には程遠い。台詞の端々に硬さが残り、感情の起伏が滑らかに表現されているとは言い難い。だが、その大理石のように硬質なビジュアルと、非現実的なまでの等身のバランスが、制服を着た自衛官という「日常のなかの非日常」の記号として、完璧な説得力を持って優子の前に、そして観客の前に立ちはだかる。優子が思わず「眺めて楽しめる男もいるのね……」と呟くシーンは、単なる劇中の台詞を超えて、当時の観客、そして映画そのものが加藤雅也という肉体に注いでいた視線をそのまま代弁している。
この二人の年齢差は10歳。35歳の女性と25歳の青年。現代であればごくありふれた、あるいはさほど驚きをもたらさない関係性かもしれないが、1990年という時代においては、これは十分に「新種の男遊び」であり、異色スキャンダラスな関係であった。物語は、この二人が瞬く間に惹かれ合い、お互いの職場の近くに部屋を借りて同棲を始めるという、急速な展開を見せる。そして、その引っ越しの手伝いに現れるのが、唐沢の親友であり、同じく防衛大卒の自衛官である藤堂郁馬(宍戸開)である。宍戸開演じる藤堂は、会う前までは優子のことを「年増女」と冷やかしていたにもかかわらず、実際に彼女の成熟した魅力に触れた瞬間、一瞬にして秘かな恋心に囚われてしまう。ここから、本作の最も不可思議であり、かつ批評的な核心である「二人の男と一人の女」の変則的な三角関係が駆動し始める。
ここで注目すべきは、唐沢と藤堂という二人の若い男たちが、一人の女性を巡って激しく奪い合わないという点である。通常のメロドラマであれば、親友同士が嫉妬に狂い、拳を交え、友情と愛情の狭間で葛藤する泥沼の展開が用意されるはずだ。しかし、彼らは優子を独占しようとはしない。親友が愛した女だからこそ、その存在を共有すること、あるいはその愛の輪郭線を曖昧にしたまま、三人での奇妙な平穏を維持しようとする。この、男たちが「親友の女を独占できない、あるいは独占しようとしない心理」は、一見すると劇作上の不自然さ、あるいは心理描写の不足に見えるかもしれない。だが、これをバブルという時代の精神史として読み解くならば、全く異なる風景が見えてくる。ここにあるのは、一対一の排他的な恋愛を求める旧式のロマンチック・ラブ・イデオロギーの崩壊であり、すべてが過剰で、すべてが消費可能であった時代における「愛の剰余感」である。
ヒロインである小島優子にとって、この不安定な三角関係は、一人の男性だけでは満たされぬ自らの欲望と、キャリアウーマンとしての自立心が求めた「過剰の肯定」に他ならない。彼女は二人の若く美しい男たちを天秤にかけ、あるいは同時にその愛を包み込むことで、圧倒的な優越感を享受する。これこそが、バブル時代が図らずも露呈してしまった、ある種の歪んだフェミニズムであり、女性の社会的・経済的台頭がもたらした「マドンナの君臨」なのだ。北の大地、のんびりとした、しかしどこかアメリカの地方都市のような乾いた空気を持つ札幌というトポスは、この浮世離れしたファンタジーを温かく、そして冷徹に受け止める。そこでは、闘争心を失った男たちと、彼らを支配することで自らの孤独を癒そうとする女の、平穏無事な欲望の解消が繰り広げられている。
しかし、こうしたジェンダーの逆転劇や、過剰な欲望の戯れを、当時の日本映画の倫理やシステムが完全に描ききれたわけではなかった。本作は、藤堂志津子の道新文学賞受賞作であり、あの渡辺淳一が絶賛したという同名小説を原作としている。渡辺淳一が絶賛したという事実そのものが、ある種のシニカルな視線を誘うのは否めない。なぜなら、そこには常に、男性作家が都合よく解釈した「自立した女性の孤独と性」という、覗き見趣味的な枠組みが潜んでいるからだ。脚本を手掛けた小倉洋二は、かつて『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』で見せたような、人間の業や狂気を、このバブルの恋愛劇に注入しようと試みた形跡がある。公開当時、協力窓口であった陸上幕僚監部広報官の談話によれば、事前の脚本チェックの段階では、より過激な濡れ場や、明確な「3P(スリーサム)」の場面すら盛り込まれていたという。防衛庁側もそれを承知の上でOKを出していたというのだから、当時の時代感覚の緩やかさ、あるいは自衛隊という組織のPRに対するなりふり構わぬ姿勢には驚かされる。
ところが、最終的に完成した映画は、当時のR指定(成人指定)を回避し、より広い観客層にアピールするための自主規制によって、極めて中途半端な官能映画へと着地してしまった。名取裕子の美しい肉体、その一瞬だけ映る乳首や、シーツの波間で見せる艶めかしい表情は確かに拝めるものの、観客が期待するような、狂おしく燃え上がるような本格的な濡れ場は周到に回避されている。いつか面白くなるはずだ、いつかこの生殺しの状態から劇的なエロティシズムへと爆発するはずだ、と画面にしがみつきながら約100分間を耐え抜いた観客の前に残されるのは、拍子抜けするほどの物足りなさと、言葉にできない虚無感である。唐沢が訓練に集中できずに自らの率いる偵察隊を全滅させてしまうという、自衛官としては致命的な失態を演じ、責任を取って富士学校への研修に逃避する展開や、残された優子が今度は郁馬を心の支えにし、最終的には戻ってきた唐沢を含めた三人での「奇妙な共同生活」を提案されるという結末にいたるまで、ドラマとしての強度は常に希薄である。唐沢が富士学校で使用しているパソコンに、ペラペラとした巨大な8インチのフロッピーディスクを挿入するシーンの、今となっては骨董品的な懐かしさだけが、妙にリアルに記憶に刻まれる。
だが、この「中途半端さ」と「物足りなさ」、そして「何も残らなさ」こそが、本作を単なる凡作から、バブルという時代の記念碑的な怪作へと押し上げている理由でもある。劇中、とにかく目につくのは、異常なまでの喫煙シーンの多さだ。ヒロインの優子をはじめ、登場する大人たちは誰も彼もがヘビースモーカーであり、煙草の煙が常に画面を不透明に曇らせている。むしろ、若い唐沢と藤堂が煙草を吸わないことの方が、当時の劇映画としては珍しく映るほどだ。この時代、煙草は単なる嗜好品ではなく、最先端のファッション感覚であり、特にドラマや映画における「自立したかっこいい女性」の必須アイテムとして機能していた。煙を吐き出す名取裕子の姿は確かにスタイリッシュであり、彼女の美貌を際立たせるが、その煙の向こう側には、実体のないイメージだけが先行していたあの時代の空虚さが、そのまま漂っている。
それは、崎谷健次郎による音楽の使われ方にも顕著だ。洗練されているようでいて、どこか安っぽく、過剰に感情を煽り立てるメロディ。そのチープな音響空間は、まさにあの時代に大量消費され、消えていったJ-POPやトレンディドラマのBGMそのものであり、映画全体の重厚さを注意深く削ぎ落としていく。まるで、1990年と同じ年に公開されたジェリー・ザッカー監督のハリウッド映画『ぼくの美しい人だから(White Palace)』において、スーザン・サランドンとジェームズ・スペイダーが演じた、年齢や階級の壁を越えた濃厚な人間ドラマを、徹底的に脱色し、日本バブル期のモード系ファッション誌のグラビアへと変換したかのような手触り。あるいは、男二人と女一人の、逃げ場のない愛の共同体を冷徹に見つめた若松孝二監督、少女M出演の『スクラップ・ストーリー ある愛の物語』のような、特権的な映画的狂気が一瞬だけ明滅するものの、それが持続することなく、すぐに小綺麗で平穏なシステムへと回収されていくもどかしさ。関西圓光のような土着的でドロドロとした情念はここにはなく、あるのはどこまでも冷たく、乾いた、プラスチックのような叙情性である。
そして、この映画の背後に一貫して横たわっているのが、防衛庁(現・防衛省)の全面協力という、極めて政治的かつ奇妙なファクターである。劇中で描かれる陸上自衛隊第11師団偵察隊や戦車隊の日常は、ある種の「ちょっと特殊な職業」としての自衛官のプロモーション映像の体裁をなしている。若く、端正な顔立ちの青年たちが、過酷な訓練に身を投じながらも、プライベートでは美しい年上の女性と洗練された恋愛を楽しむ。国家防衛の任に当たる自衛官たちの人間的な側面をアピールし、そのイメージをクリーンで魅力的なものへと刷新しようとする組織の意図が、このトレンディな三角関係の裏側で確実に働いている。
しかし、2020年代という現代の、極めて緊迫した地政学的リスクと国内の政治的混迷の視座からこの「防衛庁協力映画」を振り返るとき、私たちはそこに、笑えない歴史の皮肉と、奇妙な予言性を見て取らずにはいられない。かつて、情痴の果てに、あるいは思想的狂気の果てに、若い自衛官が中国大使館に突入するような衝撃的な事件が現実のものとして語られた時代があった。さらに時代が進んだ現代において、山上徹也という元自衛官の存在が日本社会の根底を揺るがし、あるいは「やす子」のような元自衛官のプロパガンダお笑い芸人がメディアを賑わすなど、自衛隊という存在が持つ記号性は、本作が公開された1990年当時の「のんびりとしたPR」の枠組みを遥かに超えて、生々しく、時には暴力的な現実として私たちの前に立ち現れている。門奈克雄が描いた、訓練で全滅の憂き目に遭いながらも、女のマンションへ帰っていくエリート自衛官たちの姿は、国家の暴力を内包する組織の恐ろしさを脱臭し、消費社会のなかの単なる「記号」へと埋没させた、バブル期ならではの究極の能天気さの象徴なのである。これが許されたのが、バブルという時代だったのだ。わざわざ映画という大画面の表現にするまでもなく、2時間枠のテレビドラマで十分事足りるような内容を、贅沢なロケーションと贅沢なスタッフ、そして最高峰の美男美女を配して映画として仕立て上げる。その剰余そのものが、あの時代の豊かさであり、同時に決定的な貧しさであった。
では、このプラグマティズム(実利主義)と冷徹なリアリズムが横行する現代において、私たちは『マドンナのごとく』の小島優子というヒロインをどう定義づければよいのだろうか。現代の視点から見れば、二人の男を都合よくキープし、自らの精神的安定のために彼らの若さと肉体を消費する彼女に対して、「自己中心的」「他者への誠実さを欠く」といった烙印を押す観客、特に男性は多いかもしれない。どんな美女であっても、決して手放しで称賛され、共感される対象にはなれぬヒロイン。しかし、ジェンダー論という、時に硬直した学問的枠組みを駆逐するほどの、圧倒的な美貌と、それが支える知性と感性、そして肉体美の充溢がそこにあるとするならば、話は別である。
現代における真の「マドンナ」とは、いかなる存在か。それはおそらく、自立したシングルであり、圧倒的な美貌を持ち、なおかつ社会の既存のシステムや、一対一という強迫観念的な婚姻・恋愛制度に縛られない、絶対的な自由度を誇る女性の謂いではないか。この新しいフェミニンな志向、自らの欲望に対してどこまでも忠実であり、男たちを従えるのではなく、自らの世界の一部として等価に配置していく強靭な精神。もし、このような「現代のマドンナ」たちが、その知性と感性、そして強靭な肉体美を携えて一堂に会したならば、それは自衛隊のなかに女性だけで構成された、一個師団をも凌駕するほどの、勇猛果敢な武装組織が誕生する可能性すら孕んでいる。そこにこそ、現代のジェンダー論が真に目指すべき、既成の権力構造を内側から爆破するような、立派なパラダイムシフトがあるはずだ。
妄想をさらに逞しくするならば、この女性たちだけで構成された一個師団、美貌と知性を武器にしたアマゾネスの軍団は、退屈な極東の島国に留まることなく、広い太平洋を軽々と越えて、かつて大日本帝国すら成し遂げられなかった、アメリカ合衆国という巨大な覇権国家をも文化的に、あるいは精神的に駆逐し、あのパールハーバー(真珠湾)における奇襲をも遥かに凌駕するほどの、圧倒的な精神的勝利と活躍を見せてくれるかもしれない。それは、単なる軍事的な衝突ではなく、記号と欲望のハイパーリアルな戦争であり、日本の真の自主独立を心の底から訴える筆者にとっての、生涯消えることのない、果てしなき見果てぬ夢なのかもしれない。
しかし、映画『マドンナのごとく』という、一見すればバブルの泡の中に消えていった凡庸な100分間の虚無の底には、確かにそのような、既存の男社会を統治する「女帝」の誕生を予感させる微かな火種が、名取裕子の眼鏡の奥で、そして一瞬だけ輝くその裸体の表皮で、静かに燻っていたのである。この映画を、単なる「おっぱいが拝めるだけの、中途半端な官能映画」として片付けることは容易だ。しかし、その中途半端さの隙間に、当時の防衛庁の思惑、バブルの過剰な欲望、そして崩壊していく近代の恋愛観が、泥泥(どろどろ)としたスープのように混ざり合っていることを忘れてはならない。私たちがこの映画の虚無と再び対峙するとき、私たちは自らが拠って立つ現代という時代のプラグマティズムの冷酷さを突きつけられると同時に、あの時代が持っていた、他者を、そして世界を過剰に愛することができた、歪んだ包容力への郷愁に囚われる。筆者がこの肉体を失い、死を迎えるその時までに、この日本という国に、男たちの矮小な政治闘争をすべて包み込み、駆逐していくような、初めての女性総理大臣が誕生することを(あれは爬虫類なのでノーカウント)、この映画の「マドンナ」の姿に重ね合わせ、熱狂的な祈願を込めて、ここにこの拙文を爆裂させるように終える時が来た次第である。1990年の札幌の空に消えていった煙草の煙は、いまだ私たちの社会を、静かに、しかし確実に不透明に染め上げているのだ。