映画史という名の鬱蒼とした原生林には、光の届かない暗がりでひっそりと毒々しいキノコのように蠢き、観客の正気をむしり取る凶悪な怪作・珍作が無数に生い茂っている。しかし、1999年に突如として低予算映画界の地平に解き放たれた『イン ザ ウッズ(原題:In the Woods / 独題:Wald des Grauens)』ほど、観る者の脳髄を激しく揺さぶり、腹筋を絶望的な崩壊へと追い込み、それでいて「映画とは一体何なのか?」という根源的な問いを突きつけてくる怪物(モンスター)は存在しない。
監督・脚本を務めたリン・ドージック(Lynn Drzick)という名の、映画史において一発屋どころか不発弾としてその名を刻んだ不世出の迷匠。主演をつとめるのは、低予算インディペンデント映画界の珍品に出没しては独特の暗雲を立ち込めさせる男、D.J.ペリー。この二人の破滅的なシナジーが生み出した本作は、単なる「下手な映画」の域を遥かに凌駕している。フランスの映画評論家が「 ホームラン級の無味乾燥」と絶望混じりに切り捨て、ドイツのボンクラ映画批評家が「これ以上映画を作らなくて本当にありがとう!」と皮肉たっぷりに狂喜乱舞した理由。それこそが、本作が宿す底知れぬ「笑い」と「混沌」のパワーに他ならない。
映画史に燦然と輝く(あるいはドブ川の底で鈍く光る)この『イン ザ ウッズ』という迷宮に、我々は今こそ情熱の炎を松明として掲げ、一歩足を踏み入れなければならないのだ。
第一章:出だしから全開の唐突感!アル中消防士アレックスの地獄の日常
物語は、観客への親切な説明など一切脱ぎ捨てた状態で唐突に幕を開ける。主人公アレックス・カーウッド(D.J.ペリー)は、市民の命を守る熱血消防士……のはずなのだが、映画が始まって数分で我々が目撃するのは、彼のヒーロー像などではなく、重篤なメンタル崩壊とアルコール依存症の地獄絵図である。
炎上する建物から命からがら脱出してきたアレックスは、現場の混乱の中で誰かが命を落としたことを知るやいなや、周囲の人間や仲間たちに向かって暴言を吐き散らかし、逆ギレの嵐を巻き起こす。「人が死んだんだぞ!」と叫びながら怒りを撒き散らす彼の姿には、プロフェッショナルとしての悲哀など微塵もなく、ただの面倒くさい男のヒステリーが充満している。そして彼がこの耐え難いストレスと惨死の記憶を消し去るために選んだ解決策――それこそが「酒」だ。
ここから、本作の恐ろしいまでの「アルコール反復運動」が開始される。ストレスが溜まったら飲む。妻と喧嘩したら飲む。森で怪異に襲われたら飲む。嫌なことがあればとにかく瓶をあおる。アルコール依存症というシリアスで重重しいテーマを扱っているはずなのに、あまりにも脚本の展開が短絡的かつ定型化されているため、観客の目には「ただ酒を飲む言い訳を探している男のコント」にしか映らない。
そして、このアレックスを支える(あるいは追い詰める)妻ヘレン(アイミー・テナグリア)との夫婦生活が、またしても映画のテンポを容赦なく削ぎ落とす。低予算モンスター映画を観にきた観客が期待しているのは、血塗られた爪や牙、惨殺される犠牲者の悲鳴だ。しかし、リン・ドージック監督が我々に叩きつけてくるのは、薄暗いリビングで繰り広げられる、低体温で支離滅裂な「泥沼のドメスティック・ドラマ」なのである。
妻ヘレンのセリフの棒読み加減と、アレックスの過剰でピントの外れた熱演。二人の会話はまるで、互いに異なる言語の台本を読んでいるかのように噛み合わない。メロドラマの泥臭さを目指して不発に終わったソープオペラ以下の会話劇が何分も何分もだらだらと続く。フランスの批評家が「モンスター映画のファンが観に来ているのであって、冷め切った夫婦の愛憎劇観たさに来ているのではない!」と悲鳴を上げたのは当然の帰結と言えよう。だが、この絶望的な見当違いこそが、我々を狂喜させる最初の笑い所なのだ。
第二章:森へ行こう!最悪の狩猟体験と歴史上最もアホな封印解除
家庭と職場でのストレスが極限に達したアレックスは、気晴らしのために友人のウェイン(ジム・グレウリッヒ)と共に鹿狩りへと繰り出す。緑豊かな森林、鳥のさえずり、澄み切った空気。これでアレックスの心も癒やされる……はずがなかった。森に入った途端、映画の迷走ぶりはギアを一段上げて加速する。
二人は狩りを始めるどころか、森の奥深くで「不自然すぎるほど怪しい穴(墓穴のような窪み)」を発見してしまう。普通の人間であれば「不気味だから離れよう」「警察に連絡しよう」となるところだが、友人ウェインの思考回路は完全に狂っている。「この地域で行方不明になっている連続殺人事件の被害者の遺体が埋まっているかもしれない!」と叫ぶやいなや、何を狂ったか、持っていたスコップでその穴をノリノリで掘り返し始めるのだ。
警察でもない一般の狩人(しかも酒気帯び疑惑あり)が、殺人事件の証拠現場かもしれない場所を勝手に掘り返すという大暴挙。そして、彼らが土を掘り返した結果、何が起きたか?
そう、そこに封印されていた古代の凶悪なモンスターが目を醒ましてしまったのである!
太古の邪悪を復活させた理由が「友人が思いつきで土を掘り返したから」という、映画史上類を見ないほどの雑で知性ゼロな展開。世界を脅かす恐怖の覚醒シーンであるはずなのに、観ているこちらはズッコケざるを得ない。そして、目覚めた「何か」に追われ、恐怖に慄きながら森を逃げ惑う二人。必死の思いで自宅へと逃げ帰った彼らが、精神的ショックを和らげるために取った行動とは何か?
――もちろん、「酒を飲む」ことである!
「大変だ!森で化物に襲われた!」「落ち着け!まずは一杯やろう!」と言わんばかりに酒瓶をあおるアレックスとウェイン。この「困ったら酒」という一貫しすぎた行動様式には、もはや崇高な美学すら感じられる。観客もまた、彼らのあまりの愚行と映画の支離滅裂さに耐えるため、画面の前で酒を飲まずにはいられないのだ。
第三章:特撮の限界に挑む!「特大のぬいぐるみ」と狂気の怪獣大決戦
さて、本作の真の主役である「モンスター」について触れないわけにはいかない。映画のタイトルが『In the Woods』であり、パッケージやポスターには不気味な異形が描かれている以上、観客の期待は嫌が上にも高まる。しかし、スクリーンに現れるその姿を目にした瞬間、全人類は己の目を疑うことになるだろう。
画面狭ましと暴れ回るその怪物の正体――それはどう見ても「おもちゃ屋の叩き売りコーナーで投げ売りされている特大のぬいぐるみ」あるいは「安物の着ぐるみ」に過ぎないのだ。
かつて『スター・ウォーズ / ジェダイの帰還』に登場したイウォーク族や、低予算映画の金字塔『オクタマン』『ラビッツ』などを引き合いに出すまでもなく、本作のモンスター造形は特撮技術の歴史に対する公然たる挑戦である。毛並みはフサフサとしており、凶暴な爪や牙をアピールしようとカメラに迫ってくるものの、質感はどう見てもポリエステル。迫力や恐怖感は皆無であり、むしろ抱きしめたくなるような愛くるしさが漂ってしまっている。
ドージック監督もまた、この造形の限界を自覚していたのか、カメラワークや編集でなんとか恐怖を演出試みようとする。素早いカット割り、カメラを激しく揺らす手法、暗闇を駆使したごまかし。しかし、カットが切り替わるたびに「アップになるぬいぐるみ」「血のついた安物プラスチックの爪」「棒立ちになる俳優」が交互に映し出されるため、恐怖を煽れば煽るほど、画面からは失笑と爆笑が漏れ出して止まらない。
さらに圧巻なのは、このモンスターがアレックスの家の周囲に出没し、嫌がらせのように切断された身体のパーツ(これまた理科の実験室から借りてきたようなチープなビニール製の手足)を庭や玄関先に放置していくシーケンスだ。惨劇の現場であるはずなのに、シュールリアリズムの前衛芸術を見せられているかのような静けさと滑稽さが漂う。
そして物語の終盤、このモンスターの正体や背景に関する「回想シーン」が挿入されるのだが、ここが本作のハイライトと言っても過言ではない。低予算ゆえに時代考証も衣装合わせも全てが崩壊しており、学学芸会以下のコスプレをした友人たちが庭でバタバタと暴れているだけの映像が展開される。ドイツの批評家が「カーニバルの仮装衣装を着た友達3人と庭でワーテルローの戦いを再現した方がマシ」と切って捨てたこの回想シーンは、映画表現の底底を突き抜けた奇跡のギャグシーンとして、我々の脳裏に永遠に焼き付くこととなる。
第四章:棒読みの殿堂!キャスト陣が繰り広げる大根演技のオリンピック
『イン ザ ウッズ』を単なる失笑映画から「奇跡の怪作」へと押し上げている最大の要素、それはキャスト陣による「信じがたい大根演技の交響曲」である。
主演のD.J.ペリーは、シリアスな演技をしようとすればするほど顔面を歪め、過剰なジェスチャーで怒りを表現しようとするが、その姿は哀愁を帯びたヒーローではなく「機嫌の悪い幼児」にしか見えない。彼が酒を飲むシーンの深刻ぶった表情は、観客の腹筋を容赦なく破壊する。
しかし、ペリーすらもかすむほどの超絶的な棒読みと大根演技を披露するのが、脇を固めるキャストたちだ。中でもレイチェル・ウォーカーの演技は、全映画史における「演技下手大賞」のゴールドメダリストとして歴史に名を刻むべきレベルに達している。感情の起伏が一切存在しない平坦な台詞回し、どこを向いているのか分からない視線、恐怖や驚きを表現する際の見事なまでの棒立ち。彼女が画面に現れ、言葉を発するたびに、映画の緊張感はゼロを突き抜けてマイナスへと急降下する。
さらに、この映画にはモンスターだけでなく「謎のシリアルキラー(連続殺人鬼)」まで登場するという、過剰すぎる盛り込みが行われている。このシリアルキラーの描写がまた秀逸だ。店で新しいナイフを買おうと財布を取り出した際、カバンの中から「切り落とされた人間の指」が数本ポロポロと床にこぼれ落ちてしまうという、ドリフのコントも青ざめるようなポンコツなミスをやらかすのだ。
殺人鬼は慌てて指を拾い集め、店員は何事もなかったかのように対応する(あるいは演技が下手すぎてリアクションできていないだけなのか)。この数秒間のやり取りに凝縮された圧倒的な不条理と脱力感!トミー・ウィゾーの金字塔『ザ・ルーム』に匹敵する、計算ゼロから生まれた奇跡のコント空間がそこには完成している。
第五章:なぜ我々は『イン ザ ウッズ』を愛さずにはいられないのか?
ここまで本作の悲惨なまでの欠陥、崩壊したシナリオ、チープな特撮、壊滅的な演技力を列挙してきた。では、この作品は単なる「不快なゴミ映画」なのだろうか?
答えは断固として「ノー」である。
映画史には、完全に才能がなく、カメラの回し方すら知らない人間が作った真の苦痛な映画が無数に存在する。しかし、『イン ザ ウッズ』の奇妙なところは、監督のリン・ドージックが「カメラをどこに向ければいいか」という最低限の技術だけは持っている点だ。構図やアングル自体は意外にも映画としての体を成している時間帯があり、それがかえって「中身のなさ」「演技の酷さ」「脚本の異常さ」を浮き彫りにするという、奇跡的なギャップを生み出している。
本気でシリアスなサスペンス・ホラーを作ろうとした制作陣の情熱。アルコール依存症という社会的テーマを盛り込もうとした高い志。それら全てが、圧倒的な技術不足とセンスの欠如によってバナナの皮ですってんころりん転ぶように滑り倒し、意図せざる最高のコメディへと昇華されていく過程。これこそが、カルト映画ファンが喉から手が出るほど求める「奇跡の失敗作」の姿なのだ。
ドイツの批評家は「ドージック監督がこれ以降10年以上映画を撮っていないことに感謝する」と毒を吐いた。確かに、彼は映画監督としての才能には恵まれなかったかもしれない。しかし、彼が遺したこの1作は、完璧に計算されたつまらない大作映画よりも遥かに饒舌であり、観客に強烈なエンターテインメント体験(失笑と爆笑という形ではあるが)を提供し続けている。
観終わった後、誰もが脱力し、頭を抱え、そしてこう呟くだろう。「……ちょっと酒でも飲んで気分を紛らわすか」と。
主人公アレックスと同じように、我々もまた『イン ザ ウッズ』という迷宮の恐怖(と爆笑)から逃れるために酒瓶へと手を伸ばす。映画の出来栄えとしては2/10点かもしれない。しかし、愛すべき珍作としての輝きは、100点満点中の無限大だ。もしあなたが、日常のストレスに疲れ果て、腹の底からくだらないもので笑いたいと願っているなら、迷うことなくこの「惨劇の森」へと足を踏み入れるべきである。そこには、映画という芸術が偶然生み出した、最高に愛おしい混沌が広がっているのだから!