一九八四年の二月、暗鬱な冬空が日本を覆うなか、日本の映画史において人知れず巨大な亀裂が走った。ジョイパックフィルムの配給によってひっそりと、しかしあまりにも禍々しい存在感を放ちながら劇場公開された映画、それが渡辺護監督による『連続殺人鬼 冷血』である。一九七二年から一九八三年にかけて、近畿・中京圏を狂気の血で染め上げ、警察庁指定一〇八号事件として日本中を無限の恐怖へと陥れた稀代の凶悪犯・勝田清孝。警察官を襲撃して拳銃を強奪し、銀行強盗を引き起こして現行犯逮捕されるまでに一二名以上の人間を殺害したとされるこの実在の怪物の半生を、大下英治によるルポルタージュ『勝田清孝の犯罪』を原作に仕立て上げ、スクリーンへと定着させたのが本作である。
だが、この作品をめぐる言説や表層的な映画史的分類は、あまりにもこの映画の孕む暗黒のエネルギーを前にして無力であり、去勢されていると言わざるを得ない。本作は、当時ピンク映画界の巨大なベテランとして君臨していた渡辺護にとって、初の一般映画進出作であった。しかし、渡辺護がそこで解き放ったものは、洗練された映画言語でも、大衆に阿おねだりするエンターテインメントでもなかった。それは、昭和という時代の底知れぬ暗部に蠢く血と脂、去勢された近代社会の歪み、そして人間という存在が抱え込む絶対的な「矛盾」を、スクリーンという光と影の実験室に叩きつけた、常軌を逸した狂気の血篇であったのだ。
映画という媒体が、単なる虚構の娯楽として消費されることに異議を唱えるかのように、本作のフィルムには全編にわたって生々しい人間の体臭と、引き裂かれた肉体の呻き声が重苦しく沈殿している。一九八〇年代前半という時代は、日本社会が消費文化の狂騒とバブル前夜の浮ついた浮遊感に包まれ始めた時期であった。街街には洗練されたネオンが煌めき、テクノロジーと都市生活のスマートさが讃えられ、泥臭い暴力や泥沼の人間関係は「古くさい過去の遺物」として社会の表面から不可視の領域へと追いやられようとしていた。しかし、まさにその輝かしい都市の清潔さの裏側で、勝田清孝という怪物は何食わぬ顔で高級車を走らせ、真面目な消防士の制服を身に纏いながら、無防備な生活者たちの首を絞め上げていたのだ。
渡辺護はこの作品において、戦後日本がひた走ってきた高度経済成長という夢の果てに置き去りにされた、人間の「空洞」を冷徹に抉り出す。なぜ男は殺すのか。なぜ男は執拗に他者の命を奪い、財を奪い、自らを破滅の深淵へと追い込んでいくのか。一般的な犯罪映画であれば、そこにわかりやすいトラウマや、社会に対する通俗的な復讐心を捏造して観客を安心させるだろう。あるいは、精神病理学的なラベルを貼り付けることで、その怪物を「安全な枠組み」のなかに封じ込めようとするだろう。しかし、渡辺護のカメラと佐伯俊道の脚本は、そうした安易な救済や解釈を一切拒絶する。そこにあるのは、理解不能な欲望の暗黒街であり、説明のつかない暴力の連鎖である。
本作を語る上で、まず我々が対峙しなければならないのは、主人公・辰田清志を演じた俳優、中山一也という圧倒的な「怪異」の肉体そのものである。一九五六年、北海道の大樹町に生まれ、釧路の凍てつく空気のなかで育ち、文学座の養成所を経て映画界へとなだれ込んできたこの男の存在感は、スクリーンに映し出されるあらゆる虚構を瞬時に無効化するほどの、凶暴な生々しさを撒き散らしている。
中山一也という男のあり方は、映画のリアリズムという生ぬるい理念をその根本から粉砕する。自らの指を包丁で叩き落として多摩川の河川敷に埋め、自らの腹を切り裂いてアドレナリンの恍惚に浸り、近代的な去勢や修正を断固として拒絶しながら「皮オナニー派」としての未開の野生を死守するこの男。映画の現場において「気に入らなければ監督すら刺す」という平熱の狂気を身に纏い、ハリウッドの巨匠からテレビ局の権威に至るまで、圧倒的なハッタリと生のゴリ押しで突撃していくこの「むきだし燃料棒」のような男が、勝田清孝という実在の殺戮者を演じることの恐怖。
中山一也という人間のバイオグラフィーそのものが、すでに一本の常軌を逸した映画のごとき凄絶さを帯びている。彼は演技という枠組みの中に収まるような器ではない。彼にとって役を演じることとは、自己の肉体を刃物として社会の表面に突き立てる行為に他ならなかった。自らの小指を出刃包丁で叩き落とした際、彼は「映画にはリアリティがいちばん大事だから」という、常人には理解不能な平熱の論理を口にした。その落とされた小指を抱えて病院に行き、手遅れだと告げられると、何事もなかったかのように幼い我が子を連れて多摩川の河川敷へと出かけ、「ここに埋めておけば新たな指が生えてくる」と子供に語りかける。この、おぞましさと妙に無垢な父性が奇妙に混ざり合った精神のあり様。そして数年後にその場所を訪れて「どこに埋めたか忘れちゃった」と笑う孤独。あるいは自らの腹を割き、溢れ出る血とアドレナリンのなかで性的な恍惚を幻視するような狂気。
こうした人間の生々しい血と肉が、辰田清志という犯罪者の皮膚としてスクリーン上に立ち現れるのだ。画面の中の辰田清志=中山一也の瞳を見よ。そこにあるのは、役作りなどという技術的な次元を遥かに超越した、血を欲する獣の眼光である。自動車教習所で出会った真知子(吉宮君子)と結婚し、大阪のアパートでささやかな生活を始める一見すると平穏な男の仮面。しかし、その仮面の裏側で蠢く圧倒的な飽きっぽさと、理由なき凶暴性。最初の犠牲者となる南悦子(小川菜摘)を手に掛けた瞬間、中山一也の肉体から発せられる「血の匂い」は、映画館の暗闇を物理的に侵食していく。彼が女性たちの首に手をかけ、その生命を絞り消していく際の動きには、演出された演技の優雅さなど微塵もない。そこにあるのは、ただ即物的に、無機質に、しかし過剰な興奮とともに命を奪うという、狂った作業の反復である。
中山一也の演じる辰田清志は、画面のなかで呼吸をするたびに、映画という虚構の枠組みを軋ませる。彼が犠牲者を絞殺する際、その指先にかかる力、血管の浮き上がり、歪む表情の醜悪さは、観客に対して「これは作り物だ」という安全地帯を一切許さない。彼が着る服のしわ、汗ばんだ肌、吐き出される荒い息遣いの一つひとつが、現実の勝田清孝という殺戮者がまとっていた暗黒の気配をそのまま召喚してしまうのだ。中山一也という男が宿している「本物の血の匂い」は、共演する女優たちの肉体をも巻き込み、官能と死が隣り合わせになった圧倒的な怪異の空間を創り出していく。
渡辺護という監督は、一九七〇年代を通じて毎月のようにピンク映画を量産し、過酷な低予算と短期間の撮影という制約のなかで、映画という名のダイナミズムを研ぎ澄ませてきた鬼才であった。一九七一年に大久保清事件を即時的に映画化した『日本セックス縦断 東日本篇』において、渡辺は報道が更新されるたびに現場へ駆けつけ、犯行現場や大久保の自宅周辺という生々しい風景の中に役者を解き放つという、虚構と実録が怪しく混ざり合う手法を確立させた。『連続殺人鬼 冷血』において、渡辺護はその経験を最高度に結実させている。
一九七〇年代のピンク映画界という暗黒の泥のなかで、渡辺護は常に「人間とは何か」という問いを、過酷な現場のなかで問い続けていた。濡れ場があればいい、脱げばいいという安易な商品化の要求と戦いながら、彼はカメラの前に立つ人間の肉体が放つ一瞬の輝きや、泥臭い生の葛藤を捉えようと足掻いていたのである。『日本セックス縦断 東日本篇』において大久保清という稀代の連続強姦殺害犯を描いた際も、渡辺は事件を単なるゴシップや猟奇的なショーとして消費することを良しとしなかった。事件が発生し、捜査が進行し、新たな犠牲者が発見されるというリアルタイムの時間のなかで、事件の舞台となった群馬の町やモトテル、そして地方都市のどんよりとした空気をそのままフィルムに焼き付けた。その際、渡辺が捉えたのは、社会のシステムからあふれ出し、欲望の赴くままに暴走する男の醜さと、その根底にある「父との関係」であった。
『連続殺人鬼 冷血』において、渡辺護はその『日本セックス縦断』で培った即時的かつ実録的なダイナミズムを、より深い人間洞察へと昇華させている。ここで渡辺が着目した最大の問題意識、それこそが「父と子のあいだに横たわる絶対的な矛盾と虚栄」であった。勝田清孝の生家をロケハンした際、渡辺は父親が建てた「赤い屋根の小さな家」に深い視線を注いだ。古い日本のしきたりを脱却し、おれのうちはいかにモダンでアメリカ的であるか、近所でどれほど目立っているかという、父親の身の丈に合わない浅しい虚栄心の象徴としての赤い屋根。勝田=辰田清志は、その虚栄心に満ちた父親(菅貫太郎)を激しく軽蔑し、怒りをぶつけながらも、自らもまた何台もの高級車を買い換え、派手な生活を装うことで、自分を実際以上に大きく見せようとする沼にはまっていく。
この父親との関係性に宿る「矛盾」こそが、渡辺護の映画表現の真骨頂である。辰田清志は、父親の持つ浅はかな虚栄心、自分を誇大に見せかけようとする滑稽さを誰よりも冷酷に見抜き、激しい不快感を抱いている。父親(菅貫太郎)の吐く言葉、その佇まい、家を飾る安易なアメリカニズムの装身具のすべてを辰田は軽蔑する。しかし、まさにその父親を激しく拒絶し、反発すればするほど、辰田自身の行動パターンは父親の欲望のミニチュアとしてなぞられていくのだ。自らの身の丈に合わない高級外車を買いあさり、金もないのに派手な散財を繰り返し、周囲に対して「自分は特別な存在である」という虚妄を撒き散らす。
父親を憎悪しながら、父親と全く同じ構造の虚飾と自己拡大の欲望に囚われ、その崩壊の埋め合わせとして盗みと殺人を重ねていくというこの悲悲劇的な円環。真面目な消防士として勤務し、上役や同僚からの評判も悪くない「表の顔」を作り上げれば作り上げるほど、その裏側に口を開ける暗黒の空洞は巨大化していく。この空洞を埋めるために、辰田は女性たちを絞殺し、スーパーを襲撃して店長を射殺し、警察官を重傷に負わせてピストルを奪うという、歯止めの効かない暴力のエスカレーションへと突進していくのだ。
この「消防士」という職務の選択そのものが、辰田の抱える凄惨な矛盾を象徴している。市民の生命と財産を火災から守り、社会の規律と安全の第一線に立つはずの男が、非番の日に、あるいは勤務の合間の隙間を縫って、女性たちの命を次々と奪い、社会の秩序を根本から破壊していく。この昼と夜、破壊と保護、聖と俗の極端な分裂。消防署での彼は、周囲から「真面目で信頼できる若者」として評価され、上役からも目をかけられている。その規律正しさや礼儀正しさは、決して偽装だけの計算ではない。彼の中に存在する「まともな社会人でありたい」「他者から認められたい」という強い願望のあらわれでもあるのだ。
しかし、その「表の顔」が完璧であればあるほど、彼の内に潜む魔物は激しい飢餓感を覚え始める。社会の規範に適応し、良き夫、良き息子、良き消防士を演じることによって生じる精神の去勢感。その去勢された日常に対する揺り戻しとして、彼は夜の暗闇へと足を踏み入れ、無防備な女性たちの首を絞めるという、絶対的な支配と暴力の快楽へと身を投じる。一度命を奪うことの狂おしい手応えを知ってしまった男は、もはや日常の退屈な安らぎに戻ることはできない。彼にとって殺人は、自らの空っぽな存在を、他者の圧倒的な死の恐怖と絶叫によって一瞬だけ満たすための、呪われた儀式となっていくのである。
佐伯俊道の手による脚本は、この勝田清孝の犯罪史を一切のセンチメンタリズムを排して描き出す。大田佳子(水木薫)、高田きよ子(川村真樹)、谷裕子(山本あゆみ)、佐藤啓子(江崎和代)、増山夏子(芹明香)、大里信子(萩尾なおみ)といった女たちが、辰田の底なしの欲望と暴力の犠牲となっていく過程は、昭和という高度経済成長の影で置き去りにされた、人間の荒荒廃した精神の地形図そのものである。特に愛人・寺西和子(水原ゆう紀)のマンションに入り浸りながら、日常と狂気の間を滑走する辰田の姿には、戦後日本がひた走ってきたモダニズムの裏側に潜む、ドロドロとした怪異が露出している。
佐伯俊道の脚本の恐ろしさは、被害者たちを単なる哀れな犠牲者として記号化するのではなく、昭和の泥臭い生活のなかで生きる過剰な肉体を持った人間として描いている点にある。彼女たちはそれぞれに生活の匂いをさせ、愚かさや欲を抱え、都市の片隅で生きていた。その彼女たちの日常の中に、突如として辰田という死の使者が侵入してくる。日常の世間話から、一瞬にして窒息の苦悶へと反転する映画の空気。首を絞められ、目を剥き出し、脚を痙攣させる女たちの肉体の悶えを、渡辺護のカメラは逃げ場なく捉え続ける。
芹明香演じる増山夏子や、水原ゆう紀演じる寺西和子といった魅力的な女優陣が放つ官能は、辰田の殺意と怪しく混ざり合い、画面に濃密な性のエロスと死のタナトスをみなぎらせる。特に寺西和子のマンションという閉ざされた空間は、辰田にとって社会の追及から逃れる庇護の場であると同時に、自らの狂気を純粋に培養する暗黒の愛巣であった。真面目な妻・真知子(吉宮君子)の待つ家を捨て、愛人のもとへと転がり込み、泥沼の性愛に没頭しながら、次の獲物を狙う辰田。そこには、都市生活の利便性や洗練とは程遠い、人間の泥臭い執着と欲望のドロドロとした粘液が充満している。
鈴木史郎による撮影は、この陰惨な物語を冷徹極まりない光と影のコントラストで捉え切る。昭和の地方都市のどんよりとした空気、アパートの湿り気のある廊下、夜の街道を走り抜ける高級車のヘッドライト、そして殺行が行われる暗闇。すべてのフレームが、まるで昭和の都市伝説の現場から直接切り取ってきたかのような、凶々しい生々しさを湛えている。角田圭伊吾による音楽は、辰田の脳内で鳴り響く不協和音のように、観客の神経を酷薄に逆撫でし続ける。
鈴木史郎のカメラワークは、あえて華美なアングルやスタイリッシュな映像表現を排除し、被写体との冷酷な距離感を保ち続ける。夜のアスファルトに反射する濡れた街灯の光、安アパートの薄暗い電球の下で蠢く人影、消防署の乾燥した白い壁、そして惨劇の後に残される無造作な死体。それらはすべて、一九七〇年代から八〇年代初頭にかけての日本の地方都市が抱えていた、独特の「殺風景さ」と「孤独」を浮き彫りにする。都市が急速に近代化され、コンクリートとアスファルトで覆われていく一方で、そこに住む人間の精神は置き去りにされ、荒野と化していた。鈴木史郎の映像は、その荒野をさまよう肉体たちの焦燥感を、圧倒的なリアリティでスクリーンに定着させたのである。
また、角田圭伊吾の音楽は、感情移入を拒絶するような不吉な音響として機能する。ドラマチックな盛り上がりを見せるのではなく、辰田の精神の奥底で渦巻く執着や焦躁、あるいは彼を突き動かす理由なき衝動を、重苦しい低音や狂った打楽器の音色によって表現する。この音楽が、鈴木史郎の冷徹な映像と組み合わさることで、観客はまるで凶悪犯の脳内世界に直接投げ込まれたかのような、強烈な閉塞感と恐怖を味わうことになるのだ。
物語が後半に進むにつれ、辰田の行動は完全に制御を失い、破滅へと向かって暴走を始める。窃盗の容疑で警察の追及を受け、誇りとしていた消防署を追放された瞬間、彼を社会に繋ぎ止めていた最後の糸が切れる。彼はもはや「表の顔」を取り繕うことをやめ、剥き出しの暴力を社会に向かって解放する。スーパーマーケットを急襲して店長を射殺し、現金を強奪するその手口には、かつての隠密的な絞殺とは異なる、破壊そのものを目的とした開き直りの狂気が宿っている。
一九八二年十月、名古屋市千種区の派出所で警官を襲いピストルを奪い、翌一九八三年一月三十一日、第一銀行名古屋支店を襲撃した末に、行員や市民に取り押さえられて遂に逮捕されるラストシーン。中山一也が見せる、追い詰められた獣の最期の掻きむしるような咆哮。それは、去勢された社会システムによって遂に捕獲された狂気が、最期に放つ呪いの叫びである。
第一銀行での捕縛のシーンにおいて、カメラは取り押さえられ、床に押し付けられる中山一也の顔面を克明に捉える。彼の顔は汗と泥と血にまみれ、瞳は狂気と絶望で大きく見開かれている。周囲の警察官や市民たちの怒号、怒りの声のなかで、彼はなおも身体を捻らせ、抵抗をやめようとしない。その姿は、社会の規範や法律という強固なシステムによって、ついに押さえつけられた人間の「野生の末路」そのものである。彼が放つ咆哮は、自らの犯した罪に対する悔悟などでは断じてない。それは、己の欲望のすべてを解き放ち、世界を血で染め上げた男が、捕獲の瞬間に世界に対して叩きつける、絶対的な絶望と怒りの叫びなのだ。
渡辺護はこの『連続殺人鬼 冷血』を撮り上げた後、一九八〇年代半ばのビデオ映像の台頭や刺激のみを求める時代の変容のなかで、自らの表現の場が急速に失われていくのを感じ、ピンク映画界を去っていくこととなる。しかし、彼がそのキャリアの転換点において、最初で最後の一般映画として放ったこの一作は、日本映画史に刻まれた巨大な怪作として、今なお暗い光を放ち続けている。
一九八〇年代半ば以降、映画界は大きく変容した。ビデオカメラの普及やデジタル技術の予兆、そして撮影現場のシステム化とクリーン化が進むなかで、渡辺護が主戦場としてきた「低予算で、現場の熱量と即興性だけで突っ走る」という映画作りのスタイルは、徐々に追いやられていった。時代は、より洗練され、コントロールされ、傷のつかない商品を求めるようになったのである。渡辺自身、「代々木忠の作品があたるようになって、ベッドシーンがあればそれでいいという風潮が出てきた」「面白いものを作ってやるという熱量が現場から失われていくのはつらい」と後に語っているように、彼は自らの愛した映画という表現の場が、去勢され、安全な消費財へと変わっていく波を皮膚感覚で察知していた。
だからこそ、この『連続殺人鬼 冷血』は、渡辺護という映画監督が、自らのキャリアのすべてと、ピンク映画で培ってきた現場の怨念を込めて放った、時代への遺言であり、巨大な爆弾であったのだ。彼は一般映画という大きなフィールドに呼び出されながらも、そこで「お行儀の良い大作」を作ることを固く拒んだ。かわりに彼が持ち込んだのは、中山一也という制御不能の怪物であり、勝田清孝という昭和最大の過剰な暗黒であり、父と子の矛盾という泥臭いテーマであった。
映画とは何か。リアリズムとは何か。中山一也という怪物的な肉体と、渡辺護という昭和の闇を見つめ続けた映画監督の視線が交錯したとき、スクリーンに現出したのは、人間という存在の深淵に潜む、絶対的な狂気と不条理の結晶であった。『連続殺人鬼 冷血』。この映画が放つ血飛沫と脂の匂いは、時代がどれほど清潔に去勢されようとも、我々の魂の奥底にある野生と恐怖を揺さぶり続け、決して消えることのない暗黒の記憶として、永遠に灼きつき続けるのだ。
我々はこの映画を観るとき、画面の向こう側から突きつけられる重苦しい問いから逃れることができない。自分たちの生きるこの清潔で安全な都市のすぐ足元には、今もなお辰田清志のような暗黒の空洞を抱えた肉体が潜んでいるのではないか。我々自身が内側に押し殺している狂気や去勢された野生は、いつか何かの弾みで爆発し、社会の表面を引き裂くのではないか。『連続殺人鬼 冷血』は、単なる過去の事件の再現にとどまらず、人間の生が抱え込む逃れられない闇を照射し続ける、絶対的な怪物映画として、永遠に映画史の暗闇のなかで異彩を放ち続けるのである。