映像メディアの極北、あるいは「公的な記録」という権力制度に対する最も誠実で凶暴なパロディ――。2000年というミレニアムの狭間に産み落とされたビデオグラム『生涯学習シリーズ バカ映画110番~あなたのバカ映画は大丈夫?~』は、その存在自体が極めて特異であり、同時に90年代末から2000年代初頭における日本のインディペンデント映像文化の底流に蠢いていた狂気を一身に体現した異形の大傑作である。VHSの黄ばんだジャケットに刻まれた「生涯学習」というあまりにも白々しい公共の記号性、そして「企画 生田しねまん」という過激で悪意に満ちた(しかしどこか哀愁を帯びた)制作クレジット。この作品を単なるサブカルチャーの産物、あるいはロフトプラスワン的トークイベントの残滓として切り捨てることは容易だ。しかし、そこに刻まれた「再現ドラマ」の形式論、8ミリフィルムに対する愛憎半ばする物質主義的フェティシズム、そして自治体・官公庁が制作する「お役所啓発ビデオ」の完璧すぎる模倣と解体は、いま改めて再評価されるべき極めて現代的な映像批評としての強度を保持している。
そもそも「生涯学習」とは何か。それは戦後の高度経済成長期を経て、国家あるいは自治体が国民に対して「正しい余暇の過ごし方」「社会参加の倫理」「健全な自己実現」を提示・強制するための啓発システムであった。80年代から90年代にかけて全国の教育委員会や公民館には、啓発用の教育ビデオや防犯・防災ビデオ、人権啓発ビデオが大量に納品され、それらは特有の平坦なライティング、プロともアマともつかないナレーション、過剰に分かりやすい劇伴、そして現実の複雑さを無理やり一対一の道徳的教訓に落とし込む雑な「再現ドラマ」によって構成されていた。『バカ映画110番』の恐るべき真価は、この「お役所ビデオ」というジャンルが持つ決定的な形式美と、その裏に潜む不気味な胡散臭さを完璧な解像度で再構築してみせた点にある。
パッケージ表面のデザインを見てほしい。緑の地に描かれたどこか素朴で無害な線画のイラスト。作業着を着た男が子供の頭に釘を打ち込もうとしているのか、あるいはDIYの道具を調整しているのか、そこにハンディカメラを構える女性が笑顔で寄り添う。この「家族」「手作り」「地域社会」を連想させる公的な視覚言語の偽装こそが、本作のトラップの第一段階である。我々はこのビデオテープをVHSデッキに挿入した瞬間、自らが「教育される側」「啓発される対象」として構造化される心地よい不気味さを覚えることになるのだ。
本作の核をなすのは、タイトルにもある「バカ映画」を制作する現場で発生する様々な人間関係のトラブルをケーススタディとして提示する3つの再現ドラマである。映画制作とは本来、少人数であれ大人数であれ、個人のエゴと欲望が衝突する極限の共同作業であり、プロの現場のみならず自主映画の現場においてはむしろその感情的・人間関係的破綻が顕著にあらわれる。企画趣旨において「バカ映画製作はひとりではできません。多くの人たちが携わる共同作業です。その結果から人間関係とのトラブルも少なくありません」と粛々と語られるナレーションの客観性は、事象の愚かさと強烈なコントラストをなし、観客を爆笑と絶望の渦へと叩き込む。
第一話「夫婦とのトラブル篇」におけるYさん(女性)の証言は、自主映画界隈における「家庭崩壊」あるいは「日常の非日常化」を鋭く穿っている。映画サークルで出会った男性と「できちゃった結婚」を果たした彼女は、子供の誕生を機に夫の変容を目撃する。我が子を愛するあまり、その愛が狂気的な「映画的演出」や「子どもの道具化」へと傾斜していくプロセス。夫の様子が少し変であるという素朴な告白の裏には、映画制作の悪霊に取り憑かれた人間が、家族という最も不可侵であるべき領域を作品のプライベートな実験場へと変貌させていく恐怖が潜んでいる。家庭という日常の空間にカメラが持ち込まれたとき、そこに存在する人間はもはや家族ではなく「被写体」であり「素材」へと堕ちる。このエピソードが提示する「愛ゆえの狂気」は、お役所ビデオに固有の家庭内問題( DVや育児放棄など)の構造を借りながら、映画という病の深淵を暴き出す。
第二話「学生とのトラブル篇」のTさん(男性)の告白は、全国の映画研究会や映像系専門学校に生息する「自意識の怪物」たちの痛烈な肖像画だ。大学の映研の門を叩き、「自分の内面に秘めたる感情を映画という手段で表現しよう」と意気込む大学一年生。この設定自体が、自主映画史において幾千回と繰り返されてきた悲劇の予兆である。そして彼が抱える「一言多い悪いクセ」によって引き起こされるトラブル。映画というメディアの万能感を信じ切り、己の文脈でしか世界を語れない青臭い若者が、現場の空気や人間関係を完膚なきまでに破壊していく様は、腹を抱えて笑えるのと同時に、かつて自主映画の現場に少しでも足を踏み入れ、己のエゴを撒き散らした経験のある者にとっては正視に堪えないトラウマ的恐怖を喚起する。ここでは「言葉の暴走」と「映画への過剰な自意識」がどのように共同体を崩壊させるかが、乾いたタッチで再現されていく。
そして、最も不穏で、同時に映画史的な暗雲を漂わせているのが第三話「アマチュア作家のトラブル篇」である。30歳独身男性・Sさんの「人には言えないつらく悲しい思い出」。5年前、自主映画の撮影が終わった時に起きた出来事の回想。このエピソードの終盤に至る展開、そして漂う言葉にしがみつくような不気味な余韻は、まさにネット怪談の金字塔『杉沢村伝説』や、あるいは後年のフェイクドキュメンタリーホラー、モキュメンタリーの先駆けとも言える超自然的な混迷と狂気を呈する。「何を思い出しとるんだオレは」と鑑賞者に思わせるほどの、文脈の逸脱と恐怖への急滑降。自主映画の撮影現場という、法律も常識も届かない「都市の穴」「郊外の密室」において、人間は何を目撃し、何を作り出してしまうのか。単なるあるあるネタの再現ドラマに留まらず、最終的に映像の闇そのものへと雪崩れ込んでいくこの構造は、酒徳ごうわくという作家が持つ極めて映画的な演出力と計算された構成力の賜物と言えるだろう。
本作の監督・構成を務めた酒徳ごうわく、そして監修として名を連ねる「日本自主映画連盟理事長 マキノ喜三朗」という虚実皮膜のキャラクター設定。出演陣の河野亜紀、渡辺陽一、木全直弘、酒徳圭二、阿部宗右、齋藤浩一、佐藤正樹らが見せる、プロの俳優の芝居とは一線を画す「素人くささを精緻に演技した」あるいは「本物の自主映画関係者の生々しさをそのまま抽出した」怪演の数々。これらすべての要素が、2000年11月28日に新宿ロフトプラスワンで開催されたイベント「バカ映画110番」の熱気と混ざり合い、この一本のビデオテープの中に圧縮されている。イベント上映時の「映像部分のみ」を収録したというストイックな編集方針もまた、このビデオを単なるドキュメントではなく、完結したひとつの「教材」として成立させている要因である。
さらに見逃せないのが、特典として収録されている『ビバ!8ミリフィルムのひみつ4~』(99年製作)の存在感である。80年代に事実上の製造中止や衰退を迎え、デジタルビデオ(DVカメラ)の波に押されつつあった1999年という時代において、あえて「8ミリフィルム」を取り上げるこの教養エンタテインメント作品。ここで試みられる「有効期限がすでに過ぎてしまったフィルムの使用性についての実験」は、単なるノスタルジーや懐古趣味を遥かに超えた、メディア論的な実験性に満ちている。
期限切れのフィルムに光を照射し、現像したときに現れるノイズ、褪色、粒子の荒れ、あるいは何も映っていない漆黒の闇。それは、映画というメディアが不可逆的な物理的物質(フィルム)の上に成り立っていたことの残酷な証明であり、有効期限という「死」を迎えた素材に対してなおカメラを向けようとする自主映画作家たちの病的な執着のメタファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。でもある。「女囚映画」などのパロディ的文脈やユーモアを交えつつも、実験を通して示されるのは、映像というものの儚さと、それを永遠に残そうとする人間の滑稽な努力である。『ビバ!8ミリ』の爆笑と脱力の中には、映画というメディアの終焉と誕生をめぐる切ないまでの愛が溢れ出ているのだ。
『生涯学習シリーズ バカ映画110番』が作られた2000年という年は、映画史において極めて大きな転換点であった。フィルムからデジタルへ、アンプラグドな共同体からインターネットによる個人化へ、そしてカルト的なカセット文化(VHS)の黄昏。そんな時代の狭間で、生田しねまんと酒徳ごうわくらは、あえて「最も古臭く、最も胡散臭い」お役所啓発ビデオのフォーマットを借りることで、自分たちが愛してやまない「バカ映画」「自主映画」という底なしの泥沼を愛で、嘲笑し、そして祝福したのである。
この作品は、単なるお笑いビデオでもなければ、楽屋落ちの自主映画パロディでもない。それは映画を撮ることの呪いと祝福、共同体が生み出す狂気、そして物理的メディアが滅びゆくことへの哀歌を、完璧なユーモアと計算された再現ドラマによって包み込んだ、日本インディペンデント映像史に燦然と輝く「偽の啓発映画」という名の真の金字塔なのだ。パッケージの裏面に小さく記された「※このテープの無断複製及び放送・有線放送・公開上映などの無断使用は法律で禁じられていません」という最後の一文のジョークに至るまで、本作は徹底して権威をあざ笑い、映像を愛するすべての「バカ」たちへ向けて開かれている。我々はこのビデオを観て、笑い、恐怖し、そして自らの胸に手を当てて問わねばならない。「自分自身のバカ映画は、本当に大丈夫なのだろうか?」と。
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