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日本映画史の豊潤な歴史の底流において、1950年に公開された渋谷実監督の至宝『てんやわんや』ほど、敗戦直後の混迷をきらびやかな狂騒とシニカルな冷眼でもって結晶させた喜劇映画は存在しない。獅子文六の原作を得た本作は、単なる地方のドタバタ劇や戦後復興の風俗画といった安易なカテゴリーを軽々と跳躍し、失われた価値観と未だ定まらぬ欲望の過渡期に蠢く日本人の生態を、冷徹なモダン哲学と爆発的な喜劇のダイナミズムをもって画面へと定着させている。東京という中央の虚無と、四国の田舎町という異境の妄執が激突するその磁場には、単に滑稽という言葉では捉えきれない、人間存在の本質的な哀しみと図々しさが美しく同居しているのだ。
主人公・犬丸順吉を演じる佐野周二の、あの茫洋として捉えどころのない脱力したたたずまいは、戦後社会の虚脱感をこれ以上なく象徴している。彼は東京の喧騒や怪しげな政争の影から逃れるようにして、代議士の紹介を頼りに四国・相生町へと流れ着くわけだが、この旅路そのものがどこか生と死の境界を漂うような夢幻性を帯びている。都会の近代的な虚飾を剥ぎ取られた犬丸が辿り着いたその地は、長閑な風土の裏側に、東京を凌駕するほど濃厚でグロテスクな人間どもの欲望が渦巻く異界であった。渋谷実の卓越した画面構成は、南予の豊かな自然や素朴な川のせせらぎを捉えつつも、そこに蠢く奇人異士たちのグロテスクな輪郭を、まるで精巧な銅版画のように鋭利に刻みつけていく。
本作において最も批評的な奇跡として結実しているのが、宝塚歌劇団出身の淡島千景という圧倒的な新星の映画デビューである。彼女が画面に現れた瞬間、それまで画面を満たしていたどこか湿っぽく前近代的な空気が、一瞬にして乾いたモダニズムの爽快な風によって吹き飛ばされる。屋上でビキニ水着を纏い、太陽の光を全身に浴びながら伸びやかに身を躍らせる花輪兵子の姿は、単なるお色気的記号であることを完全に脱却し、戦後日本に突如として到来した「個の自由」の圧倒的な具現化として画面に立ち現れる。彼女が犬丸を「ドッグさん」と親しげに、しかしいささか挑発的に呼ぶときの声の弾み、鼻にかかった軽妙な台詞回し、そして自身の欲望と意思にどこまでも愚直であろうとする自立した態度は、旧来の大船調的な「悲劇のヒロイン」や「慎ましい日本女性」の型を根本から爆砕してみせた。
淡島千景が放つこの都市的で勝ち気なモダニズムと対比されるように置かれるのが、桂木洋子演じる「あやめ」の持つ可憐でありながらも重厚な風土的リアリティである。伝統的な共同体の価値観と、外部からやってきた都市の怪しい気配との狭間で揺れる彼女のまなざしは、急激な近代化へと傾斜していく日本が置き去りにしようとしていた土着的な情緒のラストダンスのようでもある。渋谷実はこの二人の女性像を決して安易な二項対立に収めることなく、犬丸という優柔不断な男の揺らぎを通じて、戦後日本人が抱えていた主体の喪失と憧憬のドラマへと高めていく。
相生町の住人たちの描き方における渋谷実のシニカルな視線は、今なお群を抜いて冴え渡っている。藤原釜足演じる越智善助のあの異常なまでの「饅頭食い」の執着はどうだ。一口に饅頭を詰め込み、喉を鳴らしながら貪り喰らうその姿は、一見すると無害な田舎の奇行として消費されがちだが、その本質は過酷な戦争体験と飢餓の記憶が生み出した凄惨な生命への執着そのものである。51個もの饅頭を平然と胃袋に収める善助の滑稽な姿の後ろ影には、戦後の物資不足と狂乱のなかで「喰うこと」のみが唯一の確実な救済であった時代の影が濃密に落ちている。同様に、薄田研二演じる田鍋拙雲のうなぎ取りへの異常な執念や、三井弘次演じる謄写版で恋文を量産する青年の滑稽な商売気質もまた、混乱した時代を生き抜くための過剰な生存本能の表れに他ならない。
さらに注目すべきは、作中で突如として頭をもたげる「四国独立運動」という滑稽にして不気味なユートピア的妄想である。中央政権の支配から脱却し、独自の国家を打ち立てようとするこの荒唐無稽な運動は、敗戦によって国家という巨大な共同体が一度解体した際、人々が抱いた混乱と身勝手な解放感の産物である。志村喬演じる代議士・鬼塚の胡散臭い政治的手腕と、田舎町の有力者たちの思惑が複雑に絡み合い、運動が加熱していくプロットは、民主主義という借り物の衣服を着せられた当時の日本社会に対する最高級の政治風刺として機能している。渋谷実はこの政治劇を声高な主張として描くのではなく、どこまでも人間どもの滑稽な大騒ぎ、すなわちタイトル通りの「てんやわんや」として笑い飛ばすことで、政治というものの持つ本質的な胡散臭さを暴き出してみせるのだ。
この狂騒の背後で鳴り響く伊福部昭の音楽の貢献も計り知れない。伊福部特有の土着的なリズムと重厚な管弦楽の響きは、一見すると軽妙な風俗コメディである本作に、どこか神話的とも言える巨大な生命力の骨組みを与えている。南予の風土が持つ濃密な湿度や、牛の突き合い(闘牛)の荒々しい熱気、牛鬼の祭礼における異様な興奮は、伊福部のアヴァンギャルドでありながら力強い音響と完璧に共鳴し、画面に単なる喜劇を超えた一種のエスノグラフィックな深みをもたらしている。岩松川を泳ぐ大うなぎの描写や、山あいの景色に木霊する人々の喧噪は、映画という媒体が本来持っていた「異界の記録」としての魅力を縦横無尽に発揮している。
撮影を担当した長岡博之のカメラワークもまた、大船調の流麗な標準的スタイルを維持しながらも、ふとした瞬間に光と影の鋭いコントラストを侵入させ、人物たちの欲望の陰影をあぶり出す。特に、屋敷の入り組んだ空間や、賑やかな宴の席での群集劇の捉え方は実に見事であり、フレームの隅々にまで生き生きとしたキャラクターたちの細かな動作や表情が充填されている。カメラは誰か一人の主役に極端に肩入れすることなく、群集という巨大な生命体の蠢きを幾体ものレンズを通して多角的に捉え、その混沌としたエネルギーそのものを肯定していく。
本作が制作された1950年という時代は、GHQの占領下から日本が抜け出しつつあり、戦争の傷痕を抱えながらも急速な経済復興への第一歩を踏み出そうとしていた時期である。しかし、渋谷実という監督は、時代の安易な希望や美談を断じて信じなかった。彼が描く人々は誰もがどこかズボラで、ズルく、利己的でありながら、同時にどうしようもなく人間的で愛おしい。『てんやわんや』に登場する人物たちには、立派な理念や高尚な道徳など微塵もない。ただ、目の前の飯を喰い、恋をし、金を儲け、下らない妄想に打ち興じ、騒ぎ立てる。その「生」の過剰さこそが、焦土と化した日本を底から支え、押し上げていった真の原動力であったことを、映画は雄弁に物語っている。
犬丸という男が最終的に辿り着く結末、そして相生町という小さなコミュニティが繰り広げた大騒動がやがて潮が引くように収束していくプロットの妙は、観客に深い余韻と爽快な虚無感を与える。狂騒の宴が終わり、日常が再び戻ってきたとき、私たちは自分たちが生きているこの世界そのものが、壮大な「てんやわんや」の渦中にあることを深く納得させられるのだ。都会と田舎、モダニズムと土着主義、男と女、理想と欲望、それらあらゆる対立軸が激しく摩擦を起こしながら火花を散らすこの映画は、70年以上の時を経た今なお、まったく色褪せることのない狂暴なまでの生命力と洗練された知的ユーモアを放ち続けている。日本喜劇映画の頂点に君臨するこの傑作を紐解くことは、私たちが戦後という時代から何を勝ち取り、そして何を失ってしまったのかを問い直す、極めてスリリングで熱狂的な映画体験に他ならない。
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