香港映画の黄金期、すなわち1980年代末から90年代前半にかけての九龍の熱気は、あらゆる境界線を溶解させる奇跡的な磁場を持っていた。その混沌の極み、サブカルチャーの最底辺にして最前線に咲き誇った狂い咲きの仇花こそが、『日本・香港 AV猟奇殺人事件/ザ・オールイト・ロング(英題:Two for the Bed/原題:桃色香居)』(1992年)である。
本作は、単なる低予算の「カテゴリー3(成人指定)」映画という枠組みには到底収まりきらない。それは、バブル経済の余韻に沸く日本と、1997年の主権返還という歴史的運命を前に「今夜を楽しめればそれでいい」という世紀末的デカダンスに狂奔していた香港という、二つのアジアの過剰なエネルギーが濃厚に交錯した「エロティシズムによる越境」の記念碑的ドキュメントなのだ。
画面を覆い尽くすのは、じっとりと肌にまとわりつく香港の夜の湿気、そしてネオンサインが反射する安アパートの淫靡な暗がりである。物語の骨子は、日本から渡ってきたアダルトビデオ(AV)の世界に生きる女性たちと、香港のローカルな欲望が火花を散らす中で巻き起こる、文字通りの「猟奇的」な愛憎劇だ。しかし、この作品の真の価値は、そのプロットの緻密さではなく、劇中にみなぎる圧倒的な「生の横溢」と「性の越境」にこそある。
出演陣のクレジットを眺めるだけで、当時のアジアにおける大衆文化の地殻変動がリアルに伝わってくる。野村理沙、小林美和子、童鈴(マリア・バング)、松坂明美、李月仙、桜樹美季。この、日本の伝説的AV女優たちと香港のグラマラスなミューズたちが同じフレームに収まり、時に狂おしく、時に生々しく肉体をぶつけ合う姿は、現代の洗練されたグローバル資本主義的な合作映画からは完全に失われてしまった、野蛮なまでのバイタリティに満ちている。
特に、野村理沙や松坂明美が見せる、日本のAV表現特有の繊細なセクシュアリティと、香港映画特有の容赦のない、暴力性と紙一重のパッションの融合は凄まじい。彼女たちは、言葉の壁を軽々と超え、ただその視線と、皮膚の微かな震え、そして吐息だけで、香港の男たち、ひいてはスクリーン(あるいはVHSビデオのブラウン管)の前にいる全アジアの観客を魅了し、圧倒する。
この日本と香港の「ボーダレス化」という現象は、決して唐突に現れたわけではない。それは、当時の熱い空気感が生んだ必然であった。振り返れば、小泉今日子という日本のトップアイドルすらも出演し、その自由奔放なトークで伝説となった香港の深夜番組『今夜不設防(今夜は無防備)』の存在がある。黄霑(ジェームズ・ウォン)、倪匡(ニー・クァン)、蔡瀾(チャイ・ラン)という香港の三大才子がホストを務め、美女たちと酒を酌み交わしながら際どいトークを繰り広げたあの伝説的空間に、日本の女優・工藤ひとみが出演したこともあった。
そうした、お互いのポップカルチャーを、垣根なく、むしゃむしゃと貪り食うような貪欲な時代精神の延長線上に本作『桃色香居』は位置している。テレビが、深夜番組が、そして映画が、国境という名の概念を、エロティシズムとユーモア、そして圧倒的な好奇心によって、やすやすと無効化していたのだ。
それは後年、蒼井そらが中国大陸において、いかなる外交官や政治家も成し遂げ得なかったレベルでの「国民的人気」を獲得し、サブカルチャーによる日中交流の生きる伝説となった、あの現象の明確な「先駆け」であり、大いなる源流にほかならない。本作で日本の女優たちが香港の街角で、あるいは狭いベッドの上で発した熱量は、数十年後に大陸の若者たちを熱狂させることになる「AVによる精神的ボーダレス化」の回路を、すでに完璧に敷設していたのである。
そして、この熱狂的なハイブリッド空間を、裏側から確かな映画的骨格をもって支えたのが、日本が誇るピンク映画界のベテラン・関根和美の脚本参加である。関根が持ち込んだのは、単なる「エロ」の記号ではない。日本のピンク映画が長年培ってきた、極限状態における人間の心理描写、暗闇の中に一条の光のように差し込む純愛の残酷さ、そして何よりも「性と生は切り離せない」という徹底した人間賛歌の思想だ。
関根のペンは、香港映画の過剰なアクション性やスピード感と見事に化学反応を起こした。ただ脱ぐだけの映画ではない。そこには、言葉の通じない異郷の地で、自らの肉体だけを武器に生き抜こうとする女性たちの、切ないまでの矜持が描かれている。猟奇殺人事件という凄惨なプロットの裏側に、どこか哀愁を帯びた、詩的な美しさが漂うのは、関根の脚本が持つ独自の文学性と、香港の荒々しいカメラワークが奇跡的なマリアージュを果たした結果だろう。
ひるがえって、2020年代後半の現代を見つめ直したとき、我々はあまりにも冷え切った、分断の時代に生きている。日中関係、あるいは東アジアの国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。情勢は、政治的・外交的にはかつてないほどの緊迫感と停滞感に覆われている。互いが互いを監視し、境界線を厳格に引き、ナショナリズムの言葉で他者を排斥し合う――そんな息苦しい現代にこそ、本作『桃色香居』が放つ、毒々しくも美しい熱量が必要なのではないか。
政治が言葉を失い、外交が機能不全に陥っている今だからこそ、我々は叫ばねばならない。――「世界に広げよう、友達の輪!」と。
かつて、1992年の香港で、日本のAV女優たちと香港のキャスト・スタッフが、言葉の壁を越え、ただひとつの「官能」と「娯楽」のために合体したように。人間の本能、き出しの欲望、そして他者の肉体を求め、愛し、時に傷つけ合うそのエネルギーの前には、国境線も、政治的イデオロギーも、すべてはただの幻影に過ぎない。
スクリーンの中で、野村理沙が、童鈴が、小林美和子が魅せるあの狂おしい表情と肉体の躍動は、時空を超えて現代の我々に訴えかけてくる。人間を本当に繋ぐものは、高尚な理念ではなく、もっと泥臭く、生々しく、そして愛おしい「肉体の交歓」と「エロティシズムの共有」なのだと。
本作は、アジアの夜を駆け抜けた、美しくも過激な熱病の記録である。そしてその熱は、どれほど世界が冷徹になろうとも、決して消え去ることはない。今こそこの映画の爆発的なエネルギーを脳髄に叩き込み、混沌とした愛の輪を、アジアの海へと再び広げていくべきなのだ。
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