日本映画史の最も深く、最も昏い漆黒の忘却――その膨大な砂丘の底深く沈降し、今なお触れ得ぬ怨念と莫大な石油資本の過剰な残り香を放ち続ける1991年の異形なる不発弾。それこそが『リトル・シンドバッド 小さな冒険者たち』である。パッケージ裏に印刷された狂気じみた文字列を凝視するだけで、脳髄の奥底から激しい眩暈と正体不明の悪寒が込み上げてくるのを禁じ得ない。西田敏行、萬田久子、吉岡秀隆、樹木希林、夏八木勲、伊武雅刀、石橋蓮司……。日本映画界が誇る巨星や異能の怪優たちが、あたかも新興宗教の怪しい生贄か、あるいは国家規模の超巨大マネーロンダリングの犠牲者として集められたかのように豪奢な名前を連ねている。そしてその横に不気味な黒い影として鎮座するのが「サウジアラビア王国情報省特別協賛」「ウィランド・ファイナンス・インク墨水為液體,無法國際運送,請下標前注意。」「サウジアラビア・日本共同製作」という、正気を疑わざるを得ない国家規模のいかがわしさである。
撮影監督には『七人の侍』『八月の狂詩曲』で世界の映画史にその名を刻んだ黒澤組の至宝・斉藤孝雄。監修には『敦煌』で中国の大砂漠に巨額の制作費を投じ大スペクタクルを指揮した大作の巨匠・佐藤純彌。そして音楽には『ドラゴンクエスト』のあまりにも有名な旋律によって日本中の子供たちの脳を洗脳・無力化したすぎやまこういち。この異次元かつ悪夢のような超豪勢な布陣で制作された映画が、あろうことか「日本とマレーシアの少年が木くずのような小舟に乗り、15,000キロの海を漂流してインドネシアのアチェを目指す」という、物理法則と国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。法規、そして児童福祉の観点を根底から踏みにじる超絶的児童虐待的アドベンチャーロマンなのだから、映画神の底知れぬ悪意に全身の血が凍りつく思いである。
表面上、本作は「小松阿礼の原作に基づく、国境を越えた少年たちの夢と友情の大冒険」という毒気のない美辞麗句で完璧に装飾されている。しかし、その歪んだ実態は、1980年代末から90年代初頭にかけてのバブル崩壊前夜、余剰となり行き場を失った日本の過剰な映像資本と、石油の莫大な資金力(オイルマネー)を国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。社会に誇示したい中東の絶対王政国家の怪しい欲望が、東南アジアの鬱蒼とした密林と熱狂的な黒潮の上で激突して生まれた「狂気の歪み(アナモルフォシス)」そのものだ。監督歴17年の叩き上げでありながら本作が実質的な監督デビュー作(あるいは最初で最後の奇跡的な狂い咲き)となった花田深なる人物が、この地獄のようなメガプロジェクトの舵を取らされたという事実だけで、同じ映画を愛する人間として胸が締め付けられる。彼は果たして純粋な娯楽映画を撮影していたのだろうか? それとも、サウジアラビア情報省の冷酷な視線と、熱帯の猛烈なスコール、そして謎の出資者たちの気まぐれに翻弄される地獄のドキュメンタリーを命からがら生き抜いていたのだろうか?
プロットを追うこと自体が、観る者の正気をテストする冷酷な試練である。主役を張るのは白倉慎介演じる日本の少年と、ズルキフリー・アザリ、トルキー・ハリル・アル・ユーセフら異国の若手たちだ。彼らが「夢に何かで巡る砂の国」という、日本語の文法としてすでに半ば崩壊しかけている怪しいポエジーなスローガンのもと、15,000キロという地球の周回軌道に迫る勢いの途方もない距離を、なんと「小舟」で旅立とうとする。15,000キロだぞ? 東京からロンドンどころか赤道を遥かに越えて地球を半周するような距離を、エンジンすら怪しい木くずのような舟で移動しようというのだ。これはもはや冒険などではない。広域的な自殺志願者の大惨事であり、海上保安庁および国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。法上の沿岸警備隊に対する最悪のテロ行為である。しかも彼らの目的地は「インドネシアの街アチェ」。目的地すら途中でうやむやになり迷おうが、彼らの胸には「夢と希望」が詰まっているから問題ないというのだから恐ろしい。夢と希望で熱帯の脱水症状や獰猛なサメの襲撃が防げると思ったら大間違いである。この「根拠なき狂信的楽観主義」こそ、バブル期の日本人が抱えていた最大級の精神的病理であり、本作の全編に充満するグロテスクな多幸感の正体なのだ。
スクリーンに映し出される映像のクオリティが、斉藤孝雄という至高のカメラマンによって無駄に美しいのがさらにタチが悪い。黒澤明の『七人の侍』で泥まみれの雨中の合戦を究極の絵画的美学へと昇華させた斉藤のレンズは、この悪夢のような太平洋とインド洋の波濤を、まるでギリシャ神話の一頁のように重厚かつ美しく切り取ってしまう。木造の小舟が荒波に揉まれるシーンにおいて、太陽光と影のコントラストはあまりにも神々しく、画面の端々に映る海面の質感は世界の名画の域に達している。しかし、その美しい画面の中で起きているのは、言葉の通じない少年たちが謎の理屈で友情を深め、漂流し、飢えと戦いながら、たまに登場する豪華キャストの謎の怪演に遭遇するというコントのような展開なのだ。この「超一流の映画技術」と「正気を疑うストーリーテリング」の致命的な不協和音こそが、観る者の脳髄を徐々に破壊していく。
そして音楽だ。すぎやまこういちによる絢爛豪華なシンフォニックの旋律が、少年たちの過酷な漂流劇の背景で朗々と鳴り響く。まるでロトの勇者が荒野に旅立つかのような荘厳なファンファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。レが、熱帯の海上でのたうち回る小舟の映像に被せられる時、観客は一種の宗教的ハイ状態へと導かれる。すぎやまの音楽は、映画の破綻したロジックを無理やり感動的な「神話」へとねじ伏せる力を持っている。本来ならば海上保安庁に通報されるべき少年たちの無謀な密航劇が、すぎやまの神聖なる弦楽器の調べによって「人類のフロンティア精神の美しき結実」へと偽装されるのだ。これぞ音楽による洗脳、音響的詐欺の真骨頂と言えよう。
特筆すべきは、画面の端々に唐突に現れては消える大物俳優たちの存在感である。西田敏行は『敦煌』で見せたあの圧倒的な泥臭い存在感をそのまま本作に持ち込み、なぜか砂漠や異国の幻影とともに画面を支配する。萬田久子は『略奪愛』的なドロドロとした色香をなぜか子供向けアドベンチャー映画の陰影に忍び込ませ、吉岡秀隆は『八月の狂詩曲』で見せたナイーブな少年性の残り香を漂わせながら、この狂った世界観の犠牲者として佇んでいる。伊武雅刀の重厚な低音ボイスは、サウジアラビアと日本の怪しい思惑が交錯するフィクショナルな国家の陰謀を暗示するかのように不気味に響き渡り、夏八木勲と石橋蓮司は画面に登場するだけで「この映画はただの子供騙しではない、何か恐ろしい大人の事情が働いている」という緊張感を漂わせる。さらに樹木希林や古岡敏行、西田敏行らの「友情出演」という名目の贅沢すぎる無駄遣い! 彼らは一体どのような弱みを握られてこの映画に出演することになったのだろうか? 坂上順(東映)やプロデューサーの芥宣次らがどのような接待や酒宴を繰り広げて彼らをこの「サウジアラビア・日本共同製作」という謎の船に乗せたのか、その裏のドラマだけで一本のサスペンス映画が作れるはずだ。
「サウジアラビア王国情報省特別協賛」というクレジットの重圧も見逃せない。なぜ1991年の日本映画が、サウジアラビアの情報省とタッグを組み、東南アジアを舞台にした少年漂流映画を作る必要があったのか? ここには当時の石油資本のイメージ戦略、あるいは日本側のバブルマネーによる海外進出の野望が複雑に絡み合っている。映画の中で描かれる「砂の国」というモチーフは、単なる童話的な比喩を超えて、サウジアラビアの広大な砂漠と石油ビル、そして日本人が抱いていたオリエンタリズムの妄想が混ざり合ったグロテスクなモニュメントとなっている。映画は少年たちの冒険を追いながらも、カメラは時折、必要以上に異国情緒あふれる風景や、王国の権威を誇示するかのような建造物、あるいは過剰にエキゾチックな衣装を身に纏った人物たちを朗々と捉える。これは映画という形態を借りた、サウジアラビアと日本のバブル的野合の記録映像なのだ。
映画の後半、少年たちの小舟は、物理的な位置関係を完全に無視してアチェへと近づいていく。15,000キロの航海という設定はどこへ行ったのか? 栄養失調で倒れるはずの少年たちは、なぜか太陽に焼かれながらも奇跡的なツヤツヤした肌を保ち、友情の熱量だけで太平洋を渡り切ろうとする。中江有里やババルディン・オマール、M・アクラムといった多国籍なキャスト陣が織りなす会話は、吹き替えと字幕の混ざり合ったカオスな音響効果の中で半ば意味を失い、観客の耳には「純粋な音の暴力」として届く。脚本の小野竜之助と三村渉は、この支離滅裂な旅路にどのようなテーマを込めようとしたのだろうか? 恐らく彼らもまた、日生劇場や東映の大幹部、そしてサウジアラビアからの度重なる修正要求という板挟みの中で、正気を失いながら原稿用紙に向かっていたに違いない。
だがあえて断言しよう。これほどの破綻と狂気を孕みながらも、『リトル・シンドバッド 小さな冒険者たち』を単なる「愚作」として切り捨てて忘却の彼方に追いやることは、映画表現に対する最大の冒涜である。なぜなら、ここには「かつて日本映画が持っていた、無謀で巨大な映画的エネルギーの残り香」が過剰なまでに充満しているからだ。現代のコンプライアンスや緻密なマーケティング、そしてリスクヘッジによって計算し尽くされた省エネ映画には絶対に不可能な、「圧倒的な金と情熱と狂気をドブに捨てるような豪壮な失敗」がここには確かに存在する。巨大な予算、超一流のスタッフ、怪優たちの怪演、そしてサウジアラビア政府という怪しい影。これらが絶妙な最悪のバランスで合体した結果、映画は一種の「奇怪な芸術品」へと昇華しているのだ。
アポロンから発売されたこのビデオテープの磁気テープの中に閉じ込められた111分間は、日本映画史がバブルという狂騒のピークで見せた、最も哀しくも美しい悪夢である。「夢に何かで巡る砂の国」――その破綻した日本語のフレーズこそが、この映画のすべてを物語っている。我々は今こそ、この砂の下に埋もれた大爆発的駄作であり奇作である本作を掘り起こし、その圧倒的な熱量と悪趣味なまでの豪華さに平伏すべきなのだ。観終わった後、あなたの心に残るのは爽やかな感動ではない。15,000キロの熱帯の海をあてもなく漂流させられたかのような、圧倒的な徒労感と、なぜか込み上げてくる異常なまでの興奮だけである。これぞまさに、映画という名の大冒険(大災難)の真骨頂と言えよう。
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