『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(てんさい・たけしのげんきがでるテレビ!!)は、1985年4月14日から1996年10月6日まで日本テレビ系列で毎週日曜日の20:00 - 20:54(JST)に放送されていたバラエティ番組で、ビートたけしの冠番組。通称「元テレ」、「元気」。
1995年10月からは『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(ちょうてんさい・たけしのげんきがでるテレビ!!)のタイトルで放送されていた。
概要
ビートたけしが社長を務める架空の会社「元気が出る商事(初期は「風林火山商事」)」を舞台に、様々な企画で構成されたバラエティ番組。番組の企画では、社員(レギュラー出演者)のいずれか1人が、進行役、リポーター、ドッキリの仕掛け人もしくはターゲットとして参加していた。
番組の舞台が会社なのは、企画段階では会社を舞台にしたコメディ番組だった名残りである。また、バラエティ番組でありながら、松方弘樹、原田大二郎、宝田明などの大物俳優や、野口五郎などの有名歌手がレギュラー出演しているのも、コメディを制作する予定でキャスティングしていたためである。
番組名の「元気が出るテレビ」は、「日曜の夜になると『明日からまた学校や仕事に行かなければならない』と憂鬱な気分になる学生や社会人に対して元気を出させる番組を作る」という主旨で、総合演出の伊藤輝夫(現・テリー伊藤)とプロデューサーの牛丸謙壱がネーミングしたものである。
ドキュメントバラエティの元祖であり、「テレビとは真実を伝えるものだ」という社会的な共通認識を根本から打ち砕いた革命的な番組だったと評されている[注 1]。最終回でたけしは「今のバラエティーでやっていることは、全てこの番組でやってきた」と、この番組がもたらした影響を自負した。
従来のバラエティ番組は基本的に番組出演者だけで内容が進行していたのに対し、普通に生活している一般人にスポットを当てることで、番組内容にリアリティを生じさせるという効果があった。特に「○○区にすごいそば屋のオヤジがいた!」、「信じられないほどお金持ちのお嬢様が実在した!」など、社会的にあまり重要ではない事物を針小棒大に取り上げる企画が数多く放送され、さまざまな人気者を生み出した。その一方、これらの企画で有名になった企業・商店街などが、企画終了後に一気に衰退することも多かった。
このようなVTR主体のバラエティ番組や、素人出演企画のフォーマットは後年、同じ日本テレビの『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』『投稿!特ホウ王国』『月曜から夜ふかし』や他局の『さんまのSUPERからくりTV』『学校へ行こう!』(いずれもTBS)に引き継がれている。
番組全盛期の頃、原宿の竹下通りと京都市西京区嵐山、千葉県浦安市に「元気が出るハウス」をオープン。タレントショップブームの先駆けとなる[注 2]。
1988年ごろからお笑い色の強いコーナーだけでなく、「ダンス甲子園」など一般人出演者が大きな目標に向かって努力する様子をドキュメントするという内容が目立つようになる。
同年7月には、「ウィッキーさんのワンポイント英会話に出よう」という企画で、『ズームイン!!朝!』の「Wickyさんのワンポイント英会話」に鞍馬天狗に扮したたけしとリポーターに徹した高田が突如通行人としてゲリラ出演した[注 3]。8月には、「街かどテレビに出よう」という企画で『街かどテレビ11:00』(TBS系)にも変装したたけしとリポーターに徹した高田が観覧客に混じってゲリラ出演した。
1996年8月25日の放送において、前番組の『24時間テレビ19 「愛は地球を救う」』でチャリティマラソンを走った赤井英和の日本武道館の到着が遅れた[注 4]為に『24時間テレビ』の放送時間が15分延長されたが、本番組は繰り下げずそのまま15分短縮され、冒頭のコーナーや最初の提供クレジットはカットされた[注 5]。
1994年9月、たけしがバイク事故で療養に入る。たけし不在となった最初の放送(1994年9月4日)には、たけしの相方であるビートきよしがオープニングだけ出演した。ダンカンに止められながらスタジオに現れたきよしは、たけしの身に万が一の事があった時に備えて温めていたという「初めての告白」「ジェットコースター顔」なるコーナーを披露し、遂には「きよしメモ」(「たけしメモ」のパロディ)を披露するも、ダンカンに制止されてスタジオから退場させられるオチだった。これ以降、きよしに出演の声が掛かることは無かった。
たけしが療養に入ると同時に、裏番組の『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)の視聴率が上がり始め、当番組と互角の視聴率争いを繰り広げる。当番組はたけし復帰初回(楽屋訪問のVTRが流れた)の1995年3月5日に21.9%、スタジオ復帰初回の3月12日に20.5%の高視聴率を記録したものの、4月以降はプロ野球中継による休止や『平成口ゲンカ王』などの人気企画の相次ぐ終了も重なり、裏番組の『ごっつええ感じ』に加え、大河ドラマ『八代将軍吉宗』(NHK)、『ザ・スーパーサンデー』(テレビ朝日)に押され、視聴率が急落。
そこで、同年10月にレギュラー出演者を大幅に入れ替え、番組タイトルの頭に『超』を付けてリニューアルされ、かつての人気企画だった「ダンス甲子園」を「ストリートダンス選手権」として復活させるなどのテコ入れを行うも、若年層を取り込むなどの絶大な人気を誇った裏番組の大河ドラマ『秀吉』に押され、1年後の1996年10月で終了。通算11年半の放送に幕を降ろした。また、たけし出演のいくつかの番組で長年制作協力として携わってきたIVSテレビ制作は当番組の終了に伴い、たけしのレギュラー番組の制作から疎遠となった。ただ、テリー伊藤がIVSから独立して設立した制作会社LOCOMOTIONは、たけし関連の他番組で制作協力を請け負う関係は続いている。
2004年12月22日に初回限定2枚組でDVDが発売された。
2005年の24時間テレビの深夜企画で元気が出るテレビの名場面と復活企画を行うとともに、たけし以外の出演者が全員出演した。翌年の2006年の24時間テレビで、この番組の名物企画だった「ダンス甲子園」が復活し、2014年まで放送された。
日曜20時枠のバラエティ番組では『世界の果てまでイッテQ!』が開始するまでは10年以上続いた唯一の番組であった。なお、『イッテQ』は2018年7月に当番組の11年半を抜き、この枠での歴代最長番組となった。
司会
ビートたけし(社長→会長)★
『超』からは、会長名義。
1986年12月28日〜1987年7月12日はフライデー襲撃事件の影響を受けての出演自粛、1994年9月4日〜1995年2月26日はバイク事故による芸能活動の中断のため、それぞれ休演。
フライデー襲撃事件の謹慎時は番組名から「天才・たけしの」を外した『元気が出るテレビ!!』として放送され、オープニングやスタジオセット、さらにはエンドカードや台本に描かれたタイトルロゴからも「天才・たけしの」の部分が削除された。なお、事件から1週間が経った1986年12月15日には上記の同年12月28日放送分のスタジオ収録に参加していた。これは日本テレビ側のこの日の収録は予定通り行いたいという意向と、たけしが当日に局入りすれば「(当時の事務所だった太田プロダクションが)謹慎を解いたとみなす」という判断によるもので、この日の収録映像も事情が変わらない限り予定通り放送するというコメントも出していた。スタジオ入り・収録の際は集まった報道陣をシャットアウトし、たけしは土屋敏男と共にカモフラージュのために用意した冷蔵車に乗ってスタジオ入りした。しかしこの早期復帰は賛否両論を呼び、結局収録されたVTRはお蔵入りとなった。12月28日放送分はスタジオパートがカットされた総集編を放送している。
バイク事故による療養時は1994年8月28日まで事故前に撮り溜めていた収録済みの映像をそのまま放送し、同年9月4日(前述の通りきよしが出演)から10月9日の2時間スペシャルまではたけし抜きで進行(これ以降のメイン進行は松方が代行)。同年10月30日からはたけしと親交のある著名人(初回は森進一)が週替わりでゲスト出演した。
ビートたけし(1947年〈昭和22年〉1月18日[2] - )は、日本のお笑いタレント、俳優、キャスター、司会者、映画脚本家、監督。本名、北野 武(きたの たけし)。
1980年代初頭に起こった漫才ブームで、漫才コンビツービートとして活躍した。社会風刺を題材としたシニカルな笑いで人気を獲得し、テレビ番組『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』などに出演し、それらも大ヒットした。1980年代後半からは俳優として映画やテレビドラマにも出演し、1990年代からは映画の脚本家・監督としても活動している。2008年にはTBSテレビのニュース番組『情報7daysニュースキャスター』のメインキャスターを務めた[3]。 1989年の『その男、凶暴につき』で映画脚本家・監督デビューし、『ソナチネ』(1993年)では世界的に高い評価を得た。1997年の『HANA-BI』ではベネチア国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。映画祭金獅子賞を受賞した。2010年にフランス芸術文化勲章コマンドゥール、2016年にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ、2018年に旭日小綬章を受章。
概要
東京都足立区島根出身。東京都立足立高等学校を卒業し、明治大学工学部機械工学科中退(のちに特別卒業認定[4])。東京芸術大学大学院映像研究科特別教授(2005年 - 2008年)。
明石家さんま、タモリと共に、日本の「お笑いBIG3」として知られる[5]。
日本国内の場合、映画監督時や『平成教育委員会』などの番組では本名の「北野武」名義を用い、その他の番組や、映画の出演者として出演するときは、芸名の「ビートたけし」名義でタレント活動している。日本国外では本名である『Takeshi Kitano』名義であるが、『Beat Takeshi Kitano』という、本名と芸名を併せた名義を使うこともある。また、絵画では「ビートたけし・北野武」と、併用名義を使用する。
落語立川流Bコースの一員で、高座名は「立川錦之助」[注 5]。近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っている。
来歴
生い立ち
塗装職人の父・北野菊次郎(1899年[注 6] - 1979年)と、母・北野さき(1904年[注 7] - 1999年)の四男として生まれる(幼少時に早逝した兄が一人いるため、実質は三男として育つ)。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武」と命名された。
『平凡パンチ』1978年11月13日号のインタビュー記事では「浅草に生まれて、下町に育った」と語っており、1982年『週刊サンケイ』の小林信彦との対談でも「生まれたのは浅草(台東区)で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している[7]。
色白で細面、小柄であるが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母の北野うしに非常に可愛がられて育った(家族構成は、「親族」節を参照)一方で、母のさきからは厳しく接せられた。