これこそが、かつて1998年という熱狂と迷走のミレニアム前夜、全米の茶の間に突如として投下された歴史的特撮テレビ映画『ガジュラ(GARGANTUA)』の全貌である!
1998年5月。ハリウッドは、巨大な怪獣の足音に揺れていた。そう、ローランド・エメリッヒ監督によるハリウッド版『GODZILLA』の超大型公開が目前に迫っていたのだ。莫大な宣伝費が投じられ、街中が「サイズが重要だ(Size Does Matter)」というコピーで埋め尽くされていたその狂乱の陰で、米FOXネットワークの幹部たちは静かに、しかし極めて邪悪な笑みを浮かべていた。「便乗だ……! この巨大な蜥蜴の尻尾に、タダで乗り移ってやる……!」と。
こうして誕生したのが、予算わずか800万ドルという、特撮映画界の絶対防衛ラインを遥かに下回る貧困線ギリギリの特撮TV映画『ガジュラ』である。観客の誰もが「ガジュラを観たから、ゴジラはもう観なくていいや」なんて思うはずがないことくらい、FOXの偉い人たちだって百も承知だった。これは映画史に残る、あまりにも潔く、あまりにも惨めな「貧困層向けバッタモン企画」の金字塔なのだ!
【第一章】低予算の深淵:800万ドルで挑む怪獣地獄と「4つの変身」
1998年当時の『GODZILLA』が1億3000万ドル以上の巨費を投じて全米のスクリーンを焼き尽くそうとしていた時、本作『ガジュラ』に与えられた予算は前述の通りたったの800万ドル。およそ16分の1! 映画のスケールとしては文字通り「ドブに捨てられたポケットマネー」レベルである。
撮影地に選ばれたのは、南太平洋の美しい楽園……に見せかけたオーストラリアの某所。オーストラリアの美しい海とジャングルをバックに繰り広げられるのは、信じがたいクオリティの「巨大化両生類パニック」だ。作中に登場する怪獣「ガジュラ」は、劇中で怪しくも凄まじい「4つのバージョン(形態)」を見せる。
バージョン1.0(ベイビー・ガジュラ): 物語の序盤、主人公の少年が出会う幼体。見た目はビニール製のプール用オモチャか、トイザらスで叩き売りされているプラスチック人形そのもの。つぶらな瞳(という名の塗料)と、後述する悲劇的な「好物」によって視聴者の腹筋を狂わせる。
バージョン2.0(ヤング・ガジュラ): 体長約9フィート(約2.7メートル)。人間に襲いかかる肉食恐竜ポジションなのだが、その実態は「ヴェロキラプトルの着ぐるみを着た着ぐるみの中の人」が不自然にぴょんぴょん跳ね回っているだけ。フェンス一枚破れず、地元のチンピラを脅かすのが関の山という、大怪獣のタイトルを完全に裏切る悲惨な中型犬サイズ。
バージョン3.0(マザー・ガジュラ): いよいよ巨大化!……と思いきや、特撮技術は1950年代の光学合成レベルに退化。パパラッチの車を引っかいて壊すのが最大の功績という、あまりにもスケールの小さい暴れっぷり。
バージョン4.0(ファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ザー・ガジュラ): 本作の真のラスボスであり、真の「ガジュラ」。背中に刺々しい角を生やした、巨大な有尾類(要するにステロイドを過剰投与されたオオサンショウウオ)。しかし、その出演時間は実質的にカメオ出演レベル! 登場した瞬間に米軍の猛砲撃を浴び、怪獣映画の文脈を無視した圧倒的現実的な火力によって、わずか数分で血祭りにあげられるという前代未聞の瞬殺劇を披露する!
【第二章】鬱展開の人間ドラマと「チーズボール」の奇跡
怪獣映画において「人間ドラマが退屈」というのはもはや伝統芸能だが、『ガジュラ』はその伝統を遥かに突き抜け、もはや狂気の域に達している。
主人公は、妻を亡くしたばかりで心に深い傷を負った海洋生物学者ジャック・エルウェイ(演じるのは、後に『ファイアフライ』や『フルメタル・ジャケット』の微笑みメタボ役等で怪演を見せる若きアダム・ボールドウィン)。彼は地震が海洋生物に与える影響を調査するため、息子のブランドン(演じるのはなんと、後に『イントゥ・ザ・ワイルド』で名優となる超超超幼少期のエミール・ハーシュ!)を連れて南太平洋の島へやってくる。
ジャックは仕事に没頭するあまり、息子の心のケアを完全にネグレクト。悲しみに暮れる少年ブランドンは、一人で島を彷徨ううちに、海から上がってきた奇妙なベイビー・ガジュラ(バージョン1.0)と遭遇する。
ここで映画史に残る「歴史的オマージュ(というか露骨なパクり)」が炸裂する。そう、『E.T.』である! 『E.T.』において、主人公のエリオット少年は「リーシーズ・ピーシズ(チョコレート菓子)」の列でE.T.を部屋へと誘導した。では、本作のブランドン少年は何を使ったか?
「 generic(ノーブランドの)チーズボール(チーズスナック)」である!!
安っぽいプラスチック容器に入った、オレンジ色の怪しいチーズスナックを点々とビーチに置く少年。それをハモハモと食べながら無邪気についてくるビニール製の幼体怪獣。映画史上最もチープで、最も哀愁の漂う「異種間交流」の誕生である! ブランドン少年は、母親を失った自分の境遇をこのバッタモン怪獣に重ね合わせ、「僕たち、お母さんがいない者同士だね……」と友情(?)を深めていく。
一方、島ではビーチに死体が打ち上がる怪事件が多発。しかし地元の有力者は「ビーチを封鎖したら観光収入が減る!」とブチ切れ(どこかで聞いた『ジョーズ』の展開!)、さらに怪獣の起源は「1960年代に企業が投棄した農薬によるサンショウウオの突然変異」であることが判明する(ゴジラの「水爆実験」に比べてスケールが圧倒的にケチくさい!)。
【第三章】怪獣映画の崩壊:感動のファミリー・セラピーへ
本来であれば、ここから怒涛の怪獣大暴れ、都市破壊、そして人類の反撃へと至るはずである。しかし、800万ドルの予算はすでに限界を迎えていた。
劇中、米海兵隊が投入されるのだが、兵士たちが地面にひれ伏して「うわあああ!」と叫ぶ背後に、巨大な足の影(光学合成)がぬっと降りてくるという、あまりにもコントのようなキャンプ感が画面を包む。そしてファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ザー・ガジュラは、海兵隊の集中砲火を浴びてあっけなく死亡。
残されたのは、マザー・ガジュラとベイビー・ガジュラ、そして人間側のジャック、ブランドン、そしてジャックとイイ感じになりかけている美人看護師のアリソン(ジュリー・カーメン)だ。
ここから映画は、怪獣映画であることを完全に放棄し、「人間と怪獣、二つの家族による壮大なセラピー劇」へとシフトチェンジする!
ジャックはアリソンとの出会いによって亡き妻のトラウマを克服し、ブランドンとの父子関係を修復。それと完全に並行して、マザー・ガジュラも迷子になったベイビー・ガジュラと無事に再会を果たし、母性愛を取り戻す。
物語のクライマックス、怪獣を爆破しようとする軍隊に対し、主人公たちは「待ってくれ! 彼らはただ、海へ帰りたいだけなんだ!」と叫び、映画はまさかの『フリー・ウィリー』状態へ突入! 爆破ではなく、怪獣親子を深海の海底隆起へと優しく誘導して帰すという、前代未聞の「和解エンド」を迎えるのだ!
直前のシーンで、ガジュラがチョイ役の人間を丸呑みにしていたことなど、誰も気にしない! 人間も怪獣も、みんなトラウマを乗り越えてハッピーエンド! ジャックが劇中で思わず叫んだセリフ、「こんなこと、全部不必要だったんだ!(This was all unnecessary!)」という言葉こそ、この映画を観たすべての観客の心の叫びそのものであった!
【第四章】90年代怪獣狂想曲における『ガジュラ』の世界的立ち位置
この1998年という時代を振り返るとき、我々は『ガジュラ』という存在が持つ奇跡的なイノセンスに思いを馳せざるを得ない。
同時期、韓国では1960年代の伝説的怪獣をリメイクした『ヤンガリー(Reptilian)』が作られていた。あちらはハリウッド版『GODZILLA』の「米軍のミサイルから逃げ惑う弱いゴジラ」に対するカウンターとして、エイリアンのバリアを纏った最強のヤンガリーが地球の兵器を跳ね返し、敵怪獣と大バトルを繰り広げるという「大怪獣対戦アクション」の道を選んだ。
一方、イギリスの『ゴルゴ(GORGO)』の血を引くはずの『ガジュラ』は、戦うことすら放棄した。巨大怪獣が人間の銃砲撃であっけなく死に、残された家族がチーズボールで手なずけられ、最後は親子の愛によって海へ帰っていく。
『Scream』のような洗練されたセルフパロディやブラックユーモアがもてはやされた90年代末において、『ガジュラ』には皮肉も、スマートな笑いも一切存在しない。あるのは、低予算テレビ映画としての圧倒的な不器用さと、大真面目に「怪獣で家族愛を描こう」としたズレまくった情熱だけだ。
ポテトチップスとコーラを片手に、深夜のテレビ画面で「なんだこの合成の汚さは!」「チーズボールで懐くな!」とツッコミを入れながら観るためだけに誂えられた、完璧なる「ナイス・クソ映画(Lovely Schlock)」。
もしあなたが今、至高のB級映画体験を求めているならば、あるいはハリウッドの超大作映画の洗練されたCGに疲れ果てているならば、ぜひ検索してほしい。そこには、オーストラリアの澄み渡る空の下、チープなゴム人形の怪獣にチーズボールを差し出しながら、本気の演技を見せる若き日のエミール・ハーシュとアダム・ボールドウィンの、輝かしい(?)姿があるはずだ!