80年代スラッシャー映画という、血と脂ぎった欲望と低予算の創意工夫が渦巻く深淵において、1986年という年はあまりにも奇妙で、あまりにも残酷な過渡期であった。『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』が打ち立てた絶対的な血の黄金律が徐々に自己模倣とマンネリの泥沼へと沈み込み、 MPAA(アメリカ映画協会)の検閲という名の冷酷な大鉈が全米の映写室から肉片と流血を容赦なく削ぎ落としていた時代。だが、まさしくその死に体となったジャンルの荒野にこそ、すべての文脈を徹底的に無視し、ジャンルの境界線を木っ端微塵に粉砕しながら狂い咲いた「墓場からの異形」が存在した。それこそが、ウィリアム・フルエット監督作品『キラー・パーティー/聖女のブラック・ミサ』(原題: Killer Party)である。
本作は、80年代ホラーという巨大な迷宮における、最も混沌とし、最も過小評価され、そして何よりもあまりにも多面的な顔を持ちすぎた不滅のカルト映画だ。ある者はこれを編集で肉を削がれた惨めなスプラッターの出がらしと切り捨て、またある者は「スラッシャー、キャンパス・コメディ、超自然ポルターガイスト、ロック・ミュージックビデオが融合した極上のC級楽園」と熱狂的に崇める。映画が始まった瞬間に観客の梯子を叩き外し、観客が「これは一体何の映画を見せられているのか?」と頭を抱えた瞬間に、まったく別のジャンルへと凄まじい角度で急転換を遂げるこの映画の構造は、まさに80年代B級映画界が放った最大の奇策であり、狂気の一撃にほかならない。
物語の第一幕、あるいは「映画以前の映画」からして、本作の放つ欺瞞とペテンの精神は完璧に研ぎ澄まされている。カメラは薄気味悪い霧が立ち込める深夜の墓地を這うように進み、古びた教会のなかで執り行われる葬儀をとらえる。棺桶の前に佇む親族、そして義母の遺体に向かって罵詈雑言を浴びせかける嫌悪に満ちた義理の娘。その瞬間、棺の蓋が跳ね上がり、腐肉の残る死体が飛び出して悲鳴を上げる女を棺の中へと引きずり込む! ECコミックの禍々しい一ページを思わせる完璧なゴシック・ホラーの開幕——と思いきや、火葬場の炉へと棺が押し込まれた直後、画面は唐突にドライブイン・シアターへと切り替わる。我々が見せられていたのは、車内でポップコーンを貪るカップル、エイプリルとストッシュが見ていた劇中劇「映画の中の映画」に過ぎなかったのだ!
だが、メタ構造の罠はこれだけに留まらない。ポップコーンを買いに売店へ向かったエイプリルが、無人の売店で途方に暮れ、車に戻ると、恋人のストッシュはすでに凄惨な姿でゾンビ化している! 悲鳴を上げる少女、襲いかかるゾンビ、そして最高潮に達する恐怖! しかし次の瞬間、画面にはタイポグラフィが踊り出す。ヘヴィ・メタルバンド「ホワイト・シスター(White Sister)」の楽曲『April』のミュージックビデオ——そう、我々は二重の偽プロローグ、虚構の二重底によって完全に欺かれていたのだ。そして、そのMVを自室のテレビでだらしなく眺めている一人の女子学生の姿が映し出されたとき、ようやく『キラー・パーティー/聖女のブラック・ミサ』という本編の長い長い迷宮への扉が開かれるのである。この『スリラー』のパロディとロックスピリットを悪魔合体させたような前代未聞の「二重の騙し絵」アバンタイトルだけで、本作がただのスラッシャー映画に収まるつもりなど毛頭ないという狂気の宣戦布告が完了している。
本編の核をなすのは、シグマ・アルファ・パイ女子学生支援会(ソロリティ)への入会を目指す3人のうぶなプレッジ(新入会員候補)たちだ。生真面目で予知能力めいた虫の報せを感じ取るジェニファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。(ジョアンナ・ジョンソン)、メガネ姿の奥手なオタクっぽさと爆発的なセクシーさを同居させたアンビバレントな魅力を持つフィービ(エレイン・ウィルクス)、そしてSFXと特殊メイクの技術に長け、いたずら心と野性に満ちたヴィヴィア(シェリー・ウィリス=バーチ)。この魅力的な三者三様のヒロインたちが、過酷で屈辱的な「ヘル・ナイト(地獄の夜)」の儀式に挑むことになる。
ソロリティの絶対的な女王として君臨する意地悪なメラニー(テリー・ホークス)は、最終試験の舞台として、キャンパスの端に荒廃したまま放置された「ベータ・タウ」の古いフラタニティ(男子学生寮)を指定する。そこは22年前、惨劇の血で染められた忌まわしき場所であった。かつてその館で行われた過激なイニシエーション(新入生いじめ)の最中、アランという名の若き新入生が、惨憺たる「事故」によって命を落としていたのだ。以来、封印され、時の流れに取り残されたゴーストハウス。ジェニファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。は館に足を踏み入れた瞬間に黒々とした死の気配を感じ取るが、ヴィヴィアが持ち前の特殊効果を駆使して仕掛けた「幽霊屋敷のいたずら」によって緊張は爆破され、三人は無事に合格を果たす。しかし、メラニーが下した本当の条件は、4月1日の「エイプリルフール」にその呪われた館で伝統のダンスパーティーを開催し、ヴィヴィアのSFXいたずらで男子学生たちを恐怖のどん底に陥れることだった。
ここから映画は、80年代スラッシャーの文脈をあっさりと脱ぎ捨て、まるで『アニマル・ハウス』や『ポークス』の直系であるかのような、お色気と下ネタとくだらない大学生活のドンチャン騒ぎ(キャンパス・コメディ)へと脱線していく。ジャグジーでくつろぐ全裸の女子学生たちに対して、頭の悪い男子学生どもが蜂の入った瓶を投げ込むという、物語の脈絡など微塵もないお色気ハプニング。ヤギの目玉を食べさせられる悲惨な儀式。さらには、ポール・バーテル(『チーチ&チョン/タコス船の奇蹟』『ロックンロール・ハイスクール』で知られるカルト映画界の至宝)が、カタブツで説教くさい英語教授ジート役として登場し、絶妙なコメディリリーフを披露する。この「恐怖の不在」と「バカ騒ぎの連続」は、一見すると映画としての焦点を著しく欠いているように見えるかもしれない。しかし、この70分近くに及ぶ脱線こそが、後半に訪れる地獄絵図の落差を極限まで高めるための、緻密かつ狂暴な仕掛けなのだ。
映画が真の「正体」を露わにするのは、残りのわずか15分から20分、祭りが最高潮に達した深夜のパーティ会場である。ベータ・タウ館に満ちる怨念、22年前に死んだアランの不念の霊魂が、ついに暗闇から覚醒する。しかし、そこで現れるシリアルキラーの姿は、我々の想像を遥かに超えた異様なビジュアルであった。革製のアンティーク古董商品,有可能客製化、修改、換過零件,請下標錢注意。な「深海潜水服」に身を包み、鋭利な「三叉槍(トライデント)」を手に引っ提げた殺人鬼が、狂乱する若者たちのただ中にのしのしと歩み出てくるのだ!
なぜ潜水服なのか? なぜ三叉槍なのか? 理屈や合理性を求める者は、この映画の持つ破壊的なエネルギーの前に平伏するほかない。潜水服の重厚な金属ヘルメットから漏れる不気味な呼吸音と、ネオンライトに照らされる三叉槍のギラつき。潜水夫の格好をしたシリアルキラーが、パーティの熱狂のなかで次々と学生たちの肉体を突き刺し、切り刻み、殺戮の宴を繰り広げるシークエンスは、80年代スラッシャー史における最も狂暴で美しく、異彩を放つ瞬間の一つだ。
だが、ウィリアム・フルエット監督と脚本家バーニー・コーエン(あの『十三日の金曜日 PART4/完結編』を手掛けた伝説的シナリオライター)が仕掛けた真の悪夢は、この潜水服の殺人鬼すらも「前座」に過ぎなかったという事実である! 物語の最終盤、映画はスラッシャーというジャンルそのものを突如として破棄し、オカルト・ポルターガイスト、さらには『エクソシスト』や『死霊のはらわた』を彷彿とさせる「悪霊憑依ホラー」へと超絶的な大旋回を遂げるのだ。
かつて死んだアランの怨霊は、潜水服を着て徘徊するだけでは飽き足らず、ヒロインの一人の肉体を乗っ取り、泡を吹き、白目を剥き、狂気の発作とともに凄惨なポルターガイスト現象を引き起こす。天井を這い回り、屋根の上に突如として出現する憑依少女の怪奇なシルエット。壁を破壊し、物理法則を無視して襲いかかる超自然的な力。古典的なスラッシャー映画を見ていたはずの観客は、気づけば悪霊が吹き荒れる超自然の地獄絵図の真っ只中に放り込まれている。このあまりにも唐突で、脈絡を完璧に無視したクライマックスの「ジャンル崩壊」こそが、『キラー・パーティー/聖女のブラック・ミサ』を他のあらゆる有象無象のスラッシャーから孤立させ、唯一無二のカルトへと昇華させている根源的なパワーなのである。
本作を議論する上で避けて通れないのは、その不遇な制作背景と、検閲という名の惨劇だ。元々は『April Fool's Day(エイプリルフール)』というタイトルで制作が進められていたものの、同年にパラマウントが同名の名作スラッシャー『エイプリル・フール/華麗なる宴』(フレッド・ウォルトン監督)を公開することが決定したため、急遽『Killer Party』へと改題を余儀なくされた。さらに追い打ちをかけたのが、MPAAによる徹底的なカット攻撃である。
元々のウィリアム・フルエットのビジョンでは、三叉槍で刺し貫かれる女子学生の鮮血、切断される手首、そして過激なゴアエフェクトが大量に盛り込まれていた。当時のホラー雑誌『Fangoria』の誌面には、完成版の映画には存在しない凄惨なゴアショット(三叉槍で惨殺される女性や血まみれのカット)が掲載されており、監督がいかに血みどろのグランド・ギニョールを目指していたかが伺える。しかし、度重なる検閲の刃によってそれらの肉片は容赦なく切り落とされ、劇場公開版では驚くほどマイルドで、血の量の少ない「去勢された」状態へと変貌してしまった。
一部の批評家やスラッシャー映画の原教旨主義者たちは、この血の欠如を捉えて「肉を削ぎ落とされた出がらし」「退屈なキャンパスコメディ」と非難した。しかし、それらの批判はあまりにも浅薄と言わざるを得ない。たとえ過激な残虐描写が奪われようとも、本作の骨組みに宿る「80年代の異常なエネルギー」と「撮影監督ジョン・リンドリーによる過剰なまでに美しい映像美」は決して消し去ることができないからだ。
のちに『スネーク・アイズ』や『フィールド・オブ・ドリームス』『スニーカーズ』『カラー・オブ・ハート』といったハリウッドの大作・名作を手掛けることになる名撮影監督ジョン・リンドリーが捉えたライティングとカメラワークは、B級ホラーの枠組みを遥かに超えた美しさを誇っている。暗闇に漂う濃密な煙、青とピンクの強烈なネオンのコントラスト、ベータ・タウ館の頽廃的な木造建築の質感、そしてカナダロケ特有のレンズをかすめる本物の雪の結晶——。低予算映画でありながら、画面の端々に宿るプロダクション・デザインの高さと光の美学は、観客の視覚を絶え間なく魅了し続ける。
さらに、この映画を80年代の至高のタイムカプセルせしめているのが、その豪華絢爛なサウンドトラックだ。ローラ・ブラニガンのエネルギッシュな楽曲、KC&ザ・サンシャイン・バンドのディスコ・ビート、そして劇中で圧倒的な存在感を放つホワイト・シスターのヘヴィ・メタル・サウンド。80年代のポップ・カルチャー、ビッグ・ヘア、ピンク色のファッション、巨大なメガネ、そしてビッグ・ビートが、フィルムの至る所から溢れ出し、観客をあの狂乱の時代へとタイムスリップさせる。これは単なるホラー映画ではない。80年代という時代が持っていた「歪んだ美意識とエネルギー」への、最も深く、最も誠実なオマージュなのだ。
キャスト陣のパフォーマンスもまた、このカルト映画に計り知れない魅力を与えている。『シックスティーン・キャンドルズ』のエレイン・ウィルクス、『ファイナル・エグザム』のシェリー・ウィリス=バーチ、そしてジョアンナ・ジョンソン。彼女たちが演じるヒロインたちは、単なる「殺されるための肉片」として配置されているのではない。互いに友情を深め、くだらないイタズラに興じ、恋に悩み、生き生きとキャンパスライフを謳歌する「等身大の少女たち」として丁寧に描かれている。だからこそ、最終盤でベータ・タウ館が狂気の大惨劇へと変貌し、彼女たちが悪霊の犠牲となっていくプロセスには、スラッシャー映画特有の不条理な切なさと本物の戦慄が宿るのだ。
男性陣に目を向けても、『エンドレス・ラブ』で一躍脚光を浴びたマーティン・ヒューイットの甘いマスクと、ラルフ・シーモアの怪しいオタク的怪演が見事な対比をなしており、彼らの人間関係のドラマだけでも一本の青春映画として成立するほどの強度を持っている。そして何より、ポール・バーテルが存在するだけで画面に漂う圧倒的なカルト的安心感! 彼が演じる教授のキャラクターが、惨劇の渦中でどのような運命をたどるのか——その結末を含め、映画ファンへの目配せに満ちた配役は完璧と言うほかない。
『キラー・パーティー/聖女のブラック・ミサ』という映画は、初見の観客に対して決して親切な映画ではないかもしれない。最初の1時間はスラッシャー映画としての死体数を稼ぐことよりも、バカバカしくも愛おしいキャンパスのドタバタ劇に費やされ、観客は自身の忍耐力を試されているかのような錯覚に陥るだろう。しかし、そのドタバタ劇の裏側で、ベータ・タウ館の呪いは着実に、静かに、そして確実に暗雲のように立ち込めている。
そして訪れる、怒涛のラスト15分。潜水服を着たシリアルキラーによる無差別殺戮、突如として牙を剥くポルターガイスト、白目を剥いて叫ぶ憑依少女、そしてトワイライト・ゾーンの領域へと足を踏み入れるような、衝撃的で後味の悪いラストシーンの切れ味! 映画が終わった瞬間、我々は自分が「スラッシャー映画」「コメディ映画」「オカルト映画」「ヘヴィメタMV」のすべてを同時に、過剰摂取させられたことに気づき、激しい目眩とともに狂喜乱舞することになるのだ。
1980年代半ば、スラッシャーというジャンルが自らの血で溺れ死にそうになっていたあの時代に、ウィリアム・フルエットとバーニー・コーエンは、「手元にあるすべての材料を鍋に放り込み、極火で煮詰める」という狂気の選択をした。血みどろのエフェクトが検閲によって奪われようとも、彼らがフィルムに焼き付けた「映画的混沌」と「ジャンル破壊のエネルギー」は、何十年という時を超えてなお、我々怪奇映画マニアの心を激しく揺さぶり続ける。
『キラー・パーティー/聖女のブラック・ミサ』は、単なる80年代の忘れ去られたB級ホラーなどではない。それは、映画という表現媒体が最も自由で、最も予測不能で、最も狂気に満ちていた時代の記憶であり、スプラッターとオカルトと青春コメディが奇跡的な交差を果たした、絶対的に唯一無二の「C級スリーズ(悪趣味)天国」なのだ。スラッシャー映画の神々は、間違いなくこの狂った傑作の上に、眩いばかりの血塗られた光を投げかけている。我々はこの不滅のカルト映画が放つ狂乱の宴に身を投げ出し、ただただ歓喜の悲鳴を上げ続けるしかないのだ!