バブルの残り香が深夜の都市空間に妖しく漂い、深夜番組が実験的で尖り狂っていた1991年秋。世間はまだ「24時間戦えますか」の虚妄と、いつ果てるとも知れぬ宴の熱狂の残像に酔いしれていた。その狂騒の影で、ひとつの伝説的「怪作」が産声を上げた。フジテレビの深夜枠でひっそりと、しかしあまりにも扇動的に放映された全編ニューヨークロケ・ドラマ、それが『バナナチップス・ラブ(バナナチップス・ラヴ)』である。
このドラマの革新性と、そこから噴出し、後に日本中を翻弄することになる監督・高城剛という謎めいた才能の爆ぜ方は、今振り返っても正気の沙汰ではない。当時のテレビ界が持っていた巨大な制作費と「何をやっても許される」という深夜の無法地帯感が結実した、まさに時代のあだ花であり、同時期にシーンを席巻した『いかすバンド天国(イカ天)』に代表されるバンド天国運動やアマチュアリズムの狂乱と見事なまでにシンクロした、90年代カルチャーの巨大な特異点だったのである。
バブル終焉のモラトリアムと深夜番組黄金期の狂気
1991年の秋、日本はバブル経済が弾け飛んだ直後という微妙なフェーズにあった。実体経済は急速に冷え込みつつあったが、街にはまだ「お気楽な消費文化」の惰性が充満していた。世の中全体が、目的地を失ったまま高速道路を暴走し続けているような、奇妙で過剰なモラトリアム期間。そんな時代、世間の隅っこで不条理な現実に打ちのめされていた若者たちの魂を救済(あるいは狂わせた)のが、フジテレビの深夜番組群であった。
『カノッサの屈辱』、『BEAT UK』、『カルトQ』……。サブカルチャーとインテリジェンスが奇跡的なブレンドを見せ、お茶の間のテレビ画面を洗脳していった時代。その「深夜番組黄金期」の最前線に、突如として落とされた巨大な爆弾が『バナナチップス・ラブ』だった。
“無目的なモラトリアムエイジに送るミックスドカルチャーのラブストーリー”。そう謳われた本作のプロットは、一見すれば当時の流行りだったトレンディドラマの系譜に見える。目的も金もなくNYに降り立った主人公のリサ(松雪泰子)が、奇妙な住人たちに揉まれ、騙され、すれ違いの果てに帰国するという、身も蓋もない散文的なストーリーだ。
しかし、その実態は「ドラマ」という枠組みを借りた、巨大な映像的実験であり、サブカルチャーのコラージュ作品だった。
スパイク・リーの洗礼とNY雑多カルチャーの超絶シャッフル
『バナナチップス・ラブ』の映像言語を語る上で避けて通れないのが、スパイク・リーの映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)からの強烈な感化である。広角レンズを使い、カメラを大胆に傾け、被写体の顔面を画面の端に斜めに強烈にレイアウトする構図。これはスパイク・リーがブルックリンの狂気と人種摩擦を描き出すために用いた技法であり、同時に日本のアニメーション(金田伊功らのパースを効かせたダイナミックなレイアウト)の残像をも想起させる。
高城剛はこの手法を完全に取り込み、徹底的にサンプリングした。
NYの色鮮やかで猥雑な街並み。その中を往来する、頭のネジが数本飛んだ住人たち。
道端で絶叫しながら重ね着したTシャツを一枚ずつ脱いで売りつける男(2枚買うとディスカウント!)
公園のベンチで延々とアメリカンジョークのぼやき漫談を繰り広げる2人組のおっさん
階下の巨漢クレイマーで、ソ連崩壊直前の混乱を背負ったイワン
リサに粘着し続けるピザ屋のデリバリー、イキー(スパイク・リーの実弟、サンキ・リー本人が怪演!)
本人役で唐突に現れるファンクの神様、ブーツィー・コリンズ
さらにはビートニクの巨頭アレン・ギンズバーグや、LSDの教祖ティモシー・リアリー、さらにはウィリアム・バロウズといった、カウンターカルチャーの神々までもが背景の「背景」として画面に溶け込む
そして何と言っても視聴者の脳裏に焼き付いて離れないのが、アパートの上に住むドラッグクイーン(おカマ)の双子、ジョンとポールである。本業はイラストレーターだのテレビプロデューサーだの噂された彼ら(なんとノンケという説も!)が、甲高い高笑いと共に「BULL'S EYE!!(大当り〜!)」と叫び、毎回ラストに「さぁ〜て、次回(じぃかい)は?」「んがぁぐぐ」と『サザエさん』の次回予告パロディを繰り出す不条理さ。
これらの怪しすぎるニューヨーカーたちが、物語の脈絡とは関係なくカットインされ、たたきつけるようにシャッフルされていく。ストーリーなどというものは単なる「刺し身のツマ」に過ぎず、本質はNYという街が発するエネルギッシュで凶暴なヒップホップ精神、そして多文化(ミックスドカルチャー)の混沌そのものを画面に叩きつけることにあったのだ。
このカオスな空間を優しく包み込んだのが、藤原ヒロシやDUB MASTER Xによるサウンドトラックである。淡くセンチメンタルで、ダブの残響が心地よく響くアンビエントな音楽。エネルギッシュな街のノイズと、センチメンタルなダブ・サウンド。この対比の美学こそが、当時としては10年時代を先取りしていた革新的な映像美の正体だったのである。
「月の裏で会いましょう」と渋谷系前夜のグルーヴ
この過剰なドラマを象徴するフラッグシップとなったのが、オリジナル・ラブ(ORIGINAL LOVE)によるオープニングテーマ「月の裏で会いましょう」であった。
当時はまだ5人組だったオリジナル・ラブ。田島貴男のあの太く濃密で、どこか怪しげな色香を漂わせるヴォーカルが深夜のブラウン管から流れてきた瞬間、全国の感度の高い若者たちの背筋に走った電撃は、今なお語り草である。
この曲には有名な逸話がある。ドラマのために書き下ろされた初期テイクを聞いた高城剛が、「テレビなんだからもっと派手に、イントロなしでサビからぶち込んでくれ!」とスパッとダメ出しをしたというのだ。そうして作り直されたサビ始まりの疾走感あふれるアレンジは、まさにテレビというメディアの特性を見抜いた高城のプロデュース能力の賜物であり、結果としてオリジナル・ラブにとって初のメジャーでのSmash Hit(チャート最高86位)をもたらすこととなった。
「街の奇跡を あなたにあげたい……」
ネオGSの泥臭さを脱ぎ捨て、アシッドジャズやファンク、ソウル、ブラックミュージックの元ネタを見事に解釈・再構築したその洗練されたサウンド。渋谷の街角で配られるフライヤーの向こう側にあった「何か新しい音楽の波」が、はっきりと形を成した瞬間だった。フリッパーズ・ギターが解散し、世間が空虚さを抱えていたその狭間に、田島貴男という「首の長い謎めいた男」が圧倒的な歌唱力で降臨したのだ。後に本人が「俺は渋谷系じゃないぞ!」とライブハウスで咆哮したというロックな男気も含めて、この時代における「月の裏で会いましょう」のインパクトは絶大であった。
監督・高城剛という現象――「イカ天」の波からハイパーメディアへ
ここで、この『バナナチップス・ラブ』という狂気作を世に送り出した張本人、高城剛という男について論じなければならない。
彼は一体何者だったのか?
1980年代後半、TBSの『三宅裕司のいかすバンド天国』(通称:イカ天)が空前のバンドブームを巻き起こし、土曜の深夜に素人やインディーズの音楽家たちが一躍スターダムに駆け上がるという、狂乱の「アマチュアリズムの民主化」が起こっていた。音楽シーンが『イカ天』によって地殻変動を起こしていた同時期、映像の領域でまさにその「イカ天精神」をひとり体現していたのが高城剛であった。
映像作家として彗星のごとく現れた彼は、従来のテレビ業界の重苦しい徒弟制度やお約束を根底から笑い飛ばした。手持ちカメラの機動力、CGやグラフィックデザインのいち早い導入、VJ感覚での映像カットアウト。彼は「専門家」であることを拒絶し、あらゆるメディアを軽やかに横断するスタイルを確立していく。
『バナナチップス・ラブ』の劇中で、自身もメガネをかけた不気味な住人「トラオ」として出演し、太宰治の『人間失失格』をブツブツと音読しながら怪演を見せていた姿を覚えているだろうか。監督自らが演者としてフレームに侵入し、作品そのものを茶化し、解体してみせる。このセルフパロディ的なスタンスこそが、後に彼が自ら名乗ることになる「ハイパーメディアクリエーター」という怪しすぎる肩書の原点であった。
彼の登場は、テレビ界における「イカ天」であった。プロとアマチュア、高尚な芸術と安価なサブカルチャー、東京と世界、その境界線をバナナの皮で滑るように飛び越えて見せたのである。
その後、高城は『アルファベット2/3』(主題歌:郷ひろみ「常夏のシエスタ」、スチャダラパーや高橋幸宏、ちわきまゆみ、村上淳ら豪華ゲストが乱入し著作権の絡みで二度と再放送できない伝説の番組)や『彼の太陽、彼女の月』といったドラマを手掛け、一卵性双生児的なサブカル映像作品を連発。さらにはSTUDIO VOICE誌上での名コラム『大穴イッパツ』の連載などを通じて、90年代のクリエイティブ・アイコンとして君臨することになる。
ポップスターとしての高城剛、そして狂乱の結婚と離婚
90年代を駆け抜けた高城剛の存在感は、2000年代に入るとさらに異次元の領域へと突入する。時代の最先端を走り続ける「時代のノマド(遊牧民)」として、世界中を旅しながらガジェットや最先端テクノロジーを論じる一方で、彼の私生活は日本中のワイドショーを激震させる巨大なポップカルチャーの渦へと巻き込まれていった。
そう、女優・沢尻エリカとの電撃結婚(2009年)と、その後の泥沼の離婚劇(2013年決着)である。
当時のメディアの叩きようは凄まじかった。22歳年下のトップ女優と、胡散臭い肩書を持つ(と世間から見なされていた)クリエイターの結婚。誰もが「なぜ彼なのか?」と首をかしげ、ワイドショーのリポーターたちは連日彼を追い回した。しかし、かつて『バナナチップス・ラブ』で不条理なNYの雑踏を冷ややかに、かつ愛おしそうにカメラで切り取っていた高城剛にとって、その狂乱のワイドショー騒動すらも、自らが仕掛けたひとつの「ハイパーメディアなパフォーマンス」だったのではないか。
結婚契約書に詳細なプライベートのルール(浮気した際の罰金条項など)を盛り込み、世間の倫理観を徹底的に逆なでしてみせたその手法は、かつてNYのアパートでドラッグクイーンに「BULL'S EYE!!」と叫ばせ、サザエさんのパロディをやらせていたあの不条理な演出手法と全く同根である。
世間が彼を「怪しい胡散臭いおっさん」と叩けば叩くほど、彼は高笑いしながらドローンを飛ばし、オーガニックフードを食し、世界中のクラブを回ってDJをやり、Vaporwaveやデジタルノマドの概念を誰よりも早く実践してみせた。
結婚も離婚も、メディア狂騒曲すらも、すべては彼という才能が撒き散らした「巨大な演出作品」の一部だったのだ。彼はいまだに何にも縛られず、時代の数歩先を軽やかに逃走し続けている。
『バナナチップス・ラブ』が遺したもの
話を1991年の秋に戻そう。
日本人キャストのセリフが全員見事なまでに棒読みで、ボビー大倉や渡辺真起子の演技があまりに大映ドラマ的で笑いを誘い、田村翔子の取り巻きのカラフルな帽子をかぶった三人組(チエコ・ビューティーら)が画面を賑やかし、何より主演の松雪泰子が圧倒的な透明感と破壊的な可愛らしさで光り輝いていた、あの奇跡のような12話。
『バナナチップス・ラブ』は、単なる懐かしの深夜ドラマではない。
それは、バブルの終わりと同時に訪れた「何でもあり」の文化の混沌を、映像というスープの中で煮詰めた究極のポタージュであった。スパイク・リーのサンプリング、藤原ヒロシのDUB、オリジナル・ラブの渋谷系ポップネス、イカ天時代のアマチュアリズムの熱狂、そして高城剛という異質な才能の開花。
あの金曜の深夜、テレビの前にかじりついていた僕たちは、単にドラマを見ていたのではない。誰も見たことがない新しい時代の「空気」を、ブラウン管の走査線越しに必死に吸引していたのだ。
時が流れて2020年代となった今、世界はあまりにも整然とし、効率化され、不条理なものや怪しいものはアルゴリズムによって綺麗に排除されるようになってしまった。だからこそ、あの全編ニューヨークロケの、支離滅裂で、スノッブで、クレイジーで、どこまでもロマンティックだった『バナナチップス・ラブ』の不夜城のような輝きが、眩しいほどに愛おしい。
リサがNYの路上で酔っ払って「ニューヨークのバカヤロー!」と絶叫し、頭上から水(あるいは愛という名の不条理)をぶち撒けられたあの瞬間。画面の端から聞こえてくる高笑いと共に、私たちはもう一度叫ばずにはいられないのだ。
「BULL'S EYE!!(大当たり〜!)」と。
そして、夜の向こうから聴こえてくる田島貴男の甘美な歌声に身をゆだねながら、青く光る月の裏側へと、私たちは何度でも旅立つのだ。
高城剛という男は、今この瞬間も地球上のどこかを猛烈なスピードで移動し続けている。
かつて1990年代に「ハイパーメディアクリエイター」の肩書で一世を風靡し、2000年代末には空前絶後のメディア狂騒曲の中心人物として日本中を賑わせた男。あれから歳月が流れた現在、高城剛はメディアの前線から姿を消したわけでも、隠遁生活を送っているわけでもない。むしろその逆だ。彼は日本という枠組みを完全に超越した「超高度・超最先端の地球規模ノマド」であり、同時に「自家発電型の自己実験系・未来予測メディア」として、過去のどの時代よりも過激に、そして圧倒的な精力で活動を続けている。
テレビや大手メディアなどの「旧来のプラットフォーム」を疾の昔に見限った高城が構築した現在進行形の活動領域は、主に以下の5つの軸に集約される。
【次世代メディア&出版】メルマガ『FastLook』と『Future Report』を軸とした直販型プラットフォーム
【次世代テクノロジー&ガジェット】ドローン、AI、ウェアラブル、そして量子コンピューティングの超現場実証
【予防医学&BIO/ヘルスハック】自らの身体を実験台にした最高峰のバイオハッキングと細胞レベルの最適化
【映像&音楽クリエイティビティ】シネマカメラと最新音響を駆使した個人制作フィルムとDJ活動
【サバイバル&NExTライフスタイル】ポータブル・エコシステム、気候変動シフト、自給自足的テクノロジー
高城剛の「現在の現在地」を解剖する。
1. メディアの脱構築:自社配信プラットフォームと爆発的テキスト量
高城剛の現在の活動の心臓部であり、すべての情報発信・経済活動の基盤となっているのが、自身が主宰する有料メールマガジンおよび個人メディア群である。
かつてテレビや雑誌という「他人のメディア」で暴れ回っていた高城は、いち早く広告モデルの限界とマスメディアの衰退を見抜き、10年以上前から「直販型(D2C)の個人有料メディア」へ完全に移行した。毎週発行されるメルマガ(『高城未来研究所「Future Report」』など)は、膨大な文字数と途方もない情報量で溢れている。
その内容は、大手新聞やTVニュースが絶対に報じない世界各地の現場生情報だ。 「今週は西アフリカの某国でマイニング基地を視察」「翌週は北欧の最新バイオラボで遺伝子解析」「週末は南米のシャーマンのもとで植物療法」……といった具合に、彼自身がパスポートと機材を手に現場へ飛び、自分の目と耳と体で確かめた一次情報だけが泥臭く、しかし洗練された文体で書きつけられている。
さらに彼はKindleをはじめとする電子書籍の個人出版でも膨大な作品群をリリースし続けている。『白本』『黒本』『灰本』シリーズに代表される一問一答形式の書籍では、読者からのあらゆる悩みや疑問(キャリア、恋愛、テクノロジー、健康、世界情勢)に対して、冷徹なまでの合理的思考と圧倒的な優しさ、そして独自の未来予測を交えて秒即で回答してみせる。
メディアを「所有」し、中間搾取を完全に排除したこの直販モデルにより、高城は企業スポンサーやテレビ局の顔色を1ミリも窺う必要のない「絶対的な発言の自由」を手に入れた。現在の彼は、日本で最も自立し、最も尖った発言を放ち続ける個人独立系メディアそのものなのである。
2. 世界最先端ガジェットとテクノロジーの超現場フィールドテスト
高城剛といえば「ガジェットの鬼」である。その探究心は現在、さらに先鋭化している。
世の中のガジェット系YouTuberやブロガーが「メーカーから提供された製品の開封動画」を上げているようなレベルとは根本的に次元が違う。高城のスタイルは「世界最先端の機材を自費で買い揃え、地球上で最も過酷な現場に持ち込んで極限テストを行う」というものだ。
ドローンと空撮の極致:DJIをはじめとするドローン技術の黎明期から自ら機体を改造し、世界各地の絶景や危険地帯で空撮を行ってきた彼は、現在も最新のFPV(第一人者視点)ドローンや超小型高画質機体をバックパックに詰め込み、世界中を飛行させている。
モバイル&ミニマリズム:彼の持ち物は極限まで軽量化・モジュール化されている。数個のスーツケースやバックパックの中に、最高スペックのMacBook Pro、特注のモバイルモニター、世界中の周波数に対応する通信機器、ポータブルバッテリ國際運送規定電池為危險物品,無法運送,購買後會幫您取出丟棄。ー、極限状態に耐えうる防水・防塵カメラアタッチメントを完璧な美しいパッキングで収める。
AIとコンピューティング:ChatGPTをはじめとする生成AIブームが到来する遥か前から、彼は機械学習や言語モデルの動向を追跡してきた。現在はAIツールを自身の執筆、映像編集、音響解析、さらには健康データのトラッキングにフル活用し、「一人で大企業並みのプロダクション能力を持つ」ことを実践している。
「未来はすでにここにある。ただ偏在しているだけだ」というウィリアム・ギブスンの名言を、自らの移動生活によってリアルタイムに繋ぎ合わせる作業。それが高城剛のガジェット論であり、テクノロジーとの付き合い方なのだ。
3. 自らの肉体を実験台にした「究極のバイオハッキング」
現在、高城剛の活動の中で最も熱量が高く、同時に多くのファンや健康オタクたちを驚愕させているのが「デトックス&バイオハッキング(有機的身体最適化)」の領域である。
50代を超え、60代へ向かう中でも圧倒的なスタミナで世界中を飛び回る彼の驚異的な体力を支えているのは、精神論ではない。徹底的に科学的・分子生物学的なアプローチに基づいたボディ・ハッキングである。
高城は、世界中の最先端医療機関や検査機関に自ら脚を運び、あらゆる検査を受けている。 重金属検査(髪の毛や尿から体内の水銀や鉛の蓄積度を測る)、有機酸代謝レポート、腸内フローラ解析、遅延型アレルギー検査、長寿遺伝子(サーチュイン)の解析、そして最新のDNAシークエンスまで。彼の体データは、おそらく世界中のどの個人よりも精密にデジタル数値化されている。
そして、そのデータに基づいて以下のような常人離れした身体実験を繰り返している。
重金属・カビ毒キレーション(デトックス):マグロなどの大型魚の摂取や環境汚染によって現代人の体に溜まる「重金属」や、住環境の「カビ毒(マイコトキシン)」が脳機能や慢性疲労の原因であることをいち早く見抜き、点滴療法やハーブ、高温サウナなどを駆使して体外へ排出し切るアプローチを普及させた。
断食と有機ハーブ療法:インドのアーユルヴェーダ、南米のインディオ伝承医学、欧州の自然療法を組み合わせ、定期的な水断食やハーブ断食を敢行。細胞のオートファジー(自己掃除機能)を最大限に活性化させている。
腸内環境の完全再設計:人間の脳と精神は「腸」に支配されているという「腸脳相対論」をベースに、発酵食品、プロバイオティクス、特定の食物繊維を精密に摂取し、精神の安定と超人的な集中力を維持している。
彼はこれらの知見を『333ウルトラデトックス』などの書籍で余すことなく開示し、原因不明の体調不良に悩む現代人に対して「薬に頼るな、まず出せ(デトックスしろ)」という強烈なメッセージを発信し続けている。彼の身体は今や、東洋医学と西洋最先端テクノロジーが融合した「人類最強の臨床実験室」なのだ。
4. 映像・音楽・カルチャーの「DIY型」超個人制作
「ハイパーメディアクリエイター」という肩書の原点であるクリエイティブ活動も、現在進行形で研ぎ澄まされている。しかし、かつてのバブル期のように巨大な制作予算と何十人ものスタッフを従えて撮影するようなスタイルは、今の彼には微塵もない。
現在の高城のクリエイティブは、徹底した「完全ワンマン・超ハイクオリティDIY」だ。
シネマテックな映像作品:REDやARRI、Blackmagic Designといったハリウッドのプロ現場で使われる最新シネマカメラを自身で所有・操作し、監督・撮影・編集・カラーグレーディング・音響調整のすべてを彼一人、あるいは最小限のユニットで完結させる。世界各地の先住民族の祭り、超巨大クラブレース、消えゆく自然環境などを撮影した映像作品は、一般的なテレビ番組のクオリティを遥かに凌駕する圧倒的な色彩美と映像美を誇る。
DJおよび音響探求:音楽への情熱も衰えることがない。世界各国のクラブやフェスに足を運び、現地の最新アンダーグラウンド・ミュージック(アフロハウス、アモーピアノ、最新の電子音楽トレンド)を掘り起こす。また、ハイレゾ音源や立体音響(Dolby Atmos等)のシステムを自前で構築し、人間の周波数帯域が脳や細胞に与える影響までを音響学的に研究している。
大手スポンサーの意向や視聴率という下劣な数値に縛られることなく、ただ自分が「本当に美しいと思うもの」「世界に遺すべき映像」だけを、最新のデジタル機材で記録し続ける。これこそが、彼が長年追い求めてきた「真の表現の自由」の完成形なのだろう。
5. 地球規模のサバイバルと「次の生き方」の提示
高城剛の現在の活動を語る上で欠かせないもう一つのキーワードが、「パンデミック後の世界と気候変動を見据えたサバイバル論」である。
2020年代に入り、世界的なパンデミックや地政学的リスク、気候変動、経済のハイパーインフレが現実のものとなったが、高城は何年も前からこれら「グローバル・システムのリセット」を予見し、メルマガや著書で警鐘を鳴らし続けていた。
彼の提案するサバイバルは、荒野に籠もる悲観的なプレッパー(終末備蓄者)のそれとは全く異なる。「テクノロジーをフル活用した、圧倒的にスマートで自由な自給自足」だ。
ディセントラライズ(分散型)の生き方:国家、単一の通貨、一つの会社、一つの居住地に依存する生き方は最大のリスクであるとし、拠点・資産・通信・エネルギーを世界中に「分散」させるライフスタイルを推奨する。
オフグリッド・テクノロジーの検証:小型ソーラーパネル、ポータブル蓄電池、ポータブル浄水器、衛星インターネット(Starlinkなど)を自らテストし、都市のインフラが完全に停止しても地球のどこでも仕事と生活を継続できるシステムを個人レベルで実証している。
食糧と持続可能性:遺伝子組み換え食品や農薬漬けの現代食から離れ、オーガニック農園の運営や、アーバン・ファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ミング(都市型農業)、パーマカルチャーの最新知見を世界中から収集・実践している。
彼はただ不安を煽るのではない。「世界がどれほど混乱しようとも、知識と適切なテクノロジーと健康な身体さえあれば、私たちはどこででも最高に楽しく生きていける」ということを、自らの生き様そのものを使って証明してみせているのだ。
結論:高城剛とは、私たちが目指す「未来のプロトタイプ」である
現在の高城剛の活動を一言で表すならば、「人類の未来の生き方のプロトタイプ(試作品)を、自らの人生を使って制作し続けている」と言える。
国境に縛られず、組織に属さず、特定のメディアの奴隷にもならず、最新のテクノロジーと古代からの叡智を両手に抱え、自分の足で地球を歩き、自分の頭で考え、自分の身体を最適化し続ける。
彼が発信する怒涛の情報量、常人には理解できないほどの行動力、そして時代を数年先回りする圧倒的な先見性。それらはすべて、彼が「過去の成功体験」を容赦なく捨て去り、常に最新のアップデートを自分自身に施し続けているからこそ可能になる芸当だ。
1991年、深夜ドラマ『バナナチップス・ラブ』で不条理なニューヨークの街並みを斜めのカメラワークで切り取り、太宰治を音読していたあやしい青年・高城剛。 あれから30年以上が経過した今もなお、彼は誰よりも怪しく、誰よりも不敵に笑いながら、私たちがまだ見たこともない「次の時代のドア」を、バールのような知性で力任せにこじ開け続けているのである。