金銀彩文様について:
抜き窓圏線は赤と銀彩、画像参照
(銀彩は酸化により黒色、一部銀彩無部有、半分程)
松は金彩、
ニ魚と水面は金彩と赤、一魚は銀彩、藻は銀彩と赤
(銀彩は酸化で黒色、一部色スレ無部多少、画像参照)
古九谷特有のハレーションも綺麗に出ています。
(虹彩、古九谷の場合は文様周りの吸い込みの事)
(光を直角に当て撮影、最後の画像参照)
鍔縁に極薄い煙多少、画像参照
(鍔縁半分弱、微かな煙で目立たず、許容範囲内)
(表見込部は綺麗です)
極小灰振・クッツキ・釉切・釉下シワ・凹凸・ムシクイ・釉下シワ・釉スレ多少
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古九谷は様々な種類があり、意外と多く現存しています。
日本初の磁器、初期伊万里のすぐ後の古九谷です。
当時の富裕層の大量需要がなければ、多種多様の器を大量に作ることはできません。
驚異的な技術進歩は、大量需要により生み出されたと考えられます
江戸初期に日本で初めて陶磁易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 器が生産され伊万里と呼ばれました。
最初の伊万里を初期伊万里と呼びます。(1610年代)
:::::::::::::::古九谷について:::::::
古九谷は、初期伊万里のすぐ後、寛文期前後に作られた色絵磁器です。
驚異的な技術進歩により、日本初の色絵磁器が誕生しました。
(1640年代)
色絵は古九谷、染付古九谷は藍九谷、錆釉古九谷を吸坂と呼びます。
また青磁釉・瑠璃釉・白磁は、古九谷の名称を上下いづれかに足し呼ばれる
事もあります。
寛文期前後は、様々な技術や様式が生まれ、淘汰された興味深い時代です。
(1640年~1670年代前後)
後の柿右衛門様式は古九谷のすぐ後、延宝期に確立されたと言われています。
柿右衛門様式の登場で古九谷は役目を終え終了します。
なぜこの時代の伊万里が古九谷と呼ばれているのでしょうか?
半世紀程前迄古九谷は、石川県の焼き物、江戸時代の九谷焼と言われていました。
昭和20年代、古九谷と呼ばれる焼き物が、実は佐賀県有田で作られたものではないか
という説が登場し、九谷説と有田説の論争が始まりました。
「九谷論争」です。
有田説は、江戸時代、海外へ輸出された伊万里の古九谷との共通性にありました。
有田説を支持する説が諸外国でも登場します。
その後、考古学的に生産地遺跡の発掘調査が双方で行われました。
素地の化学分析が行われた結果、有田説で終結しました。
終結後も古九谷の名称は残りました。
ただ、その後も調査は続いています。
疑問点がまだあり、今後の研究により更に詳細が解明されればと思います。