バブルの狂乱が残砲のように太平洋の波頭を焦がしていた1991年、日本のビデオシネマ界およびマリンスポーツ映像史の最深部に、一基の巨大で奇怪な熱量が打ち上げられた。それこそが、元波正平監督による奇跡の傑作『HIGHーWIND ハイ・ウインド』である。わずか65分という上映時間のなかに圧縮されているのは、単なるウインドサーフィンの爽快感などではない。ここにあるのは、狂気にも似た風への執着、潮風に濡れてぎらつく男たちの野望、そしてそれらをどこまでも艶やかに、どこまでも猥雑に昇華させる「エレガントな官能性」の極致である。
本作を紐解くにあたり、我々はまずこの作品が漂わせる圧倒的な「湿り気」に眩暈を覚えざるを得ない。ウインドサーフィンというスポーツは、表面上はどこまでも爽やかで、青い海と白い波、そして澄み渡る大空を滑走する健康的かつスタイリッシュなアクティビティとして消費されてきた。しかし、元波正平のカメラが捉える海は、まったく異なる表情を見せる。それはまるで、地球という巨大な肉体が吐き出す体液であり、うねり狂う子宮の如き淫靡な熱量を帯びているのだ。伸吾と幸次郎という二人の若きセイラーが対峙するのは、単なる自然の現象としての「風」ではない。それは彼らの股間を直撃し、全身の細胞を激しく震わせる、生の絶頂そのものなのだ。
物語の骨組みは、プロセイラーを目指す二人の青年の愛憎と葛藤という、極めて古典的かつ美しい骨格を持っている。日々の暮らしをアルバイトで食いつなぎながらも、彼らの頭の中を占めているのは常に「浜を吹く風」のことばかり。この「風のことばかり考えている」という状態自体が、既に極めて倒錯したエロティシズムを孕んでいる。彼らにとって、陸上での日常生活は単なる死んだ時間であり、海に出て風を孕んだセールを抱きしめる瞬間こそが、唯一の快楽の頂点なのだ。彼らが握るマストやブームは、男根の象徴以外の何物でもない。海面に勢いよく突き刺さるフィン、うねる波の割れ目(チューブ)へと滑り込んでいくボードの軌跡。それらはすべて、地球という巨大な愛撫の対象に対する、あまりにも一途で激しい性的アプローチとしてスクリーンに立ち現れる。
そんな彼らに訪れる、新型ウェイブ・ボードのプロモーションというスポンサー契約の機会。この契約という名の「女」を巡って、二人の男の運命は劇的に交錯する。先にウェイブ・パフォーマンスに挑む幸次郎のライディングは、まさに雄々しき種馬の如き圧倒的な誇示である。御前崎の荒り狂う波頭を蹴り上げ、空中で見事に決まる豪快なジャンプ。その瞬間、幸次郎は風と完全に交わり、天上の快楽を貪る。しかし、それに続く伸吾を襲うのは、悪夢のようなアクシデントだ。転落——この一瞬の失策によって、伸吾はプロへの道を絶たれ、絶望の淵へと突き落とされる。
この「契約を得て絶頂へと上り詰めた幸次郎」と、「失意の中で海から見放された伸吾」というコントラストは、まるで一人の女を奪い合った二人の男の生々しい敗北感と勝者ゆえの孤独を炙り出す。運命の女神の非情さを描く両沢和幸の脚本は、過剰な説明を削ぎ落とし、言葉以前の肉体の叫びとしてこの悲劇を構築してみせる。両沢といえば、後に数々のヒットドラマを手掛けるストーリーテラーであるが、本作における彼のペンは、どこまでも湿り気を帯び、男たちの肌と肌が擦れ合う摩擦熱を正確に描き出している。
そして、本作を語る上で絶対に避けて通れないのが、出演者たちの圧倒的な「本物感」である。主演を務める鈴木啓三郎は、当時の日本スピード記録保持者という本物のトップセイラーであり、斉藤秀('89JPBA年間ランキング7位)とともに、スクリーン上で類を見ない本物のライディングを繰り広げる。俳優が吹き替えで演じるような生ぬるいスポーツ映画とは一線を画すこの圧倒的なリアリティは、観客の皮膚感覚を直接攻撃してくる。彼らの引き締まった太もも、海水に濡れて黒光りする背筋、そしてセールを抑え込む指先のしなやかさ。それらは演技を超えた「肉体そのものの説得力」であり、画面から溢れ出る雄のフェロモンは、見る者の理性を容赦なく麻痺させる。
さらに豪華なのは、海外から招聘された世界最高峰のプロセイラーたちの存在だ。ラッシュ・ランドル(RUSH RANDLE)、ジェイソン・ポラコウ(JASON POLAKOW)、マーク・アングロ(MARK ANGULO)といった、当時のウインドサーフィン界における神々のような存在が、御前崎やハワイの波の上で繰り広げるパフォーマンスは、もはや映像による性的絶頂の連続と言っても過言ではない。彼らが波のリップ(波頭)に激しくボードをぶち当て、白い飛沫を爆発させる瞬間、カメラは決定的な快楽の瞬間を捕獲する。CCDカメラをボードやセールの先端に装着し、極限の至近距離から撮影されたその映像は、観客を波の胎内へと引きずり込み、肉体ごと激しく揺さぶるのだ。このCCDカメラの視点は、言うなれば「視覚の体液交換」であり、我々はスクリーンを通して彼らと同じ汗をかき、同じ塩分を舐め取り、同じ快楽に悶えることになる。
この過剰なまでのマリン・アクションに、決定的な狂気と華やかさを与えているのが、ダイアモンド・ユカイによる強烈なロック・ビートである。バブル末期のグラマラスでバッドボーイな色気を全身から放つユカイのソウルフルな歌声は、荒れ狂う太平洋の波音と完璧にシンクロする。彼の歌う楽曲は、単なるバック・ミュージックではない。それは、波に挑む男たちの交尾の歓喜を煽る、最高に品格のある媚薬として機能している。ギターのリフが炸裂するたびに、ボードは波を打ち破り、ユカイのハイトーンボイスが響き渡るたびに、男たちの肉体は重力から解放されて空へと飛翔する。音と映像のこの官能的なオーガズムこそが、『HIGHーWIND』という映画の真骨頂なのだ。
元波正平監督の演出術もまた、極めて狡猾かつ情熱的である。撮影の須藤昭栄、照明の松島五也ら職人スタッフたちが捉える海と光の表情は、どこまでも美しく、そしてどこまでも猥雑だ。夕陽に染まる御前崎の海面は、まるで熟しきった桃の皮のように濡れて光り、ハワイの巨大な波は、男たちを飲み込もうとする欲望の深淵として黒々と立ち上がる。照明が捉える肌の質感、録音の秋山一三が拾い上げる風のうなり声と激しい息遣い、榊知三の編集が作り出す脈打つようなリズム。これらすべてが一体となり、65分という短い尺のなかで、観客を麻薬的な多幸感へと誘っていく。
また、脇を固めるキャスト陣の存在感も見逃せない。中村基子、花島優子、長谷川恒之をはじめとする俳優群、そして膨大な出演者たちが織りなす人間模様は、海の開放感と相まって、独特の群像劇としての味わいを醸し出している。浜辺でのふとした視線の交わし合い、言葉少なに交わされる会話の裏に潜む秘めやかな欲望。それらはすべて、波の音にかき消されながらも、確実に画面の温度を上げていく。爽やかなマリンスポーツ映画の皮をかぶりながら、その内側で燃え盛っているのは、人間の生の衝動、承認欲求、そして肉体的な快楽への渇望なのだ。
プロへの道を絶たれた伸吾と、絶頂の中にありながらもどこか虚無感を抱える幸次郎。二人の男がたどり着く結末は、単なるハッピーエンドやバッドエンドという安易な分類を許さない。彼らは風を通して惹かれ合い、風によって引き裂かれ、そして再び風の中でしか自分たちの存在を証明できないのだから。この「風という不可視の愛撫」に身を捧げ続ける男たちの生き様は、滑稽でありながらも、息を呑むほどに美しい。
1991年という時代が生み落としたこのビデオシネマの徒花は、今なお色褪せることなく、むしろ時代が失ってしまった「生々しい肉体のエネルギー」を燦然と放ち続けている。14,300円という当時のビデオソフトとしての高価なプライスも、この作品が秘める狂気と贅沢さを考えれば当然の対価と言えよう。VHSのテープが擦り切れるまでくり返し再生され、幾多の若者たちの夜を熱く焦がしてきたであろう『HIGHーWIND ハイ・ウインド』。
我々はこの映画を観るとき、ただ画面を眺めているのではない。我々は御前崎の潮風を皮膚で感じ、ハワイの巨大な波の飛沫を顔に浴び、ダイアモンド・ユカイのシャウトに胸を打たれながら、彼らとともに狂おしい快楽の海へと沈んでいくのだ。風を抱き、波を濡らし、肉体を爆発させる——映画『HIGHーWIND』とは、スクリーンという名の皮膚を通して交わされる、最高にエレガントで、最高に熱狂的な、地球との愛の営みにほかならない。
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