映画という名の過激な迷宮において、我々は時に、フィルムの切断という名の「暴力的な奇跡」に遭遇する。東映が1974年に世界へ向けて放った、映画史の極北にそびえ立つ奇画『色情トルコ日記』。山口和彦監督がメガホンを執り、夜の帝王・梅宮辰夫がその文字通りの「巨頭」を引っ提げて暴れ回るこの伝説の一作は、現在、我々の前で奇妙な、しかしあまりにも蠱惑的な変態を遂げて横たわっている。
元々は87分という、当時の東映プログラムピクチャーとしては標準的な体裁を持っていたこの映画が、後年、ある「ビデオ版」として世に送り出された際、わずか30分の短縮版へと姿を変えた。映画の骨格をなすはずの、梅宮辰夫演じるポルノ・ブローカー・駒田拓也が出所し、自らの機能不全に絶望する前半のドラマは、あたかも最初から存在しなかったかのように、刃物で肉を削ぎ落とされるが如くバッサリとカットされている。
しかし、声を大にして叫ばねばならない。この30分短縮版ビデオの出現こそ、東映という映画会社が奇跡的に、あるいは悪魔的な直感によって到達した「神の編集(クレバー・エディット)」だったのではないか、と。
いや、映画ファン、シネフィルの論理からすれば、それは邪道であり、蛮行である。「ノーカット版で出せ! 全編をフィルムの粒子ごと網膜に焼き付けさせろ!」という怒号が沸き起こるのは当然だ。画質は極上とは到底言えず、画面の左右はシネマスコープの快楽を乱暴に剥ぎ取るようにトリミングされ、キャラクターたちの狂態は窮屈なブラウン管のフレームへと押し込められている。だが、このビデオのテープが回転し始めた瞬間、我々は気づくのだ。この編集を行った無名の技師は、現代の観客、いや、全世界のエロス・ハンターたちが真に何を求めているかを、完全に「わかっていらっしゃる」狂者だったということに。
映画の前振りの、前張りの、ドラマとしての整合性を保つためのどうでもいい箇所が豪快に消去された結果、このビデオは、世界中が、そして我々が最も渇望した瞬間――すなわち、世界の至宝シャロン・ケリー(ダイアナ・モンロー)の初登場の瞬間から、破滅的なエンディングまでをノンストップで駆け抜ける、文字通りの「純粋結晶」へと昇華したのである。
天空から降臨するエロスの弾頭――シャロン・ケリーという神話
ビデオの冒頭、物語は観客に呼吸の暇すら与えない。お先真っ暗な拓也が、助手の松とともに荒涼とした風景の中で途方に暮れている。その頭上を、爆音とともに米軍のジェット機が通過したかと思うと、次の瞬間、空に開いたのは純白のパラシュート、そしてその下に吊り下げられているのは、燦然と輝くおっぱいを丸出しにした半裸の金髪美人、シャロン・ケリーである。
このアバンタイトル。この圧倒的なスピード感と不条理。後年、日本のAV界を席巻した帝王・村西とおるは「空からエロが降ってくる」という名言を遺したが、山口和彦と東映は、それを1974年の時点で、米軍の軍事力と金髪美人の肉体という、最もダイレクトで暴力的な形で視覚化していたのだ。空からエロが、それも当時の日本人にとって「アメリカ」そのものの象徴であるかのような豊満な白人美女が、パラシュートで不時着してくる。このワンシーンの衝撃だけで、本作は映画史のいかなる前衛映画をも凌駕する。
拓也にとって、これは「天のお恵み」以外の何物でもない。すぐさま彼女を車に乗せるが、間髪入れずに謎の追跡車が襲いかかり、映画は即座に猛スピードのデッド・ヒートへと突入する。画面はトリミングされ、構図の美学は破壊されているはずなのに、いや、むしろその狭い画面の中で狂ったようにチェイスする車の運動性と、隣で叫ぶ金髪美女の肉体美が、異常なまでの密度で観客の眼球を刺す。
そして、映画はここで最大の「奇跡」を駆動させる。拓也たちがいよいよ窮地に陥り、生と死の境界線に立たされたその刹那――服役以来、死んだように眠り続けていた拓也の「ジュニア」が、突如として猛然と目を醒ますのだ。危機一髪の緊張状態こそが、彼のペニスを復活させる鍵だったという、この医学的かつ喜劇的な設定。これに狂喜乱舞したダイアナは、走る車の中、恐怖を快楽へと反転させ、激しく拓也にのりかかっていく。狂ったように疾走する鉄の塊の中で、言語の壁を越えて絡み合う肉体と肉体。ここから、東映と洋ピンの、映画史上で最も幸福で、最も狂気じみたクロスオーバーの幕が切って落とされるのである。
憑依する巨大な肉体と、日本の夜を揺るがすカタコトの絶叫
翌日からのダイアナの変貌ぶりは、まさに悪魔憑き、あるいは「巨根憑き」とでも呼ぶべき凄まじさである。彼女は拓也の巨大なジュニアに完全に魅了され、その精神までをも支配されたかのように、彼の言いなりとなって日本の夜の街を席巻していく。
ここからの展開のテンポは、短縮版ならではの狂気的な加速を見せる。ダイアナは、普通の女であれば恐怖するであろう「十人もの団体客」を、たった一人で、それも満面の笑みとカタコトの日本語で軽々と相手にし、全員をベッドの上に屍の如く転がしていく。さらには、富と権力を誇り、いかなる女も満足させてきたはずの、精力絶倫を自負する老社長(この老社長を演じる役者の怪演も見事だ)を、その圧倒的な野生のエロティシズムによって文字通り「ノック・アウト」してしまうのだ。
ダイアナが放つ「カタコトの日本語」の破壊力は筆舌に尽くしがたい。それは単なる異国情緒の記号ではなく、言語という理性を解体し、純粋な肉体の躍動へと観客を誘う呪術的な響きを持っている。彼女がハッスルするたびに、拓也の立ち上げた「国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。芸能プロ」には、濁流のように金が流れ込み、事務所は一気に潤っていく。
しかし、この狂騒劇の裏には、映画的な皮肉(アイロニー)が常に横たわっている。これほどまでにダイアナをコントロールし、大金を稼ぎ出している源泉は、ひとえに拓也の「ジュニア」の存在にある。だが、肝心のジュニアは、日常の平穏な状態では全く言うことを聞かないのだ。 拓也は、実の妹である咲子、そしてその情夫である宇野(彼らの頽廃的でアングラな佇まいもまた、70年代東映のドロドロとした魅力を体現している)に、深刻な面持ちで相談を持ちかける。そこで導き出される結論――「生命の危機、あるいは極限の緊張状態においてのみ、勃起する」という、あまりにも業の深い珍しい症状。つまり、拓也が男として輝くためには、常に死と隣り合わせの暴動、あるいは破滅の危機の中に身を置き続けなければならないという、マゾヒスティックな運命がここに決定づけられる。
石油、ヤクザ、そして一億円のべテン――陰謀の渦中で狂い咲くエロス
物語は単なる風俗喜劇に留まらない。突如として、映画は70年代初頭のオイルショックという時代背景を貪欲に巻き込み、冷戦期の国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。陰謀劇の様相を呈し始める。
再びやくざ風の男たちに襲われ、本能的な身の危険を感じた拓也は、制御不能になりつつあるダイアナを、一時的に高級料亭へと売り飛ばす。だが、その料亭の奥座敷で待っていたのは、暗黒街の元ボス・角田と、政財界を裏で操る商事会社の黒幕社長・山仁であった。
なぜ、一人の金髪ポルノスターに、これほどまでの巨悪が群がるのか。ここで明かされる驚愕の事実。ダイアナは、本人が全く預かり知らぬうちに、密かに情を通じた米軍将校から、「横流し石油の秘密文書」という、国家を揺るがす極秘マイクロフィルム(あるいは機密書類)を託され、それを携えて日本にやってきていたのだ。
だが、映画の神様は、その超一級の機密文書を、巨悪ではなく、最も不誠実で最も軽薄な男・拓也の手に転がり込ませる。文書を手に入れた拓也は、その価値を瞬時に見抜き、映画史に残る大胆不敵な「べテン(詐欺)」を山仁に仕掛ける。70年代東映のピカレスク・ロマンの血脈が、ここで一気に沸騰する。拓也は、知略とハッタリ、そして松の絶妙なアシストにより、山仁から当時の国家予算レベルの価値を持つ、現金「一億円」を鮮やかに巻き上げてしまうのだ。
当然、裏切られた巨悪が黙っているはずがない。映画の後半は、一億円の入ったアタッシュケースを抱えた拓也とダイアナ、そして彼らを地の果てまで追う、多勢の殺し屋たちとの文字通りの「デス・レース」へと突入する。
絶頂の中の激突、そして虚無の青空へ
このクライマックスのカーチェイスこそ、山口和彦監督が映画史に刻んだ、最も変態的で、最も美しいスペクタクルである。
追手の乗る何台もの車が、拓也たちのスポーツカーを追い詰める。銃弾が飛び交い、タイヤが悲鳴を上げる。その猛烈に疾走する、死の恐怖に満ちた車内において――そう、またしても拓也のジュニアが、極限の緊張状態によって猛然と勃起を果たすのだ! 死を前にして屹立するペニス。それを見たダイアナは、ハンドル含有安全氣囊的方向盤,無法協助運送購買,若無含安全氣囊,按下確認即可下標。を握る拓也に、野生の獣のように抱きつく。もはや車を運転しているのか、セックスをしているのか判別がつかない、人車一体、いや、「性車一体」の狂気の空間。
そして、この映画が真に天才的なのは、彼らを追撃していた殺し屋たちの自滅の理由である。彼らは、拓也とダイアナが、猛スピードで疾走するオープンカー(あるいはフロントガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 越し)の中で、激しく、あまりにも激しく絡み合い、互いの肉体を貪り合っているその凄まじい光景を、文字通り「目の当たり」にする。 プロの殺し屋たちが、そのあまりにも純粋で、あまりにも圧倒的なエロスのエネルギーに、呆気にとられ、正気を失い、凝視したままハンドル含有安全氣囊的方向盤,無法協助運送購買,若無含安全氣囊,按下確認即可下標。を操作することすら忘れ、次々とコントロールを失ってガードレールへと激突、爆発炎上していくのだ。エロスがタナトス(死)を凌駕し、エロそのものが物理的な兵器となって敵を殲滅する。このカタルシスを前にして、我々は笑うべきか、あるいは涙を流すべきか。
命からがら生き延びた二人は、そのままラブホテルのベッドへと雪崩れ込み、全てを焼き尽くすかのように激しく燃え上がる。これまでのすべてのカット、すべてのトリミング、すべての画質の悪さは、この一瞬の「絶頂」のために用意された儀式だったのだと、観客は確信する。
しかし、東映のピカレスクは、決して甘いハッピーエンドを用意しない。 翌朝、朝陽が差し込む部屋で拓也が目を覚ました時、ベッドの隣は冷たくなっていた。ダイアナの姿はなく手紙を残すのみ。そして、彼が命懸けで手に入れたはずの「一億円」もまた、綺麗さっぱり消え失せていた。 拓也が狼狽し、自らの愚かさに気づいたその時、カメラは青空へとパンする。そこには、一億円を抱え、日本の男たちを文字通り骨までしゃぶり尽くしたダイアナ――シャロン・ケリーが、優雅にエコノミークラス(あるいはファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ストクラス)のシートに身を横たえ、既に「機上の人」となってアメリカへと飛び去っていく姿があった。 後に残されたのは、再び機能不全に陥るであろう拓也の肉体と、日本のうだつの上がらない、しかしどこか爽快な虚無の空だけである。
なぜ東映はこの歴史的遺産を闇に葬るのか
これほどの傑作でありながら、なぜ本作は今日、歴史の闇に埋もれたままなのか。 数年前、日本の映画界、そして歌謡界を牽引した偉大なるスター・梅宮辰夫が逝去した際、私は、いや全世界の東映不良性感度映画の信奉者たちは、今度こそこの『色情トルコ日記』がデジタルリマスターされ、追悼の意味を込めて正規にソフト化されることを、血の涙を流しながら期待した。しかし、東映は全くその気配を見せなかった。これだから東映は……と、映画の神を呪いたくなる。
振り返れば、今から約10年前、奇跡的にニュープリントフィルムが製作され、東京都内の名画座でひっそりと上映されたことがあった。あの時、劇場の暗闇で、大スクリーンに映し出されるシャロン・ケリーのみずみずしい肉体と、梅宮辰夫の野生味溢れる演技に震えた観客は、ほんの一握りの幸運な者たちだけだ。それ以来、本作は再びフィルム缶の奥底へと封印され、陽の目を見ていない。
東映は一体、何を恐れているのか。 やはり、タイトルにある「トルコ」という、かつての特殊浴場の呼称(現在は国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。的な配慮から「ソープランド」へと改称された)が、現代のコンプライアンスという名の、表現を去勢するシステムに引っかかっているのだろうか。 だが、その言い訳は通じない。なぜなら、名優・芹明香の代表作である『札幌・横浜・名古屋・雄琴・博多 トルコ渡り鳥』、原悦子・片桐夕子出演の『トルコ110番 悶絶くらげ』(『ソープ110番 悶絶くらげ』と改題)といった作品群は、すでに配信もされ、正規にソフト化も果たしているからだ。タイトルにその文字が入っているからといって、作品そのものを存在しないものとして扱う理由は、どこにもないはずだ。
海の向こうを見渡せば、世界のボンクラ映画、カルト映画へのリスペクトは、いまや最高潮に達している。 『ハリー・リームスの生贄の女たち』の完全版はまだ手に入らないかもしれないが、あのクリスチナ・リンドバーグが日本を震撼させた『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』や、サンドラ・ジュリアンが狂い咲いた『現代ポルノ伝 先天性淫婦』、さらには『徳川SEX禁止令 色情大名』といった、かつて日本では「恥部」とされていたはずの東映ピンキー・バイオレンスや洋ピン絡みの奇作たちが、海外のレーベルの手によって、最先端の4Kレストアなどを施され、豪華なブックレット付きのブルーレイとして次々と世界中でリリースされているのだ。
なぜ、日本の、東映の、この『色情トルコ日記』が、その狂宴の列に加わることができないのか。
全世界のシャロン・ケリーファンよ、蜂起せよ!
今こそ、世界中の、エロスを愛し、映画の土着的なエネルギーを信じるファンが声を上げる時だ。
イギリスのArrow Video、アメリカのMondo Macabro、オーストラリアのUmbrella EntertainmentやImprint Films、あるいはヨーロッパのカルトの牙城であるKlubb Super 8や、エロティック・シネマの救世主たるMelusine(Vinegar Syndromeの姉妹レーベル)よ! あなたたちの手で、この『色情トルコ日記』のオリジナル87分ノーカット版のネガフィルムを東映の倉庫から発掘し、まばゆいばかりの4K、あるいは2Kの高画質でレストアし、豪華BOX仕様のブルーレイとして世界に解き放ってくだちゃい!
画面の左右を切り取られた30分のビデオ版であれほどの爆発力を持っていた映画が、もしも公開当時のオリジナル・シネマスコープのサイズで、シャロン・ケリーのおっぱいが、梅宮辰夫のギラついた眼光が、70年代の新宿や熱海の猥雑な風景が、完全な色彩を取り戻して蘇ったとしたら――その時、世界の映画史は確実に書き換えられる。
これは単なるエロ映画ではない。冷戦下の日本という、アメリカの影に怯えながらも、その圧倒的な富と肉体に憧れ、そしてそれをべテンにかけて奪い返そうとした、歪んだ、しかし狂おしいほどパワフルな「日米肉体交渉史」の記録なのだ。
全世界の、そして全宇宙のシャロン・ケリーファンが、あのカタコトの日本語と、空から降ってくるエロスの衝撃を、もう一度、今度は完璧な形で目撃するその日まで、我々はこの『色情トルコ日記』という名の、未完の熱病を患い続けなければならない。東映よ、眠れる巨頭を、今すぐ呼び覚ませ!