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昭和四十年代という、日本列島が高度経済成長の巨大なうねりの中で沸騰し、集団就職列車と新幹線がすれ違いながら過剰な欲望と切ない哀愁を撒き散らしていた狂乱の時代。その映画史的な過渡期にあって、松竹「旅行シリーズ」の第5作として解き放たれた『喜劇 縁結び旅行』(1970年、瀬川昌治監督)は、喜劇というジャンルのあらゆる外壁を内側から破壊し、人間の狂気と愛執、そして鉄道という巨大な近代の鉄の幻影を巡る純粋運動として結晶化した至高の金字塔である。
画面がひらいた瞬間から我々の眼球を揺さぶるのは、赤穂線・播州赤穂駅のプラットフォームに充満する、圧倒的な蒸気と欲望の熱気だ。国鉄の旅客係・赤垣源太を演じるフランキー堺という不世出の喜劇役者は、ここで単に喜劇的なキャラクターを演じているのではない。彼は己の肉体そのものを一種の蒸気機関へと変貌させ、赤穂浪士の四十七士の血筋を引くという妄執と、己の昂ぶる性衝動と、国鉄マンとしての几帳面な義務感を過剰な身振りで同時に駆動させている。彼の目玉のぎょろりとした回転、巨躯を揺らす躍動的な歩行、そして早口で発せられるセリフの幾何学的なリズム。これらはすべて、高度経済成長期における「移動すること」「速度を出すこと」「誰かと結びつくこと」への異常な衝動をそのまま肉体化したものであろう。
物語の骨格は、播州赤穂という「歴史の亡霊」が憑依した古都において、討ち入りの忠臣蔵精神と現代の男女の泥臭い恋愛模様が重なり合う構図をとる。源太の部下であり義弟でもある関口啓三(大村崑)と、その妻である源太の妹・珠子(樹木希林、当時は悠木千帆)の夫婦生活は、狭小な日本家屋において独身の源太という巨大な肉体が鎮座することで常に阻害されている。樹木希林が醸し出すあの独特の乾いたリアリズムと、大村崑の軽妙にしてどこか不条理なズッコケの立ち振る舞いは、高度成長期の標準家族モデルが抱える歪みを暴き出す。源太という「未婚の居座り男」を追い出し、どこかの女性へ「パッシング」しようとする家族の切実な策動は、日本社会全体が過剰な人口と血縁関係を整理・再配置しようとしていた社会学的欲望の写し絵だ。
その源太を巡るヒロインたちの配置が実に壮絶である。駅前で「討入りそば」を営む娘・かおるを演じる野添ひとみの、あの強烈なド近眼キャラクターという設定は、単なるコメディの記号的小道具を超え出て、近代の「視界の不透明さ」を象徴する圧倒的なアレゴリーとして機能している。メガネを外した瞬間、世界との距離感を喪失し、誰彼かまわず自分の愛の対象へと誤認してしまう彼女の錯乱した視線。それは、源太が誤って認めた哀切極まる恋文をめぐる錯誤のドラマと連動し、本作を「誤解とすれ違いの連続体」としての喜劇の極北へと押し上げていく。
一方で、源太の心奪われる郵便局長の娘・みち代を演じる金井克子の圧倒的な肉体的存在感! 1960年代末から70年代初頭のポピュラーカルチャーの先端にいた彼女の脚線美とモダニズムは、播州赤穂という和風古風な空間に解き放たれた異様なハイカラの暴風雨だ。そして、彼女をめぐって源太と対立する高利貸し・吉良甲介(伴淳三郎)という配役の悪魔的な素晴らしさ。吉良上野介の名を背負わされた男が、郵便局長の不破数江(ミヤコ蝶々)からその苗字ゆえに蛇蝎のごとく嫌われるという歴史的パロディの徹底ぶり。伴淳三郎のあの独特の訛りと、欲情に濡れた眼光、浅ましい銭ゲバの身振りは、高度成長の陰で膨れ上がった資本のグロテスクな欲望を、そのまま滑稽な笑いに昇華させる。
舟橋和郎の緻密にして奔放な脚本と、瀬川昌治監督の計算し尽くされたダイナミックな演出は、画面の隅々にまで「人間という生き物の猥雑なエネルギー」を充填していく。カメラマン丸山恵司の捉える色彩表現は、70年という時代のサイケデリックな空気感をうっすらと纏いながらも、国鉄の車載設備や駅舎の冷涼な鉄と木工の質感、そして登場人物たちが身に纏う派手な色彩の衣裳をダイナミックにコントラストさせている。
圧巻なのは、初詣団体旅行の列車内で繰り広げられる中盤から終盤にかけての狂乱劇だ。列車という閉じられた空間が、レールの上を滑走するという運動性を与えられた瞬間、そこは日常の道徳が解体される「カーニバル的アジール」へと変貌を遂げる。夢と現実の境界が瓦解する過剰なシークエンス。源太が車中で貪る夢の世界――みち代との甘美な抱擁の夢が、目覚めた瞬間に目の前に立ち現れたド近眼のかおるの肉体へとシームレスに侵蝕し、夢の続きとして抱きしめてしまうというあの狂気の錯覚! ここでフランキー堺が見せる表情の崩壊と、自縄自縛の混乱は、映画史における夢幻劇の系譜に燦然と輝く喜劇的超現実主義の結晶と言わざるを得ない。
さらに、左卜全が演じる大石や、牧伸二、牟田悌三、立原博といった豪華極まる芸人・役者陣が脇を固めることで、映画の重層性は極限に達する。さらには鶴岡雅義と東京ロマンチカの歌声が挿入されることで、昭和の歌謡曲が持つ濃厚な情緒と愛憎の情念が映画全体のフレームをぐにゃりと歪ませていく。倍賞千恵子が「旅の女」として特別出演的に漂わせるあの影のある佇まいは、喜劇の熱狂の裏側に潜む一抹の切なさ、過ぎ去っていく時代への哀歌(エレジー)として機能し、観客の胸を締め付ける。
元旦の朝、夢と現実を取り違えたまま、外堀を埋められてかおるとの祝膳の前に座らされる源太のあの呆然とした、しかしどこか諦念と滑稽さを孕んだ顔。人間は自らの意思で運命を選び取っているつもりでいながら、実は巨大な社会の車輪、あるいは縁結びという名の不条理な運命のレールの上を走らされているに過ぎないのではないか。その残酷な真実を、瀬川昌治とフランキー堺は極上の笑いという包み紙で覆いながら、我々の眼前に提示してみせる。
『喜劇 縁結び旅行』は、松竹旅行シリーズの単なる一編という枠組みを軽々と突き破り、1970年という日本が最も熱狂し、狂惑し、走走していた時代の魂そのものをフィルムという感光乳剤の上に永遠に焼き付けた、空前絶後のキネマティックな爆風なのだ。この映画を観るということは、我々自身が失ってしまった昭和という時代の圧倒的な生のエネルギーと、過剰なまでの人間臭さにダイレクトに叩きつけられるという体験に他ならない。今こそ我々はこの映画の疾走する車輪の音に耳を澄まし、赤垣源太の滑稽で美しい愛の暴走に身を投げ打つべきなのである。
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