一九九五年という、日本の精神史において決定的な亀裂が走ったあの年に、この映画がこの世に産み落とされたことは、単なる偶然ではない。オウム真理教による未曾有のテロ、阪神・淡路大震災という大地の崩壊、そしてWindows95の発売によるデジタル電脳空間への人類の本格的な移行。あらゆる価値観が流動化し、世紀末の虚無と、何かが決定的に終わるという予感が東京の夜を覆っていたあの時代、オリジナルビデオ(OV)という、映画館という聖域からもテレビという日常の窓からも零れ落ちた「暗黒のメディア」の底流において、一本の、あまりにも異形で、あまりにも情熱的で、そしてあまりにも呪われた傑作が誕生した。それが、井上美介監督、小中千昭脚本による『NINE-ONE くノ一妖獣伝説』である。彩プロという、当時のB級エンターテインメントの極北を走っていた映画製作会社が放った、わずか七十八分という上映時間のなかに、九〇年代サブカルチャーの血肉、ジャパニーズホラーの前夜祭、そして肉体そのものを表現の極限へと追い詰めた役者たちの狂気が、まるで核融合を起こすかのように凝縮されている。我々はこの映画を、単なる時代遅れの特撮アクションや、エロティックなオリジナルビデオとして片付けるわけにはいかない。これは、脚本家・小中千昭という稀代のイマジネーションの怪物が放った「小中理論」の、アニメやウルトラシリーズへ本格的に進出する直前の、最も生々しく、最も血生臭い、そして最も過激な肉体論であり、同時に、画面を彩るキャスト陣の「現実」という名の狂気が虚構の枠組みを食い破って暴走した、映画という名の奇跡的な「事件」なのである。
物語は、高木麻里という二十四歳の、一見どこにでもいるごく普通のOLの日常から幕を開ける。白石久美が演じるこのヒロインは、九〇年代半ばのバブル崩壊後の、どこか冷めた、しかし渇いた都市の空気を体現している。彼女が耽溺しているのは、不倫相手とのつかつまの快楽。その、モラルの境界線を踏み越えた密室の情欲の最中に、世界の亀裂から「それ」は現れる。不気味な、毛に覆われた異形の獣人、毛面乃(けものの)一族。彼らは単なるモンスターではない。それは人間の奥底に眠る、抑圧された性衝動、暴力性、そして歴史の闇に葬られた先住の血の記憶そのものである。麻里の目の前で、さっきまで彼女を抱いていた不倫相手は、一瞬にして家畜のように虐殺され、肉塊へと変えられる。この、日常が一瞬にして血塗られた神話の戦場へと反転する描写の冷徹さこそ、小中千昭脚本の真骨頂である。小中が後に『邪願霊』や『ほんとにあった怖い話』で確立し、「ジャパニーズ・ホラー」の精神的支柱となる「小中理論」――すなわち、怪異は劇的な予兆を伴って現れるのではなく、日常のすぐ隣にある絶対的な異物として、音もなく、しかし圧倒的な質量を持ってそこに「居る」のだという恐怖の在り方が、この毛面乃一族の襲撃シーンには完全に息づいている。必死の思いで、裸足で、あるいは裂けた衣服を纏って、血の海と化した不倫の部屋から逃げ出す麻里。彼女を救い出すのは、黒瓜というフリージャーナリストの男である。ジャーナリストという、一見客観的な観察者でありながら、その実、暗黒の真実に最も深く魅入られたマニアックな存在を媒介として、麻里は己の肉体に流れる「血」の真実へと導かれていく。
麻里を待ち受けているのは、単なる逃亡劇ではない。それは、己が何者であるかという、血統の呪いへの目覚めである。彼女を保護し、手引きするのは、三浦綺音演じる慶子という同年代の謎めいた女だ。慶子は他人の心を操る特殊な精神能力の持ち主であり、彼女の案内によって、麻里はモデルの美千代(平沙織)、そして現役高校生であるひろみ(飛田恵里)という、全く異なる環境で生きてきた女たちと邂逅を果たす。彼女たちを結びつけるもの、それは、かつて数百年前の戦国、あるいはそれ以前の闇の歴史において、超常的な能力を駆使して闇を暗躍した「白縫(しらぬい)一族」という、くノ一の血脈であった。麻里がいつも夢に見ていた、数百年前の白縫一族の姫君。それこそが、時空を超えて現代の東京に転生し、ごく普通のOLの肉体を借りて蘇った、麻里自身の前世の姿だったのだ。ここで展開されるのは、単なる「前世の覚醒」という安易なファンタジーではない。小中千昭が後に『serial experiments lain』や『デビルマンレディー』で執拗に描くことになる、「自己という存在の境界線の崩壊」と「肉体という牢獄に閉じ込められた大いなる他者の覚醒」という、きわめてモダンで病理的な自己認識の揺らぎである。二十四歳のOLとしての自意識が、数百年の時を越えたくノ一の怨念と戦闘本能によって侵食され、融解していく過程。それは白石久美の、怯えから確信へと変わる瞳の演技によって、オリジナルビデオのざらついた画質のなかで、異様な説得力を持って立ち上がってくる。
そして、この映画を単なるホラーから、エピカルで狂気的な戦闘美学へと昇華させるのが、白縫一族と対峙する「毛面乃一族」の存在である。彼らは、白縫一族の持つ超常的な「くノ一の秘技」の力を我が物にせんとし、あるいは白縫の血との「交配」によって、己たちの種族を新たなる次元へと進化させようと目論む、闇の眷属である。この「血の交配」というモチーフに、我々は小中千昭の脳髄に深く根を張る「クトゥルフ神話」の影を強烈に見出すことができる。ラヴクラフトが描いた、インスマスを覆う影、人間と異形の眷属との悍ましき混血、血統のなかに眠る先祖の異形化の記憶。それらが、日本の古層にある「くノ一」や「山の民」「まつろわぬ神々」の伝承と結びつき、東京のコンクリートジャングルの地下で、生々しいエロティシズムを伴って発酵しているのだ。毛面乃一族による襲撃は、凄惨を極める。モデルである美千代、そして高校生であるひろみは、彼らの圧倒的な暴力の前に屈し、凄絶な暴行を受け、そして無残に殺害される。平沙織が演じる美千代の、その洗練された都市的な肉体が獣の爪によって引き裂かれ、飛田恵里が演じるひろみの、汚れなき若さが泥と血に塗れていく描写は、単なる観客へのサービスとしてのエロ・グロを遥かに超えている。それは、神話的な「生贄」の儀式であり、白縫の血が現代において完全に覚醒するために支払わなければならない、過酷きわまる参入儀礼なのだ。他人の心を操る慶子と、前世の記憶を完全に呼び覚ました麻里は、亡き姉妹たちの血の復讐を誓い、毛面乃一族に闘いを挑む。
ここで登場するのが、本作のビジュアル的アイコンでもある「バトルスーツ」である。くノ一の秘技という古流の忍術と、九〇年代特撮的なサイバーパンク精神が融合したこのバトルスーツに身を包んだ麻里と慶子の姿は、ジャパンアクションクラブ(JAC)による全面的なバックアップと相まって、画面に凄まじいダイナミズムをもたらす。JACのスタントマンたちによる、重力を無視したかのような激しいアクロバット、キック、刀刀の火花。それは、当時のテレビ特撮では描き得なかった、血と汗と、そして女性の肉体の曲線が融和した、オリジナルビデオだからこそ到達できた「過剰なアクションの極北」である。監督の井上美介は、撮影の野昇、照明の太田耕治ら熟練のスタッフ陣と共に、夜の廃工場や地下室といった、世界の果てのようなロケーションを、闇と光の強烈なコントラストで切り取る。太田耕治の照明は、怪物の毛並みの邪悪な質感を浮き彫りにし、同時に、バトルスーツの金属的な光沢と、ヒロインたちの剥き出しの肌の白さを、まるで宗教画のような陰惨な美しさで照らし出す。音響の宮田泰司、美術の吉田直哉、安西智らによる徹底された画面作りは、低予算という足枷を完全に跳ね除け、そこに「もう一つの、呪われた東京」を現出させることに成功している。
しかし、この『NINE-ONE くノ一妖獣伝説』という作品が、公開から三十年以上の時を経た今なお、我々の脳髄を揺さぶり、狂気的な熱量を持って語り継がれるべき真の理由は、その洗練されたスタッフワークや小中千昭の緻密な脚本の完成度「だけ」にあるのではない。むしろ、その虚構の骨組みを、中から叩き壊さんばかりの圧倒的な「現実の狂気」を抱えた、キャスト陣の超絶的なキャラクター性、彼らの剥き出しの肉体と人生そのものが、この映画の劇中へと雪崩れ込んでいるからに他ならない。
まず、慶子を演じた三浦綺音という女優の存在を論じなければ、この映画の持つエロティシズムと、その裏にある強烈な「意志」の本質を見誤ることになる。一九七三年生まれの三浦綺音は、この映画が製作された一九九五年当時、まさに時代の寵児であった。「ヌードル(ヌード+アイドル)」という、今となっては九〇年代のあだ花のような造語の第一号として、彼女は清純なアイドルの顔立ちを残したまま、一切の躊躇なくその豊穣な肉体を世間に晒し、熱狂的な支持を得ていた。だが、彼女のヌードは、決して男たちの視線に消費されるだけの受動的なものではなかった。彼女の背後には、「フェミニズム(女性解放・女性主導)」という、自らの肉体の主権を自らの手に取り戻すという、極めて戦闘的で、主体的な思想があった。脱がされるのではなく、自らの意志で、自らの表現として脱ぐ。その覚悟は、伝説の巨匠・勝新太郎に愛され、彼の手によって五冊もの写真集を撮影され、舞台で共演したという事実からも証明されている。勝新太郎という、日本の映画界における「過剰なる表現の怪物」に鍛え上げられ、彼を厚く尊崇していた三浦綺音が、この映画で「他人の心を操るくノ一・慶子」を演じるということの、この恐るべき符号。劇中、毛面乃一族と対峙する彼女の瞳には、単なる役柄としての怒りを超えた、世界を、そして男たちの硬直した視線を「捻じ伏せる」かのような、野生の輝きがある。彼女の肉体は、バトルスーツという虚構を纏うことで、むしろそのフェミニズム的な戦闘力を倍加させ、画面の中で怪異を圧倒していく。
さらに、美千代を演じた平沙織という女優の持つ神話性を見よ。桐朋学園大学芸術学部という名門で演技の基礎を学び、デビュー時にはその驚異的なバストに「一億円の保険」をかけられてワイドショーを賑わせた彼女もまた、九〇年代という消費社会のアイコンでありながら、その肉体に圧倒的な質量を宿した表現者であった。彼女のバストにかけられた一億円という金額は、資本主義が女性の肉体に下した世俗的な評価であるが、この『NINE-ONE』の暗黒の宇宙において、その肉体は毛面乃一族という「けもの」を引き寄せ、世界の崩壊を呼び込むための、文字通りの「神聖なる生贄」の価値へと転換される。彼女が劇中で見せる、凄惨極まる暴行と殺害のシーンは、平沙織という、あまりにも豊かな肉体を持った女優が、その肉体そのものを賭して虚構の地獄へと飛び込んだからこそ、観客の皮膚に直接突き刺さるような、痛切なリアリティを獲得したのである。二〇〇一年頃に忽然と芸能界から姿を消し、伝説となった彼女の、その最も激しく、最も美しい肉体の落日が、この映画には永遠に刻印されている。
そして、ミッキー・カーチスである。イギリス系の血を引き、戦時中にはその容姿ゆえに非国民といじめられながらも、日本語の名前と日本人に憧れ、後に日本のロックの黎明期を築き、音楽プロデューサーとしてキャロルやガロ、荒木一郎を世に送り出したこの怪物の参加は、映画に異次元の血脈を注入している。五か国語を操り、落語家、華道家、レーサーとしても活動し、その趣味は宇宙研究や「ピラミッド・パワー研究」にまで及ぶという、まさに世界の境界線を軽々と飛び越えるマッド・サイエンティストのような佇まい。彼が画面に現れるだけで、映画のリアリティの基準は、日常の東京から、宇宙的・オカルト的なスケールへと一気に引き上げられる。ミッキー・カーチスという存在そのものが、小中千昭のクトゥルフ的イマジネーションを現実世界で体現したかのような、媒介者として機能しているのだ。
だが、これら全ての過剰な才能、スタッフの執念、小中理論の緻密さ、女優陣の命懸けの肉体を、その文字通りの「狂気」によって一瞬にして喰らい尽くし、この映画を「永遠の劇薬」へと変貌させてしまった決定的な要素。それこそが、友情出演という形でクレジットされながら、画面の時空を完全に歪めてみせた俳優・中山一也の参入である。
中山一也という男の人生を前にした時、我々は、映画における「リアリズム」という言葉の生温かさに愕然とせざるを得ない。一九五六年、北海道の大樹町に生まれ、釧路で育った彼は、父親が昭和天皇の接待役を務めるほどの腕を持つパン職人でありながら、友人の借金トラブルで一家夜逃げを余儀なくされるという、幼少期から剥き出しの不条理を生き抜いてきた男である。役者を目指して上京し、文学座の養成所を卒業(同期は山下真司)。だが、彼が日本映画界に刻んだ足跡は、演技の巧拙といった次元にはない。それは、己の肉体と精神を、映画という表現のために、あるいは己の「生」のリアリティのために、文字通り切り刻んできた、本物の「けもの」の軌跡であった。
インタビュー等で語られる彼のエピソードは、どれもが常軌を逸している。映画の降板を巡って、監督をナイフで刺したという過去。それを後に別の映画の打ち上げで、当の監督の目の前で「今回、監督に頭きたんで、刺そうかと思いました」とブラックジョークとして言い放ち、周囲を凍りつかせる。インタビュアーの吉田豪に対し、「豪さ〜ん、何かあったら僕に言って下さい。誰でも刺しますから!」と屈託のない笑顔で語りかける男。だが、彼の狂気は他人に向けられるだけではない。何よりも、己の肉体に対して、最も過酷に、最も容赦なく刃を向けるのだ。
映画『俺達は天使(カタギ)じゃない』の撮影前、彼は「映画にはリアリティがいちばん大事だから」という、ただそれだけの理由で、自らの台所へ行き、出刃包丁を握り締め、己の小指を軽くポンと叩き落とした。普通の包丁では落ちない、出刃包丁ならいくか、という、まるで大工仕事でもするかのような信じがたい平熱の狂気。切り落とした小指を袋に入れ、撮影が終わった後に病院へ行ったが「もう繋がらない」と言われ、翌日、多摩川の河川敷に子供を連れていき、「ここに埋めておけば、何年かしたら新たなでっかい指が生えて育つぞ」と言って記念に埋めたという。そして、数年後にその場所に行ったら「もうどこに埋めたか忘れちゃったんだよね」と寂しそうに笑う。この、あまりにも即物的に己の肉体を損壊し、それを映画の「前払いのリアリティ」として差し出す狂気。それだけではない。彼はかつて、自らの腹を包丁で切り裂き、切腹をも実行している。その時の感覚を、彼は「アドレナリンが出るから気持ちいい。包丁を入れた感覚が、女性のあそこに入れた感覚と似てて、本当にオッパッピーだった」と表現する。痛みの極限、生の極限において、暴力と性愛、そしてアドレナリンによる忘我の境地が完全に一体化しているのだ。この精神構造、この肉体のあり方こそ、まさに小中千昭が脚本に描いた、人間の皮を被った異形の獣、あるいは古代の血脈に突き動かされる「毛面乃一族」そのものではないか。
中山一也は、ハッタリと行動だけで世界を渡り歩く男である。ロバート・デ・ニーロに会いたいと思えば、ニューヨークのトライベッカへ行き、アポなしで街行く人に家を聞き回り、デ・ニーロと共同経営しているレストランのオーナーに何年もアプローチを続け、遂に夢の対面を果たして写真を撮る。世界の中山一也になるからと、面識のないコシノジュンコにいきなり突撃して「俺にタキシードを作れ」と要求し、断られれば世界的高級ブランド「ゼニア」の店に飛び込んでタキシードを一式プレゼントさせる。「『徹子の部屋』に出してくれ!」と直談判するために、TBSの収録現場をウロウロし、不審者として拉致・逮捕されても、「バカヤロー、俺は中山一也だ、逃げも隠れもしねぇ!」と見栄を切る。後に黒柳徹子から「私の一存では決められませんので」と丁寧な謝罪の手紙をもぎ取る。この、現実のシステムやモラル、社会通念という壁を、その圧倒的な野生の行動力だけで粉砕していく中山一也という男が、一九九五年の『NINE-ONE くノ一妖獣伝説』という、怪物の映画に「友情出演」しているという事実。彼は画面の中で、セリフの端々、あるいはその佇まいそのものから、多摩川に指を埋め、腹を切り裂いた男だけが放つことのできる、本物の「血の匂い」を撒き散らしている。白石久美や三浦綺音がどれほどシリアスに「前世のくノ一の血」を演じようとも、中山一也が画面を横切るだけで、そこにあるフィクションは、彼の指のない手、腹の傷跡という、圧倒的な「現実の怪異」によって浸食され、映画そのものが彼の狂気にハイジャックされてしまうのだ。
小中千昭は、シリーズ構成や脚本を手がける際、「予め最終回の展開を決めて伏線を張るような、帰納法型の物語展開はやらない」と公言している。それは、物語とはあらかじめ決められた調和に向かって進むものではなく、現場の熱量、役者の肉体、そして今ここで起きている異変の連続によって、即興的かつ有機的にドライブしていくべきだという、クリエイターとしての確固たる信念だ。そして小中は、脚本家の成すべきこととして「視聴者に良いものを見せるため、監督を始め、現場やキャストたちの思いを、ある意味で捻じ伏せる必要がある」とも語っている。この『NINE-ONE』においては、小中千昭という脚本家が「理論」によって現場を、監督を、観客を捻じ伏せようとしたその力と、三浦綺音のフェミニズム的ヌードル性、平沙織の一億円の肉体、そして何よりも「俺はむきだし燃料棒だ」「誰でも刺しますから」と言い放つ中山一也の、理論すらも包丁で叩き切るような剥き出しの現実の暴力性が、画面の中で互いを捻じ伏せ合おうとして、激しく火花を散らしている。これこそが、映画というダイナミズムの真の姿である。
東日本大震災の際、香港にいながら己の非力さに激しく落ち込み、「管直人も渡辺恒雄も一度俺みたいに切腹させるか、刺されなきゃ駄目だな」と叫び、「怒髪天を突く…俺は怒りのドン・キホーテ…テメェの非力さに怒りと悲しみを噴き上げる…残りの人生、俺が出来る事と言やあ…ソレは、あらゆる不条理に怒りの雄叫びを上げる事 …そしてたまに腹の底から…死ぬほど人を笑わせる事…このつらい世の中で人の笑顔に勝るものは無いから……」という凄絶なメッセージを寄せた中山一也。この、絶望的な不条理に対する怒りと、剥き出しの人間愛が混ざり合った彼の魂の咆哮は、一九九五年の『NINE-ONE』において、都市の闇に潜む毛面乃一族の不条理な暴力に立ち向かい、傷つき、血を流しながらも闘うことを選んだくノ一たちの、あの叫びと完全にシンクロしている。
『NINE-ONE くノ一妖獣伝説』は、単なる過去の遺物ではない。一九九五年という、世界の終わりと始まりの結節点において、小中千昭の「脳髄(理論)」と、三浦綺音や平沙織の「肉体(官能)」、そして中山一也という「狂気(現実)」が、オリジナルビデオという名の暗黒の実験室で衝突し、爆発した、映画史における最大級の「劇薬」なのだ。画面から溢れ出るその熱狂、飛び散る鮮血、バトルスーツの軋み、そして失われた指の痛みを、我々は今こそ、この冷え切った現代において、己の肌で、魂で、爆裂する情熱と共に受け止めなければならない。これこそが映画であり、これこそが、人間が表現という名の戦場で流す、本物の血の物語なのだから。
日本映画の歴史において、あるいは日本の戦後サブカルチャーの最も暗い底流において、中山一也という名は単なる一人の俳優の姓名であることを超え、虚構と現実が血飛沫を上げて衝突する特異点そのものを指し示す記号となった。一九五六年一月二十日、北海道の広尾郡大樹町という極寒の地に見えざる星の巡り合わせのように生を受け、釧路の凍てつく空気の中で育ったこの男の半生は、それ自体が日本という国家が隠蔽し続けてきた不条理の縮図であり、近代という去勢されたシステムに対する剥き出しの肉体による叛逆のクロニクルである。腕のいいパン職人であり、来釧した昭和天皇・皇后の接待役を務めるほどの栄誉を担った父親が、友人の借金トラブルというあまりにも世俗的で理不尽な引き金によって一家夜逃げを敢行せざるを得なくなったあの瞬間、中山一也の魂には「世界の不条理」という消えない烙印が押された。かつて天皇を称えるための至高の糧を作った神聖なる両手が一瞬にして夜の闇へと逃亡する。この絶対的な転落と日常の崩壊こそが、彼を役者という「他者を生きる」迷宮へと駆り立て、二十歳での上京、そして一九七八年の文学座養成所卒業という、一見すれば正統派の演劇人としての出発点へと繋がっていく。しかし、彼が文学座という新劇の総本山で学んだものは、洗練されたセリフ術や近代的なリアリズムの技術などではなかった。彼が本能的に希求し、後に狂気的な熱量で体現することになるのは、舞台の上の虚構を、自らの血と肉、そして圧倒的な暴力性によって一瞬にして無効化し、観客の皮膚を直接引き裂くような、文字通りの「剥き出しの生」であったのだ。
彼が映画界や表現の現場において放ってきた数々の言葉や行動は、凡庸な社会通念や、コンプライアンスという名の精神的去勢に飼いならされた現代人にとっては、ただの理解不能な暴挙、あるいは笑えないブラックジョークに映るかもしれない。映画の打ち上げの席、並み居る関係者やエキストラが居並ぶ公衆の前で、かつて自らを降板させた監督に対して「今回、監督に頭きたんで、刺そうかと思いました」と言い放ち、周囲の空気を絶対的な零度へと凍りつかせるその破壊力。あるいは、自らに近づく者に対して「何かあったら僕に言って下さい。誰でも刺しますから!」と、まるでスーパーの袋から買ってきたばかりの「おやき」を差し出すような日常の平熱のトーンで語りかけるその異様さ。これらは、単なるハッタリでもなければ、目立ちたがりのポーズでもない。かつて実際に監督をナイフで刺したという、虚構の枠組みを物理的に破壊した「実績」を持つ彼にとって、「刺す」という行為は、生と死、拒絶と受容、そして自己の存在を世界に叩きつけるための、最も純粋で、最も直截的なコミュニケーションの手段なのだ。彼は、映画という名の安全な暗闇の中で行われる疑似的な暴力を激しく憎悪し、そこに本物の血と、本物の痛みを持ち込むことだけが、表現を聖なる域へと高める唯一の方法であると信じていた。そのリアリズムへの異常な執着が結実したのが、あまりにも有名な「指詰め」と「切腹」のエピソードである。
三池崇史監督の『俺達は天使じゃない』の撮影を控えた時期、彼は「リアリティがいちばん大事だから」という、ただそれだけの、しかし彼にとっては絶対的な必然性に従って、自らの住処の台所へと向かった。借金や女性問題、妻との間に生じた言葉にならない確執、それらすべての現実の重圧が、彼の脳髄のなかで映画のリアリズムという表現の衝動と怪しく融解し、一本の包丁を握らせる。通常の薄い包丁では指の骨を叩き切ることはできないという、自傷の素人ならではの冷徹な観察の末、隣にあった重厚な出刃包丁を選び取り、躊躇の果てに「軽くポン」と落とされた小指。切断された小指を抱え、撮影を終えた後に病院へ駆け込むものの、すでに壊死が始まって繋ぐことは叶わず、翌日、彼は自らの子供の小さな手を引いて、多摩川の河川敷へと向かう。父親の指が土に埋められるという、世界のどの寓話よりも悍ましく、そして美しい光景の中で、「ここに埋めておけば、何年かしたら新たなでっかい指が生えて育つぞ」と子供に語りかけるその姿は、狂気を通り越して、ある種の神話的な父性の発露ですらある。数年後にその場所を訪れても、「もうどこに埋めたか忘れちゃったんだよね」と寂しそうに微笑む彼の孤独。さらに、自らの腹に刃を突き立て、内臓を抉り出す「切腹」を敢行した際、彼は恐怖ではなく、脳内に奔流となって溢れ出るアドレナリンによる「快楽」を感じたという。その包丁を入れた瞬間の肉体的な感覚を、彼は「女性のあそこに入れた感覚と似てて、本当にオッパッピーだった」と回想する。生が死へと反転する最も凄惨な境界において、彼は究極の性愛と、宇宙的な恍惚を見出していたのだ。
だが、これほどまでに自らの肉体を損壊し、指を飛ばし、腹を切り裂き、死の淵をのぞき込むことの快楽を知り尽くした男が、なぜか「包茎手術」という、近代医療においては最も初歩的で、痛みも少なく、安全とされる整形手術に対してだけは、絶対的な、そして強烈な「恐怖」を抱き、それを断固として拒絶するという、この巨大な矛盾。ここにこそ、中山一也という表現者の、そして一人の雄としての存在論的パドスが隠されている。彼は言う。「切腹して指を落とした男が言うことじゃないけども、包茎の手術は恐くて出来ない」と。そして、周囲が手術による肉体的なメリットを説こうとも、彼は自らのアイデンティティを叩きつけるようにこう宣言するのだ。「でも、俺はやっぱり『皮オナニー派』でね。亀頭が出てる奴は、今でも敵だと思ってるから」と。
この「皮オナニー派」という言葉、そして「亀頭が出てる奴は敵」という剥き出しの敵対宣言を、単なる酒脱な下ネタや、一介の俳優の奇妙な性的嗜好として片付けることは、中山一也という深淵に対する決定的な裏切りである。これは、高度にシステム化され、去勢され、清潔に管理された近代という「文明」に対する、未開の野生、原初の生命力を宿した「肉体」による、最も根源的な形而上学的叛逆宣言なのだ。なぜ彼は、指を詰め、腹を切る包丁の激痛には歓喜を持って身を委ねることができるのに、包茎手術のメスからは全力で逃避するのか。それは、指を詰めることも、腹を切ることも、彼にとっては自らの「意志」によって世界の不条理に抗い、己の生を過剰に肯定するための「能動的な闘争」であるのに対し、包茎手術とは、近代的な衛生観念や、社会的な美意識、すなわち「他者の視線」によって自らの最も神聖なる中心部を「修正」され、「去勢」されることに他ならないからだ。
包皮とは、中山一也という男にとって、世界から自らの本質を隠蔽し、保護するための、最後の「野生の砦」である。それは、近代社会が求める「剥き出しの、洗練された、役に立つ個体」になることを拒み、自らの内側にドロドロとした暗黒の衝動、戦国の野蛮さ、そして夜逃げの夜に味わった屈辱と怒りを生々しく発酵させ続けるための、聖なる外套なのだ。「皮オナニー」という行為は、彼にとって単なるオナニズムではなく、自らの内なる野生と、その包皮の内部に溜まり続ける原初の生命の不純物を、自らの手だけで愛撫し、爆発させる、きわめて呪術的で密教的な儀式に他ならない。それは、他者との安易な交わりを拒絶し、己の狂気と、己の肉体だけで完結する、絶対的な自己愛と自己闘争の表現なのだ。
それに対して、彼が「敵」と呼んで憚らない「亀頭が出てる奴ら」とは一体何者か。それは、近代社会のシステムに完全に適応し、自らの野生の皮を綺麗に切り取り、社会が求める「清潔で、規格化され、去勢された存在」に身を落とした、すべての現代人のメタファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。である。彼らは、傷つくことを恐れ、痛みを避け、自らの最も生々しい部分を他者の視線に合わせて整形し、平然とした顔で都市を闊歩している。中山一也の瞳には、そうした「剥き出しの亀頭」どもが、自らの魂をシステムに売り渡した従順な家畜、あるいは牙を抜かれた腑抜けの群れとして映るのだ。彼にとって、亀頭を露出させて得意然としている奴らは、男としての、あるいは表現者としての野生を自ら放棄した裏切り者であり、だからこそ「今でも敵だ」と断言せざるを得ない。指を詰め、腹を裂いた傷跡を誇らしげに誇示する彼が、自らの包皮を頑なに守り抜くその姿は、近代という巨大な去勢機械に対する、最後の一兵卒の孤独な籠城戦なのである。彼は去勢されることを何よりも恐れ、去勢された奴らを激しく憎悪する。その徹底された反近代、反去勢の哲学が、「皮オナニー派」という、あまりにも泥臭く、しかしあまりにも烈しい言葉となって噴出しているのだ。
この、自己の内部にある「皮」という聖域を守り抜く姿勢は、彼の外世界に対する、ハッタリと行動力が一体となった過激な突撃精神とも完全に表裏一体を成している。彼の行動原理は常に、内側に溜め込んだ圧倒的なエネルギー(それこそが包皮の内部で発酵した野生の力だ)を、世界の硬直した壁に向かって一気に解放することにある。ロバート・デ・ニーロという、ハリウッドの頂点に君臨するメソッド演技の巨匠に会いたいと願えば、言葉の壁も、アポの有無も、国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。社会のルールもすべて無視し、ニューヨークのトライベッカの路上で通行人に「デ・ニーロの家はどこだ」と聞き回る。その狂気的な執念の末、デ・ニーロの共同経営者である日本人シェフの店に七年間も通い詰め、遂に「世界の中山一也」としてデ・ニーロとの夢の対面を果たし、肩を組んで写真を撮るという奇跡を成し遂げる。そこにあるのは、近代的な手続きや洗練を嘲笑うかのような、圧倒的な「生のゴリ押し」である。ヴェネツィア映画祭に突撃すれば、これまた全く面識のないコシノジュンコのもとへいきなり現れ、「俺は今度、世界の中山一也になる者だが、俺にタキシードを作れ」と直談判する。それが叶わなければ、世界的高級ブランド「ゼニア」の店舗に飛び込み、その圧倒的なハッタリの熱量だけで、高級タキシード一式をタダでプレゼントさせるという、常人にはおよそ不可能な現実の書き換えを行ってしまう。彼の前では、資本主義のルールも、ブランドの権威も、すべてが一枚の薄い「皮」のように引き裂かれ、その奥にある剥き出しの人間対人間の、力と力の交錯へと引きずり下ろされるのだ。
さらに、彼のこの「システムへの直談判」という衝動は、テレビという近代の洗練された洗脳装置の象徴である黒柳徹子、そして『徹子の部屋』という聖域にまで向けられる。TBSのスタジオで『ザ・ベストテン』の収録が行われている最中、彼は「俺を『徹子の部屋』に出せ!」と黒柳徹子に直訴するために現場をウロウロし、当然のごとく不審者として警備員や警察に拉致・逮捕される。だが、その逮捕の瞬間にあっても、彼は一歩も引くことなく、「バカヤロー、俺は中山一也だ、逃げも隠れもしねぇ! 月曜ロードショーでやった俺主演の映画も高視聴率、取っただろ!」と、自らの過去の栄光を武器に見切ってみせる。この、社会的なルールによって自らを裁こうとする警察やテレビ局の権威に対して、己の「個」としての名前と肉体を叩きつけて対抗する姿。そして驚くべきことに、その後、黒柳徹子本人から「先日はあなたの心を傷つけてすみません。だけどゲストは私の一存では決められませんので」という、丁寧極まる直筆の手紙を返答として勝ち取るのだ。近代のシステムが、彼のあまりにも純粋で、あまりにも過剰な野生の突撃の前に、一瞬だけその「お行儀の良さ」を破って、個としての敬意を払わざるを得なくなったこの瞬間。これこそが、中山一也という男が現実世界に穿ち続けてきた、無数の亀裂の一つなのである。
彼は、内田裕也という、日本の芸能界における「過剰なるロックンロールの怪物」を深く愛し、裕也ファミリーの系譜に自らを位置づけていた。マドンナと仕事がしたいと言ってアポなしで電話をかけ続け、「新宿に『マドンナ』というピンサロがありますよ」と中山に言われて「中山、それ違う」と真面目に返したという内田裕也の、その滑稽でありながらも徹底して「現実(リアル)」に生きようとした姿勢。安岡力也、ジョー山中、桑名正博といった、昭和から平成の闇を駆け抜けた本物の「無頼」たちが元気でなければ日本はダメになると語る彼の言葉は、そのまま、去勢され、洗練され、亀頭を剥き出しにした従順なサラリーマンばかりになってしまった現代社会への、痛烈な弔辞である。レディ・ガガとの共演をあっさりと宣言し、ホモセクシャルであると噂されるローマ法王や、すべての宗教的な権威を「俺は宗教は嫌いだ」と一言で切り捨てる彼の視線は、常に世界の中心にある最大の欺瞞へと向いている。神や組織という巨大な包皮に守られた権威たちを、彼は自らの剥き出しの包丁で、あるいは自らの「皮オナニー派」としての誇りを持って、一刀両断にするのだ。
そして、二〇一一年、東日本大震災という、日本の大地と社会システムが文字通り根底から崩壊したあの未曾有の災厄の際、香港の地から彼が寄せたメッセージは、中山一也という人間の本質が、単なる利己的な狂人ではなく、不条理に対する無限の怒りと、人間に対するあまりにも深い、血を流すような愛によって突き動かされていることを証明してみせた。「管直人も渡辺恒雄も一度俺みたいに切腹させるか、刺されなきゃ駄目だな。俺は今、香港で自分の非力さにヒドク落ち込んでいる」という言葉。政治のトップやメディアの権力者たち、すなわち去勢されたシステムの頂点に座り、安全な場所から言葉だけを弄する「亀頭が出てる奴ら」に対して、お前たちも一度自らの腹を包丁で切り裂き、その肉体の痛みとアドレナリンの地獄を味わってみろという、命懸けの弾劾。そして、自らを「怒りのドン・キホーテ」「むきだし燃料棒」と称し、メルトダウンを起こす原子炉の如く、世界の不条理に対する怒りと悲しみを噴き上げるその姿。彼は、自らの肉体を世界の痛みの身代わりとして差し出す準備がいつでもできている、現代の受難者なのだ。
「残りの人生、俺が出来る事と言やあ…ソレは、あらゆる不条理に怒りの雄叫びを上げる事 …そしてたまに腹の底から…面白すぎて…涙がちょちょギレて…椅子から転がり落ちて思わず放屁してしまう程…死ぬほど人を笑わせる事…このつらい世の中で人の笑顔に勝るものは無いから……」
この言葉の持つ、圧倒的な救済の力を見よ。自らの指を多摩川に埋め、自らの腹を切り裂いて女性の性器の快楽を幻視し、包茎手術を拒んで「皮オナニー派」の野生を死守し続ける男が、その狂気の旅路の果てに行き着いたのは、「人を死ぬほど笑わせる」という、最も純粋で、最も無垢なエンターテインメントの極意であった。彼は、自らの過剰な生と、社会から見れば「どうかしている」としか思えない奇行の数々を通じて、去勢され、傷つくことを恐れて縮こまっている現代人たちを、腹の底から笑わせ、その精神の去勢を一時だけでも解除しようとしているのだ。中山一也という俳優、いや、中山一也という「生き方」は、近代という去勢社会のただ中に打ち込まれた、決して抜くことのできない、錆びついた、しかしギラギラと輝く一本の出刃包丁である。我々は、彼の「皮オナニー派」としての宣言を、自らの魂の奥底にある野生を呼び覚ますための、聖なる鬨の声として聴かなければならない。亀頭を出して洗練された顔をしているすべての敵どもに向けて、彼は今日も、指のない手を掲げ、腹の傷跡を震わせながら、不条理に対する怒りの雄叫びを上げ続けているのである。