1969年という年は、日本の映画界にとっても、そしてポピュラーカルチャー全体にとっても、巨大な地殻変動が表面化し始めた特異な臨界点であった。映画産業の斜陽が叫ばれ、大手スタジオが従来のプログラムピクチャーのシステムを模索しながら急速に崩壊へ向かう一方で、グループ・サウンズ(GS)に代表される若者文化の旋風が、テレビやレコードを通じて都市の路上を色鮮やかに浸食していた時期である。その混沌の真っ只中、松竹という古風な大船調の伝統を抱えたスタジオの片隅で、静かに、しかし決定的に映画の「肌触り」を更新してしまった傑作が存在する。それこそが、斎藤耕一監督による『落葉とくちづけ』である。
本作は一見すると、当時の歌謡映画やアイドル映画のフォーマットを踏襲した安易なアイドル企画、すなわちヴィレッジ・シンガーズのヒット曲「落葉とくちづけ」をタイトルに掲げたGS歌謡映画の枠組みの中に収まっているように思われるかもしれない。しかし、そんな表面的なジャンルの分類は、本編の冒頭数分を目にした瞬間にことごとく粉砕される。斎藤耕一という映画作家がここで仕掛けたのは、歌謡映画という資本主義的プロダクトの皮をかぶった、極めて純度の高いモーショナル・ポエジーの横転であり、光と影、音と色彩が交錯する都市の過剰な抒情詩なのだ。
斎藤耕一という監督のキャリアを振り返るとき、彼がスチールカメラマン出身であったという事実は、どれほど強調しても強調しすぎることはない。彼は単に「画面のレイアウトが上手い」監督なのではない。彼は映画という時間芸術の中に、スチール写真が持つ「一瞬の時間を切り取り、その瞬間に永遠を凝縮させる」という魔術的な停止力と緊張感を、シネマティックな運動として注入することに成功した稀有な映像美学の徒であった。『落葉とくちづけ』におけるカメラワークと撮影技術(小辻昭三との見事なコラボレーション)は、スクリーンに映し出されるあらゆる風景を、若者たちの内面世界の哀愁と焦燥のダイレクトな投影へと変貌させる。
映画の物語は、若さと焦燥、そして現実と妄想のあわいに漂うどこか狂気じみたロマンティシズムを軸に展開する。城南学園の演劇部で「永遠のアイドル」として崇められていた田代信子(尾崎奈々)は、卒業後、コマーシャル・タレントとして華やかな世界に身を投じ、大人たちの消費社会の中に組み込まれていく。一方、彼女を「永遠の乙女」として偶像化し続けるかつての仲間たち、水谷を中心とするグループ(ヴィレッジ・シンガーズ)は、ヒゲを生やした冴えないバンドとして安キャバレーをドサ回りしながら、彼女の見合い話が持ち上がるたびに妨害工作を企てるという、青臭くも愛おしい現実逃避の共同体を維持している。
そこに割り込んでくるのが、藤岡弘演じる漫画家志望の青年・ジュンである。ペンキ屋の小僧として働きながら、東北の純愛物語「ノッポのノンコ」を描き続ける彼は、信子を目撃した瞬間、彼女こそが自分の理想の物語のヒロインであると確信する。そして彼女に向かって放たれる言葉、「君が僕を知らないのは、君が記憶喪失だからだ」という衝撃的な論理の跳躍! このセリフの突飛さと、それを真面目な顔で発する藤岡弘の硬質な存在感こそ、本作が単なるラブロマンスを超えて、一種の幻想文学的な領域へと踏み出すモニュメンタルな瞬間である。
信子はジュンのこの常軌を逸した思い込みに振り回され、夜ごとに葛藤し、自らの記憶と存在の確かさを揺さぶられていく。この「記憶喪失」というレトリックは、実は高度経済成長の渦中で自己のアイデンティティを見失い、消費される記号へと成り下がっていく現代都市の若者たちのメタファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。として鮮やかに機能している。信子がコマーシャルの世界で笑顔を振りまき、大量生産・大量消費の象徴となっていくプロセスと、ジュンが描く純朴で過剰なフィクションの世界との間で引き裂かれるとき、観客はそこに、1960年代末という時代の歪みそのものを目撃することになるのだ。
斎藤耕一の演出は、この奇妙な三角関係ならぬ「虚構と現実の混錯」を、徹底した映像感覚で包み込む。フレームの切り取り方一つをとっても、被写体を中央から意図的に外し、無機質な都市の建造物やグラフィカルな構図の中に人物を配置するスタイルは、ヌーヴェルヴァーグの洗礼を感じさせつつも、日活や東映のモダンなアクション映画とは一線を画す、松竹的・抒情的なアンニュイさを湛えている。画面に差し込む逆光の煌めき、路上に散らばる落葉の鮮烈な色彩、そして水溜まりに映るネオンの反射。あらゆるショットが、まるで極上の写真集のページをめくるかのように美しい。
そして、本作を議論する上で絶対に避けて通れないのが、音楽と映像の不可分な超絶的結合である。ヴィレッジ・シンガーズの甘美でどこか物悲しい旋律は、単なる挿入歌やバックグラウンドミュージックとして機能するにとどまらない。曲が流れ始めた瞬間、映像のカット割りとカメラの運動は音楽の脈動と完全に同期し、スクリーンの時間そのものがミュージカル的、あるいは純粋なイメージの奔流へと昇華する。特に、物語がクライマックスへと向かうクリスマスの夜の描写は圧巻というほかない。
自分たちの象徴であったヒゲを剃り落とした水谷たちのグループが、ひょんなことから人気絶頂のGS(ここでオックスなどの当時のリアルなGSの熱狂が交差するカオス!)と誤認され、大劇場の狂乱のステージへと巻き込まれていくポップな疾走感。その一方で、喧騒を離れた信子とジュンは、ジュンのフィクションの原点である東北の雪景色へと脱出を図る。この「狂乱の都市空間」と「沈黙の北国」との鮮烈な対比! 斎藤耕一は、編集のテンポを巧みに操作しながら、ポップカルチャーの極致にある爆発的なエネルギーと、個人的で孤独な愛の逃避行という相反する二つのベクトルのドラマを同時に加速させていく。
尾崎奈々という女優が放つ透明感あふれる可憐さは、カメラのレンズを通して神聖化されていると言っても過言ではない。彼女の瞳に映る不安と憧れ、揺れ動く乙女心は、斎藤のクローズアップによってスクリーンいっぱいに拡大され、観客の胸を締め付ける。また、若き日の藤岡弘が醸し出す、不器用でありながらも途方もない純粋さと狂気を秘めたエネルギーは、後の『仮面ライダー』やアクション映画で見せるタフガイ像とは異なる、青臭い情熱の原石として異彩を放っている。彼の切実な眼差しが「記憶喪失」という突飛な設定に揺るぎない説得力を与え、映画全体をシリアスな純愛の寓話へと牽引しているのだ。
『落葉とくちづけ』という映画は、一見すると若者たちの他愛もない青春のひとコマを描いているように見えながら、その深層においては「喪失された理想郷への郷愁」という深いテーマを抱え込んでいる。信子を「永遠の乙女」として固定しようとする水谷たちの無あがきの抵抗も、自分が創り出した物語の中に信子を閉じ込めようとするジュンの執着も、すべては刻一刻と変化し、成熟(あるいは腐敗)していく現実世界に対する若者たちの儚い抵抗にほかならない。落ち葉が木から落ちて地面に還るように、青春という時間もまた、瞬く間に過ぎ去り、記憶の底へと沈んでいく。その不可逆な時間の流れに対して、映画というメディアだけが、彼らの「くちづけ」のような一瞬の交歓を、永遠の光として定着させることができるのだ。
斎藤耕一は、この作品によって商業映画の制約の中で自己の美学を極限まで貫き通すプロフェッショナリズムと、アーティストとしての尖鋭な感性を完璧に融合させて見せた。のちに『約束』や『旅の重さ』、『津軽じょんがら節』といった日本映画史に残る数々の名作を世に送り出し、孤高の映像詩人として評価を確立していく彼の原点が、すでにこの1969年の『落葉とくちづけ』において、これ以上ないほど鮮やかに、そして過剰なほどの熱量をもって結実していたのである。
映画の終盤、スクリーンを包み込む抒情の嵐は、観客の感情を激しく揺さぶり、切なさと美しさの混ざり合った独特の余韻を残す。それは単なるノスタルジーではない。私たちがかつて持ち、そしていつの間にかどこかに置き忘れてきてしまった「世界を自分たちのフィクションで塗り替えられると信じていた愚かで美しい情熱」そのもののプレイバックなのだ。画面いっぱいに広がる色彩のシンフォニー、耳から離れない旋律の残響、そして若者たちの青い吐息。『落葉とくちづけ』は、今なお色あせることなく、スクリーンという永遠の現在において、私たちに問いかけ、揺さぶり、そして魅了し続けている。
この映画を観るということは、単に1960年代の日本映画の遺産を鑑賞することではない。それは、斎藤耕一という映像の錬金術師が張り巡らせた光と音のトラップに深く落ち込み、映画という表現が持ち得る純粋な視覚的・聴覚的快楽の極致を体感することに他ならないのだ。時代の徒花(あだばな)として消費され消えていくはずだった歌謡映画を、不滅の映像詩へと仕立て上げた奇跡。それこそが『落葉とくちづけ』という作品が持つ、真の恐ろしさであり、絶対的な魅力なのである。
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