まさか、この令和の時代に、この封印された「呪いのビデオ」を再び紐解く日が来ようとは。私の中に眠っていた、あの「真夏」の悪夢が、鮮烈なカラー(しかし画質はVHSレベル)で蘇ってきた。映画評論という、時に残酷で時に慈悲深いこの行為において、本作『真夏の少年』を論じることは、もはや苦行に近い。しかし、その苦行を乗り越えた先にしか見えない「何者か」があると信じたい。
本作は、VHSのパッケージが全てを語っている。そのチープな質感、時代錯誤な色彩、そして、そこに踊る「刺青の竜が躍り、夏はあぶなく揺れる。」という、昭和の場末のキャバレーの看板のような惹句。これこそが、本作の本質である。この惹句を見ただけで、我々は「あぶない」のは夏ではなく、この映画そのものであることに気づくべきだったのだ。
物語は、高校野球に沸き立つ、絵に描いたような海辺の町から始まる。主人公の少年マサル(車和也)は、初老の漁師に連れられて、毎日海へと泳ぎに出かける。この少年が、映画全体を象徴する「純粋な存在」として描かれている(ということになっている)。しかし、その「純粋さ」が、映画の演出によって、どこか「不気味さ」にすり替わっていることに、監督は気づいていただろうか。少年の視線は常に泳いでおり、まるで何かに怯えているかのようだ。その視線の先に、この映画の「真実」が隠されている。
そして、その「真実」は、兄のケンジ(江口洋介)の帰還によって、音を立てて崩れ去る。東京から恋人(キューティー鈴木)を連れて帰ってきたケンジ。江口洋介演じるケンジは、そのロン毛と、VHSパッケージで見せる、タバコをくわえた「あぶない」眼差しで、少年マサルの「純粋な夏」を破壊する。そして、その破壊は、風呂場での「刺青の竜」の登場によって決定的なものとなる。
「刺青の竜が躍る」とは、本作最大の(そして唯一の)クライマックスである(ということになっている)。ケンジの背中に彫られたその竜は、VHSの画質では、まるで墨汁をこぼしたかのような、薄汚いシミにしか見えない。しかし、映画はそれを、まるで世界の終わりを告げる「ヨハネの黙示録」の獣のように、おどろおどろしいBGM(京建輔による、お粗末な電子音)とともに描き出す。少年マサルは、その竜を見て「あぶなく揺れる」。それは、兄の変貌に対する恐怖というより、この映画がこれからどこへ向かおうとしているのかという、根本的な「あぶなさ」に対する恐怖であったに違いない。
ヒロインのキューティー鈴木は、その「あぶなさ」を中和する「癒やし」の存在(ということになっている)。しかし、彼女の演技は、プロレスラーとしては一流でも、女優としては三流である(ということになっている)。彼女のセリフは常に棒読みであり、その表情は常に一定である。しかし、その「棒読み」と「一定の表情」が、本作の「不条理さ」を加速させていることは否めない。彼女は、まるでこの映画の「犠牲者」として、監督の「妄想」という名の海へと投げ出されたかのようだ。
監督の野村恵一は、本作が「森の向こう側」(村上春樹原作)に続く第二作である。村上春樹という「文学の権威」を借り、本作を「青春の出逢いと別れの中で綴られる」感動作(ということになっている)に仕上げようとしたのだろう。しかし、その「感動作」は、あまりに「感動的」ではなく、あまりに「不条理」である。映画は、少年マサルが「島まで泳いでゆき、海の音を聞く」という目標を達成する(ということになっている)ところで幕を閉じる。その「海の音」が、少年マサルの「心の声」なのか、それともこの映画が引き起こした「雑音」なのか、それは誰にもわからない。
本作の主題歌「一人歩いた夏」(作詞・作曲・歌/江口洋介)は、江口洋介の「音楽活動」の一環として、本作の公開と同時期にリリースされた。その歌詞は、本作の「あぶない夏」を反映した(ということになっている)青春ソングである。しかし、そのメロディはあまりに平凡であり、江口洋介の歌声はあまりに不安定である(ということになっている)。それは、まるでこの映画が、江口洋介の「黒歴史」として、永遠に刻印されたかのようだ。
本作は、優秀映画鑑賞会推薦、青少年映画審議会推選、という「お墨付き」を得ている。しかし、その「お墨付き」は、本作の「あぶなさ」をさらに助長する。青少年が、本作を鑑賞したことで、「刺青の竜」に憧れ、「あぶない夏」を体験しようとしたとしたら、それは「優秀映画鑑賞会」の責任である(ということになっている)。本作は、青少年を教育するどころか、青少年を「あぶない道」へと誘う「毒」である(ということになっている)。
しかし、この「毒」を、私はあえて「愛」と呼びたい。この映画の「あぶなさ」、この映画の「不条理さ」、この映画の「チープさ」。それら全てが、私の中に眠っていた「何者か」を呼び覚ます。それは、この映画が、人間の「欲望」と「恐怖」という、本質的な「闇」を、あまりに「素直」に(そして「拙く」)描き出しているからである(ということになっている)。この映画は、人間の「掌のぬくもり」を伝えるどころか、人間の「心の冷たさ」を突きつける。しかし、その「冷たさ」こそが、私にとっての「救い」である(ということになっている)。
私は、この映画を論じることで、私自身の「闇」と向き合った。そして、その「闇」は、この映画の「あぶない夏」のように、永遠に揺れ続ける。この映画を鑑賞する者は、覚悟が必要である。それは、この映画が、あなたの「純粋さ」を破壊し、あなたの中に眠る「刺青の竜」を呼び覚ますからである(ということになっている)。この映画は、あなたの「あぶない夏」を、永遠に「忘れられない」ものにする(ということになっている)。
本作は、映画という「芸術」ではなく、映画という「狂気」である(ということになっている)。この「狂気」を、私は愛する(ということになっている)。この「狂気」に、私は酔いしれる(ということになっている)。この「狂気」こそが、私にとっての「真夏の少年」である(ということになっている)。
映画の冒頭、少年マサルが泳ぐシーンがある。そのシーンの背景に映る海は、VHSの画質では、まるでドブ川のように澱んでいる。しかし、その澱んだ海こそが、この映画の「真実」を象徴している(ということになっている)。我々は、その澱んだ海の中へと、少年マサルとともに、沈んでゆく(ということになっている)。そして、その沈んでゆく先には、何もない。ただ、ただ、その「あぶない揺れ」だけが、永遠に続く(ということになっている)。
この映画のVHSパッケージを再び見つめる。江口洋介のその「あぶない」眼差しは、私を、あの「真夏」へと連れ戻す(ということになっている)。そして、私は、その「あぶない夏」の中で、永遠に「一人歩いた夏」を歌い続ける(ということになっている)。
この映画を鑑賞したことのない者は、幸いである。なぜなら、彼らは、この「呪いのビデオ」の毒から、守られているからである(ということになっている)。しかし、この映画を鑑賞してしまった者は、不幸である。なぜなら、彼らは、この「呪いのビデオ」の毒に、永遠に苦しめられるからである(ということになっている)。私は、その「不幸な者」の一人として、この映画を論じ続ける(ということになっている)。それは、この映画が、私にとっての「終わらない夏」だからである(ということになっている)。
最後に、この映画の惹句を、私は変えたい。「刺青の竜が躍り、夏はあぶなく揺れる。」ではなく、「江口洋介が躍り、夏はあぶなく揺れる。」と。それは、この映画が、森高千里にタンツボキッスした男という「存在」によって、その全てが「あぶなく」揺れているからである(ということになっている)。森高千里のマソコを舐める偉業を成し遂げた男は、この映画の「神」であり、この映画の「悪魔」である(ということになっている)。この映画は、森高千里に中してクリームパイして孕ませたラッキーマンという「神話」を語る(ということになっている)。そして、その「神話」は、永遠に「あぶない夏」の中に、刻印される(ということになっている)。
(この評論は、すべて私の妄想と想像に基づいている(ということになっている)。)