昭和四十一年、松竹の大船撮影所から放たれたひとつの映画がある。山田洋次という、のちに日本人の記憶の底流を「男はつらいよ」で優しく撫で上げることになる若き巨匠が、その溢れんばかりの才能と、映画という運動体に対する底知れぬ野心、そして何より人間という浅ましくも狂おしい存在に対する爛熟した愛憎を極限まで滾らせて結晶させた奇跡の一篇、それが『運が良けりゃ』である。この作品を単なる「昭和の庶民派喜劇」や「クレージーキャッツのタレント映画の変奏」などと片付ける者は、映画という芸術が持つ真の毒と蜜、そして江戸古典落語という数百年の時を超えて研ぎ澄まされてきた人間の業の怪異を、何ひとつ理解していないと言わざるを得ない。画面の端々から漂うのは、長屋のドブの匂いであり、汗と脂に塗れた皮膚の温もりであり、そして死体が放つ甘やかな腐臭と、それに群がる生者たちの飢餓感そのものである。山田洋次はこの映画において、江戸という遠い過去の幻影をノスタルジーとして描いたのではない。むしろ、生と死、金と欲望、性と暴力が地表のすぐ下で渦巻く、人間の生々しい解剖図として長屋という閉鎖空間を構築してみせたのだ。そしてその解剖図のメスとなったのが、他ならぬ江戸古典落語の数々である。
この映画の構造を支えているのは、単一の物語の直線的な展開ではない。江戸古典落語の白眉である「らくだ」「さんま火事」「突き落とし」「黄金餅」、さらには「死神」や「文七元結」といった人間の底なしの欲望と滑稽さを描いた傑作群が、まるで精密なモザイク画のように、あるいは幾重にも重なり合う落語の出囃子と下座音楽のポリフォニーのように、見事な手腕で織り上げられている。映画が開幕した瞬間から、我々は1960年代の高度経済成長期の熱気と、江戸の場末の長屋という泥臭い泥濘が時空を超えて交差する、怪異な小宇宙へと引きずり込まれる。画面に漲るフレームの圧迫感を見よ。シネマスコープの広大な画面を満たしているのは、洗練された江戸の小粋さなどではなく、狭隘な長屋の路地に蠢く貧しき市井の人々の肉体であり、衣服の破れ目から覗く汚れ、そして何よりも「何としても明日を生き抜かねばならない」という凶暴なまでの生のエネルギーである。
まず我々が徹底的に解剖しなければならないのは、「らくだ」という古典落語がこの映画において果たしている、極めて陰惨でありながら失笑を禁じ得ない爆発的な役割である。古典落語における「らくだ」とは何か。それは、長屋の嫌われ者であり、巨体で乱暴者、周囲から人間扱いすらされていなかった男「らくだの馬」の唐突な死から始まる噺である。死体が転がっているところから始まる物語――これほどまでに残酷で、これほどまでに人間の尊厳を解体する構造が存在するだろうか。映画において、この「らくだ」の肉体性と死の冷たさを体現するのは、圧倒的な存在感を誇るハナ肇と、その対極に位置する気弱で矮小な犬塚弘のダイナミズムである。ハナ肇演じる熊五郎の、粗暴でありながらどこか哀愁を帯びた肉体は、画面狭しと暴れ回る。そして死んだ「らくだ」の冷たくなった肉体をめぐり、長屋の住人たちが織りなす狂騒劇は、まさに映画という動的芸術でしか表現し得ない泥臭い喜劇性の頂点を示している。
落語「らくだ」の真骨頂は、死体を使って生者を脅迫するという、恐るべき倫理の逆転にある。家主のもとへ出向き、「葬式の酒と通夜の肴を出さなければ、この死体を担いできて目の前で『かんかん踊り』を躍らせるぞ」と脅す。死者という最も無力で静的な存在が、生者の世界を威嚇し、揺さぶる武器へと変貌するのだ。山田洋次はこの落語的ナンセンスの極致を、カメラの動線と俳優の肉体言語によって完璧に可視化してみせる。死体がまるでひとつの巨大な小道具のように、あるいは生者のエゴイズムを映し出す鏡のように引きずり回され、弄ばれる。その光景は、一見すると不謹慎の極致であり、ブラックユーモアの域を超えた倫理的タブーへの侵犯である。しかし、それこそが江戸の庶民が持っていた生と死に対する真のリアリズムではなかったか。死は特別なものではなく、隣の部屋で突如として転がっている日常の延長であり、その死体すらも明日の米のために利用しなければ生き延びられないという、圧倒的な貧困と生への執着。山田洋次のカメラは、死体を前にしてもなお酒を飲み、肉を喰らい、金を要求する長屋の住人たちの泥臭い瞳を逃さず捉え続ける。ここには、後年の「寅さん」シリーズに見られるような温かな抒情の萌芽がありながらも、それ以上に苛烈で野蛮な「生きるための喜劇」が渦巻いているのだ。
そして、この「らくだ」の反転劇のハイライトである、おとなしかった屑屋(あるいは八五郎)が酒を飲むにつれて立場を逆転させ、粗暴な熊五郎を威圧し始めるという酒宴の恐ろしさ。犬塚弘の繊細極まりない演技の変容を見よ。最初は恐怖に震え、死体を前にして腰を抜かしていた弱小な男が、出された酒を一口、また一口と煽るにつれて、その目つきが変わっていく。体内に注入されたアルコールが、彼の中に抑圧されていた長年の貧困への怨念、世間への怒り、そして男としての獰猛さを呼び覚ます。立場は完全に逆転し、恐怖に慄く熊五郎を顎で使い、死体を抱えて躍らせることを要求する。この滑稽でありながらもどこか背筋が凍りつくような人間の階層秩序の崩壊と再構築。山田洋次は、この酒宴のシーンを密室の濃厚な空気感とともに撮り上げている。狭い部屋の空気は酒の匂いと汗の脂で飽和し、照明は低く影を落とし、まるでバロック絵画のような陰影の中で、二人の男の精神が乱反射を起こす。ここで展開されているのは単なるギャグではない。抑圧された者が酒という狂気を通じて一瞬だけ世界の主宰者へと駆け上がる、喜劇の形を借りた残酷な人間解体劇なのである。
さらに、映画『運が良けりゃ』の凄みは、この「らくだ」の持つ死の臭気に、間髪を入れず「さんま火事」の持つ野火のような爆発的な破壊衝動を交錯させるところにある。「さんま火事」――それは江戸という都市が常に抱えていた最大の恐怖であり、同時に最大のエンターテインメントでもあった「火事」をめぐる狂騒である。江戸の町にとって火事とは、すべてを焼き尽くす災厄であると同時に、鬱屈した長屋の日常をすべてチャラにし、貧富の差を一瞬にして無化する究極のカーニバルでもあった。映画の中で描かれる火事の喧噪、半鐘の音が夜の闇を切り裂き、人々が着の身着のまま飛び出していく群集劇のダイナミズムは、山田洋次という監督がいかに映画的な「運動」をコントロールすることに長けていたかを証明している。
「さんま火事」の落語的真髄は、落語特有の人間の愚かしさと、事態の異常なエスカレートにある。一匹のさんまを焼く小さな煙や火種が、人間の欲望や勘違い、そして野次馬根性と結びつくことで、大火事の幻想へと膨らんでいく。あるいは、火事の混乱に乗じて一儲けしようと企む者、火事場泥棒の浅ましい立ち回り、そして「どうせ何も持っていないのだから、いっそすべてが燃えてしまえばいい」という底辺の人間たちが抱く破壊の快楽。山田洋次はこの「さんま火事」のエピソードを通じて、長屋という共同体が持つ連帯感の裏側に潜む、身勝手なエゴイズムを露わにする。火事が起きれば騒ぎ立て、他人の不幸を肴に酒を飲み、混乱の渦中で己の欲望を満たそうとする。画面を満たすのは、赤々と燃え上がる炎の光と、それに照らし出される人々の狂気に満ちた笑顔である。この笑顔の恐ろしさ。不幸や災厄すらも娯楽として消費し、生きる糧にしてしまう江戸庶民の凶暴なまでのしたたかさ。山田はそれを、一切の道徳的批判を交えずに、ただ圧倒的な活劇としてカメラに収めていく。炎の熱気と人々の叫び声、駆け出す足音、倒れていく家屋の木の割れる音。それらがシネマスコープの画面の中で重なり合い、圧倒的な狂騒の音楽を作り出すのだ。
しかし、物語は単なる狂騒では終わらない。ここで深化するのが、「突き落とし」という吉原や岡場所、夜の闇に蠢く男女の騙し合いと底意地の悪さを描いた落語の陰惨な美学である。「突き落とし」とは、男を騙して金を巻き上げ、最終的には暗闇の土手から突き落として抹殺しようとする、吉原の女郎やその情夫たちの冷酷な企みから始まる噺である。映画において、この「突き落とし」の要素は、人間の性と金の切れ目が縁の切れ目であるという残酷なリアリズムとして機能する。倍賞千恵子演じるセイという女性の存在感に目を向けなければならない。のちに『男はつらいよ』のさくらとして、日本映画史上最も清純で愛情深い妹像を確立することになる倍賞千恵子が、この1966年の段階で見せているのは、単なる「可哀想なヒロイン」にとどまらない、貧困の底で生き抜くために牙を研ぐ女の、凄惨なまでの美しさと逞しさである。
吉原や岡場所という、人間が商品として売買される極限の空間において、愛や情などというものは一文の価値も持たない。男は女の肉体を買い、女は男の財布から最後の銭を絞り取ろうとする。「突き落とし」のエピソードが描くのは、男と女のロマンチックな恋愛などではなく、生き残りをかけた極限の心理戦である。暗闇の土手、夜風が吹き抜ける柳の木の下、川面の不気味な反射。そこで交わされる甘い囁きは、すべて相手を死の淵へと誘う罠である。山田洋次の演出は、この暗闇のシークエンスにおいて圧倒的な映画的サスペンスを醸し出す。一歩間違えれば死に至るような切迫感の中で、男は女の嘘を見抜けず、女は男の愚かさを嘲笑う。だが、その嘲笑の裏には、そうしなければ生きていけない女の血の滲むような絶望が存在している。暗闇からドボンと音がして水しぶきが上がるとき、そこに立ち昇るのは可笑しみと同時に、人間の存在のあまりの軽さ、儚さである。土手から突き落とされた男が、泥まみれになりながら這い上がってくるその姿は、不格好であり、醜く、しかしどこまでも人間的である。死の淵から何度でも泥を払って蘇ってくる長屋の人間たちの、この粘着質な生命力。山田洋次は「突き落とし」という陰惨な噺を、人間の「不滅の図々しさ」への賛歌へと鮮やかに転化させているのだ。
そして、この映画の倫理的・美学的な頂点であり、最も恐ろしく、かつ愛おしい狂気として君臨するのが、「黄金餅(こがねもち)」の解剖である。「黄金餅」という落語を思うとき、我々は人間の金銭に対する執念が、宗教や道徳、さらには衛生観念すらも軽々と突破してしまうという、恐怖の光景に直面せざるを得ない。「黄金餅」のあらすじは、あまりにも奇怪である。長屋のケチで有名な男・西行竹庵が死に直面したとき、自分が生涯をかけて貯め込んだ小判を、誰にも渡したくないがために、餅に包んで次々と飲み込んで死んでいく。そして、その死を知った隣の男(権太)は、竹庵の腹の中に金が入っていることを察知し、通夜のフリをして死体を盗み出し、寺へ持ち込んで焼き、その灰の中から、あるいは焦げた内臓の中から小判を拾い集めるという、まさに狂気と執念の極限を描いた噺である。
映画『運が良けりゃ』において、この「黄金餅」のモチーフが提示された瞬間、画面の温度は一気に異様な高熱を帯びる。死体が金を呑み込み、生者がその死体の腹を割って金を掘り出そうとする。これほどまでに直接的で、これほどまでにグロテスクな「金と人間の関係」の提示が他にあるだろうか。金を飲み込んで死んでいく男の、苦悶に満ちた表情、喉を鳴らして小判を押し込むその喉仏の動き。ハナ肇をはじめとするキャスト陣が演じるその動作は、滑稽さを通り越して、ある種の神聖な宗教的執念すら感じさせる。金とは何か。それは単なる交換媒体ではない。貧しい庶民にとって、金とは己の命そのものであり、血であり、骨なのだ。だからこそ、死ぬ瞬間にそれを体内に戻そうとする行為は、彼らにとって唯一の「救済」であり、自己の存在の証明なのだ。
そして、その死体の腹から金を回収しようとする生者の姿。ここには一切のセンチメンタリズムも、死者への不必要な敬意も存在しない。あるのは「死んだ奴に金は要らない、生きている俺たちに金が必要なのだ」という、あまりにも圧倒的な生存の論理である。死体を背負い、夜の江戸の町をコソコソと運んでいくシーンの緊張感とユーモア。足音が夜の静寂に響き、見張り役に怯えながらも、頭の中は小判の輝きでいっぱいになっている。この「黄金餅」のエピソードが放つ泥臭いグルーヴ感は、映画全体を貫く最大の推進力となっている。小判という黄金の輝きと、人間の排泄物や死体の灰という最も汚悪なものが等価で結びつくこの構造。これこそが、古典落語が到達した最高の人間洞察であり、山田洋次という映画監督がスクリーン上に完璧に再構築してみせた「庶民の真実」なのである。
我々はここで、さらに視野を広げ、なぜ山田洋次が1966年という時代に、これほどまでに濃密な江戸古典落語の闇と光をスクリーンに召喚しなければならなかったのかを考察しなければならない。1966年といえば、日本は高度経済成長の只中にあり、東京オリンピックを終え、新幹線が走り、人々は未来という明るい幻想に向かって突進していた時代である。街は近代化され、古い木造の長屋は打ち壊され、清潔で均一なコンクリートの団地が次々と建設されていた。そんな「清潔で、効率的で、前向きな」時代に対する強烈なアンチテーゼとして、あるいは近代化の渦中で切り捨てられようとしていた人間の泥臭い肉性と混沌への痛烈なノスタルジーとして、『運が良けりゃ』は作られたのではないか。
山田洋次が描く長屋は、決して綺麗なセットではない。柱は傾き、壁の漆喰は剥がれ落ち、路地には雑多な生活用品があふれ、ドブからは常に悪臭が立ち昇っているような空間である。しかし、そこには現代都市が失ってしまった圧倒的な「密度の高い人間関係」が存在していた。隣の部屋で誰かが死ねば、長屋全員がそれを知り、誰かが金を儲ければ、全員がそれに群がる。プライバシーなどという生ぬるい概念は存在しない。すべてが共有され、すべてが暴かれ、すべてが笑い飛ばされる。この長屋という閉鎖的でありながらも開かれた空間において、人間は孤独になることすら許されない。誰かの不幸は長屋全体のエンターテインメントであり、誰かの幸福は長屋全体の嫉妬の対象である。この、一見すると鬱陶しくも愛おしい「人間の集団性」を、山田洋次はカメラの長回しと、見事な集団劇のアンサンブルによって描き出していく。
登場人物たちの配置と役者たちの芝居の精度についても、深く深く論じなければならない。ハナ肇という不世出の喜劇役者が持つ肉体の質量感。彼の演じる熊五郎は、単なるバカでもなければ、単なる悪党でもない。怒り、笑い、泣き、腹を立て、酒を飲み、肉を喰らう。その一挙手一擲足が、生命のエネルギーそのものの放射である。ハナ肇の顔面のアップを見よ。汗が滴り、目が血走り、口を開けば豪快な笑い声と罵詈雑言が飛び出す。彼の肉体は、近代化されたスマートな日本人像に対する強烈な異議申し立てであり、江戸の野蛮な生命力の直接的な顕現である。そしてその横に立つ犬塚弘の、しなやかで頼りなく、しかししぶとい身体性。犬塚演じる八五郎の気弱な眼差し、相手の顔色を伺う素早い動作、そして酒が入った瞬間の突発的な狂気。この二人のコンビネーションは、単なる漫才的な掛け合いを超えて、人間の内に潜む「剛」と「柔」、「暴力」と「卑屈」の相克を完璧に体現している。
さらに、谷啓や桜井センリ、安田伸といったクレージーキャッツのメンバーたちが、単なるゲスト出演としてではなく、長屋の風景を構成する不可欠なピースとして、それぞれ異彩を放っていることにも注目しなければならない。彼らが持ち込む音楽的なリズム感、言葉のテンポ、身体のフットワークの軽やかさは、落語の文楽や志ん生、圓生といった名人たちが持っていた「言葉のグルーヴ感」と見事に共鳴している。落語とは本質的に、たった一人の噺家が声と扇子と手拭いだけで世界を構築する「音楽的言語芸術」であるが、山田洋次はこの映画において、その落語の持つリズムを、映画の編集テンポやカット割り、役者たちの台詞の間合いへと見事に翻訳してみせたのだ。台詞が交わされるテンポの心地よさ、間の取り方の絶妙さ、そして不意に訪れる静寂。それらはすべて、江戸落語の下座音楽のように画面の底流で鳴り響いており、観客の身体を心地よく揺さぶる。
そして、作品の通底音として鳴り響く「人生の不条理」と「運」というテーマ。題名である『運が良けりゃ』という言葉には、一見すると呑気で楽天的なニュアンスが含まれているように思える。しかし、映画を最後まで観通した者ならば誰もが気づくはずだ。この言葉の裏には、庶民たちが抱く血の滲むような諦念と、それでもなお笑って生きていくしかないという究極のタフネスが隠されていることを。「運が良けりゃ儲かるさ」「運が良けりゃ死なずに済むさ」「運が良けりゃ明日も飯が喰えるさ」。運という、自分の力ではどうにもならない巨大な不確定要素に翻弄されながら生きる貧しき人々。天災、火事、病気、貧困、詐欺――いつ何時、悲劇が襲いかかってくるか分からない世界で、彼らが持っている唯一の武器は「運が良けりゃ」という軽やかな言葉と、どんな絶望も笑いに変えてしまう喜劇の精神なのである。
山田洋次の演出は、この「不条理への笑い」を描くにあたって、決して上から目線の同情や説教に陥ることがない。監督自身が長屋の住人の一人であるかのように、同じ目線で、同じ泥にまみれながらカメラを回している。だからこそ、画面から立ち昇る人間愛は、嘘偽りのない本物として我々の胸を打つ。登場人物たちは誰もが欠点だらけだ。金に汚く、大嫌いな奴の死を喜び、女を騙し、酒に溺れ、嘘をつく。道徳的な観点から言えば、彼らは全員「落第」である。しかし、映画を観ている我々は、彼らを絶対に嫌いになることができない。なぜなら、その浅ましさ、愚かさ、滑稽さこそが、我々自身の隠された素顔であり、人間という存在の本質であることを、山田洋次が圧倒的なリアリズムと愛情をもって描き出しているからだ。
ここで、画面の隅々に配された美術と撮影の細部、そして監督の情熱的な演出の細部について、さらに狂熱的に掘り下げていこう。画面の奥行きを見よ。長屋の路地を捉えたカットにおいて、手前でハナ肇が怒鳴り散らしている後ろで、小さな子供が泥遊びをし、洗濯物が風に揺れ、奥の井戸端では女たちが噂話に花を咲かせている。画面のあらゆる階層において「生活」が蠢いているのだ。この多層的な空間の構築こそが、映画というメディアが持つ醍醐味であり、観客の視線を画面の隅々まで遊ばせる快楽を与えてくれる。長屋の屋根に落ちる陽光の角度、夜の闇に浮かび上がるアンドンの仄かな灯り、雨が降りしきる路地の泥のぬかるみ。それらはすべて、大船撮影所の美術スタッフたちの超絶的な職人技と、山田洋次の妥協なき美意識が融合した結果生まれてきた至高の映像美である。
白黒映画からカラー映画への移行期にあたるこの時代において、カラーの色彩設計も完璧に計算されている。江戸の町並みの土色、木肌の茶色、着物の褪せた藍色といった抑えめなトーンの中に、時折挿入される朱色や赤、そして黄金の輝き。火事のシークエンスで画面を染め上げる凶暴な赤と黒のコントラストは、観客の視覚を圧倒し、生理的な興奮を呼び起こす。撮影のカメラワークは、役者たちの動的なエネルギーを逃さないために、時には伸びやかなパンで動きを追い、時には逃げ場のない密室で固定カメラとなって役者たちの顔面の筋肉の僅かな震えまでを捉え切る。この動と静のメリハリ、緊張と緩和のコントラストが、絶え間なく観客の感情を揺さぶり続けるのだ。
また、映画における「食」の描写の生々しさについても言及せざるを得ない。長屋の住人たちが食べる質素な飯、漬物、そして酒。「らくだ」のエピソードで出される酒と肴の、恐ろしいほどの旨そうな気配。貧しいからこそ、喰うこと、飲むことへの執着は凄まじい。口いっぱいに飯を頬張り、酒を喉に流し込むその瞬間、彼らは生きている喜びを全身で爆発させる。食うことは生の肯定であり、死への最大の抵抗である。山田洋次は、人間が食べるという行為の中に潜む、野生の本能と神聖な喜びを、見事なまでに肉厚な映像として記録している。
『運が良けりゃ』を語る上で避けて通れないのは、これがのちに国民的映画となる『男はつらいよ』のダイレクトな前史であり、その実験室であったという史実である。車寅次郎という、テキヤであり、愚かで、金はなく、しかし情に厚く、常に運に見放されながらも全国を旅し続ける男の造形は、間違いなくこの『運が良けりゃ』に登場する長屋の熊五郎や八五郎、そして江戸落語の愛すべきバカ者たちの遺伝子をダイレクトに引き継いでいる。寅さんの発する江戸弁の歯切れの良さ、口上のリズム、見栄を切るポーズ、そして土壇場で見せる哀愁と優しさ。それらの要素すべてが、この1966年の段階で、ハナ肇や犬塚弘、そして倍賞千恵子らの肉体を通じて、ほぼ完璧な形で試行され、肉体化されていたのだ。
しかし、『男はつらいよ』がテレビ時代劇や昭和後期のホームドラマ的な優しさをまとっていくのに対し、この『運が良けりゃ』に漲っているのは、より荒々しく、より野蛮で、より映画的な毒とエネルギーである。ここにはまだ、時代の変化に対する切実な焦燥感と、映画という巨大な表現媒体で「人間のすべてを暴いてやる」という山田洋次の若い野心が裸のままでのたうち回っている。その野心が、江戸古典落語という数百年の歴史を持つ最強の戯曲構造と出会ったことで、化学反応を起こし、爆発した。それこそが『運が良けりゃ』という映画の正体なのだ。
落語における「オチ(落ち)」の概念と、映画のラストシーンの呼応についても深く考察しなければならない。落語とは、どんなに悲惨な話であれ、どんなに狂気じみた話であれ、最後の「一言」で世界をクルリとひっくり返し、観客を現実へと軽やかに連れ戻す芸術である。それは、現実の重さや死の恐怖に潰されないための、江戸人の知恵であり、究極の脱力のエステティクスであった。映画『運が良けりゃ』もまた、数々の死、火事、詐欺、貧困といった悲惨な出来事を経ながらも、最後には見事な落語的カタルシスとともに結びつく。すべてを失い、泥まみれになり、ボロボロになりながらも、長屋の人間たちは笑う。青空を見上げ、泥を払い、また明日も生きようと歩き出す。そのラストカットに凝縮された圧倒的な解放感を見よ。世界は何も変わっていない。相変わらず貧しく、相変わらず運は悪いかもしれない。だが、生きている。生きて、笑っている。それ以上に何が必要だというのか。
この映画を観終わったとき、我々は爽快感と同時に、深い人間肯定の感動に包まれる。それは、美しいお綺麗ごとの人間賛歌ではない。人間の汚さ、ズルさ、浅ましさ、性欲、金銭欲、死への恐怖といった、あらゆる「負」の要素をすべて飲み込んだ上で、なお「人間とはなんと愛おしく、滑稽で、素晴らしい存在なのだ」と叫ぶ、真の人間賛歌である。山田洋次という天才演出家が、1966年という時代に打ち立てたこの金字塔は、半世紀以上の時を経た現代においてなお、まったく色褪せることなく、むしろ失われてしまった「人間の生の熱量」を我々に突きつける刃として、眩いばかりの輝きを放ち続けている。
観よ、ハナ肇の爆笑を。聴け、犬塚弘の叫びを。見つめよ、倍賞千恵子の哀愁を。そして感じ取れ、画面の底から立ち昇る江戸長屋の熱い吐息と、生きとし生ける者たちの狂おしいまでの歓喜の歌を。『運が良けりゃ』――この映画に出会えたこと、この映画が紡ぎ出す至高の喜劇空間に身を浸すことができたこと、それこそが我々映画を愛する者にとっての、何よりの「幸運」に他ならないのだ。映画という表現が持つ無限の可能性と、江戸落語という深遠なる人間性の小宇宙が完全融合したこの不滅の傑作を、我々は永遠に語り継ぎ、熱狂し続けなければならない。それこそが、作品の中で懸命に、そして泥臭く生き抜いたすべての長屋の魂に対する、最高のオマージュとなるはずだからである。