ジェームズ・キャメロンが2億ドルという国家予算級の巨費を投じ、レオナルド・ディカプリオの美顔とケイト・ウィンスレットの情熱的な裸身、そして最新鋭のCG技術を駆使して世界中の涙腺と財布を破壊した1997年の超大作『タイタニック』。あの映画のブルーレイを買おうとして、あるいは配信サイトの検索窓でうっかり指が滑り、1958年製作のモノクロ映画『SOSタイタニック/忘れえぬ夜』(原題:A Night to Remember)に辿り着いてしまった哀しき犠牲者たちが、この地球上には数知れず存在する。
「あれ……? ジャックとローズのイチャイチャが見当たらない」「ディカプリオがずいぶん渋い英国紳士になっている」「というか画面が白黒なんだが!?」とパニックに陥ったレンタル商品有可能為租借使用,非賣品ビデオ全盛期の被害者諸君、落ち着いてほしい。そして膝を打って歓喜してほしい。君たちが事故で掴まされたその作品こそ、キャメロンの金字塔より40年も早く誕生し、映画史に燦然と輝く「タイタニック映画の真の最高峰」であり、真の傑作なのだから!
そもそも、なぜキャメロンはあの巨大な船をもう一度作らねばならなかったのか? 噂によれば、キャメロンが2億ドルもの巨費をハリウッドの出資者から巻き上げた最大の理由は、ただ単に「本物のタイタニックの沈没船を潜水艇で見に行きたかったから」という個人的なオタク的欲望を満たすためだったとも囁かれている。だが、1958年のイギリスの映画人たちは違った。彼らはわずか50万ポンド(現在の価値に換算してもキャメロン版の足元にも及ばない慎ましい予算)と、溢れんばかりの英国的気骨、そして研ぎ澄まされた職人芸だけで、人類史上最大の海難事故を完璧に映画化してみせたのである。
1912年4月、イギリスの造船技術と資本主義の栄華の極みとして建造され、「神でさえ沈められない」「人類の自然に対する完全なる勝利の象徴」とまで豪語された豪華客船RMSタイタニック号。だが、処女航海にして北大西洋の暗闇の中で巨大な氷山と接触し、1500人以上の魂とともに海底へと消えた。この悲劇は当時世界を震撼させたが、その後の二度の世界大戦という人類規模の泥沼の歴史の中で、人々の記憶からは徐々に風化しつつあった。
その記憶の風化に喝を入れたのが、1955年にアメリカの広告ライター、ウォルター・ロードが発表したノンフィクション『A Night to Remember』(邦題『タイタニック号の最期』)であった。ロードは生存者の詳細な証言と膨大な記録を綿密に取材し、分刻みのドキュメンタリータッチで沈没の全貌を描き出した。この本は大ベストセラーとなり、少年時代にタイタニック号の進水式を実際に目撃していたという運命的なトラウマ(あるいは情熱)を持つプロデューサー、ウィリアム・マッキティの魂に火をつけたのである。こうして、名手ロイ・ウォード・ベイカー監督のもと、英国映画史に残る超絶怒涛のドキュドラマが産声を上げることとなった。
本作の素晴らしさを語る上で、まず避けて通れないのがその卓越した語り口である。キャメロン版が「身分違いの格差恋愛アクション・メロドラマ」というハリウッド的王道黄金パターンを軸に据えたのに対し、本作には固定された単独の「主役」は存在しない。強いて言えば、ケネス・モア演じるライトラー二等航海士が狂言回し的な役割を果たすが、本質的には「タイタニック号に乗り合わせた数百人の人間群像」そのものが主役なのだ。
映画は、船の進水式でシャンパンのボトルが割れる華やかなプロローグから始まる。やがて画面は列車の中へと移り、石鹸の広告にタイタニック号の航海がタイアップされているのを見て冗談を飛ばす副長と、それに対して「この無礼者め、お前は外国人か、それとも危険思想の過激派(ラディカル)か!」と大真面目に憤慨する高慢な老夫婦の姿を映し出す。このわずか数秒のやり取りの中に、「不沈船タイタニック」が当時のイギリス社会においていかに国家の誇りであり、技術的進歩の聖域として神聖化されていたかという痛烈な社会批判が凝縮されている。
そして物語は、乗客たちの旅立ちを点描していく。高級馬車で乗りつける超上流階級たちを見送る貧しい女学生たち。彼らにとってタイタニックの出港は「これで今年のクリスマス用七面鳥が買えるわ」という生活の糧でしかない。アイルランドの貧しい村からは、新天地アメリカでの人生の一発逆転を夢見る移民たちが、賑やかな民族音楽とともに船に乗り込んでいく。そして豪華な一等客室のサロンでは、大富豪たちがブランデーを傾けながら優雅に談笑している。
だが、我々観客は知っている。この完璧に見える王国の終わりを。
機関室では黒く塗れた作業員たちが猛烈な熱気の中で石炭をくべ、上層のデッキでは設計者のトマス・アンドリューズ(マイケル・グッドリフ)が、未だに設計図を抱えて「どこかに欠陥はないか」と血まなこになってチェックを続けている。この「結末を知っている観客」に対する皮肉とサスペンスの演出が絶品なのだ。
そして運命の瞬間が訪れる。
暗闇の中、「前方直前に氷山!」の叫び声。航海士の顎の筋肉がギュッと収縮するカットから、一等食堂でカードゲームに興じる客のグラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 がかすかにカチャンと揺れるカットへの鮮烈な編集。「おや、お酒をこぼしてしまったな」程度の小揺れ。廊下に少しずつ浸入してくる水。デッキに転がり込んだ氷山のかけらを、まるでサッカーボールのように蹴って遊ぶ船員たち。この時点では、誰一人として自分が死の淵に立たされていることなど気づいていない。
しかし、設計者アンドリューズが浸水状況を計算し、絶望的な面持ちでスミス船長(ローレンス・ネイソミス)に告げる。「あと2時間で、この船は完全に沈みます」。
ここからの展開の緊迫感と人間ドラマの濃密さは、まさに映画芸術の極致である。 スミス船長と航海士たちは、救命ボートの数が乗客全員分には遠く及ばないという致命的な真実を隠しながら、乗客たちを安全に脱出させようと試みる。しかし、あまりにも豪華で、あまりにも巨大なタイタニック号が沈むなどと誰も信じられない乗客たちは、「こんな寒い夜にボートに乗るなんて冗談じゃない」「救命胴衣を着るなんて着付けが崩れて不便だ」と愚痴をこぼす始末。
この極限状態における人間模様の描写が、とにかく笑ってしまうほどリアルで、そして泣ける。
たとえば、ロビー・ルーカスという一等の紳士(ジョン・メリヴェール)。彼は状況の深刻さを察するや、完璧な英国紳士的冷静さ(ポーカーフェイス)を保ちながら、妻のリス(後にジェームズ・ボンド映画『ゴールドフィンガー』のプッシー・ガロア役や『アベンジャーズ』で一世を風靡するオナー・ブラックマン!)と3人の幼い子供たちをボートに乗せる。「僕は次のボートで行くから、向こうで会おう」と嘘の安心を与えながら家族と別れるその姿は、観ているこちらの胸をえぐるように締め付ける。
一方で、救命ボートに乗り込んだアメリカ人の成金大富豪モリー・ブラウン(タッカー・マグワイア)は、まるで野球の試合の応援でもするかのように威勢よく避難者を励まし、ちょっとしたコメディリリーフとして画面を和ませる。また、混乱の中で自分の身を守るためにキャビンに閉じこもり、ひたすら酒をあおってベロベロに酔っ払う船の調理師(ジョージ・ローズ)。しかし笑えることに、史実通りこの男は全身にアルコールをみなぎらせていたおかげで極寒の海に放り出されても凍死せず生還してしまうのだから人生はわからない!
さらに、悲劇の深度をさらに深めるのが、周辺の船たちの対比描写である。 タイタニックから出されたSOS信号を真っ先にキャッチしたRMSカルパチア号のアロイス・ロストロン船長(アンソニー・バシェル)は、自船の機関の限界を超えた全速力で現場へと急行する。乗組員総出で温かいスープを用意し、医療体制を整え、氷山が漂う危険な海域を爆走するその男気とプロフェッショナリズムには思わず全米が(いや全英が)泣いた。しかし、フルスピードを出しても現場到着までには4時間。タイタニックの命数はそれより遥かに短い。
そして怒りを禁じ得ないのが、目と鼻の先(わずか10マイルほど)に停泊していたカリフォルニアン号の対応だ。無線技師が寝てしまっていたことや、夜空に打ち上げられる救援ロケット花火を「ただのパーティーの合図だろう」と大着して見過ごした怠慢。すぐ近くに助けられる命があったにもかかわらず、手遅れになるまで何も出来なかったという人間の愚かさと悲劇の偶然が、容赦なく描かれていく。
そして、タイタニック号の映画化において絶対に避けて通れないのが、三等客室の過酷な運命である。 富裕層が優雅にボートへと案内される裏で、鍵をかけられた柵の向こうに閉じ込められる労働者階級や移民たち。彼らは生き残るチャンスすら奪われそうになりながらも、ボートを目指して決死のダッシュを試みる。その途中で彼らの足を止めさせたのは、敵意でも障害物でもなく、初めて目にした一等食堂の眩いばかりの豪華絢爛な装飾であったという描写の残酷さ! 息をのむ美しさに一瞬立ち尽くす貧しき人々。この短くも強烈なシーンに込められた階級社会への批評性は、どんな思想書よりも饒舌だ。
映画が終盤に向かうにつれ、画面はゆるやかに、しかし確実に斜めに傾いていく。 特撮技術に関して言えば、さすがに21世紀の最新CGを見慣れた現代人の目には、ミニチュア撮影の粗が見えるかもしれない。それもそのはず、本作で使用されたタイタニック号のミニチュアショットのいくつかは、なんと第二次世界大戦中にジョセフ・ゲッベルス率いるナチス・ドイツの宣伝省が作らせた反英プロパガンダ映画『タイタニック』(1943年)からフッテージを流用したものなのだから驚きだ! ナチスのプロパガンダフィルムをリサイクルして英国映画の最高傑作を作るという、この映画的アイロニーと図々しさには思わず笑ってしまう。
だが、そんな特撮の古臭さなどどうでもよくなるほど、セットのリアリティと演技の熱量が凄まじい。 実際に傾斜するように作られた豪華なセットからは、機械仕掛けの凄まじい軋み音が響き渡ったが、監督はそのリアルな悲鳴のような金属音をそのまま映画の音響として採用した。Geoffrey Unsworth(後に『2001年宇宙の旅』や『スーパーマン』を手掛ける撮影監督の巨匠!)が捉えるモノクロの陰影は、死の冷気と沈みゆく巨船の重圧を完璧にスクリーンに刻み込んでいる。
船がいよいよ最期の時を迎える時、そこにあるのはハリウッド的なド派手なアクションではなく、静かなる人間の尊厳と狂気である。
「自分だけ助かればいい」と逃げ惑う男が、極限状態の中でふと足を止め、立ちすくむ女性に手を差し伸べる一瞬の躊躇。 身寄りもなさそうな迷子の幼子を優しく抱き上げ、静かに死を待つ老人の姿。 ギャンブラーが土壇場で救命ボートに潜り込もうと一目散に知恵を絞るコメディ的哀愁。 そして、誰もが知るあの名シーン——「近き値よ、汝に近づかん(Nearer, My God, to Thee)」を演奏し続ける音楽家たち。最初はバイオリニストがたった一人で、暗闇のデッキで孤独に弦を奏で始める。すると、逃げ惑う群衆の喧騒の中、一人また一人と他の演奏家たちが彼のもとへと戻り、最後の一曲を奏で合唱するのだ。この漆黒の海に響き渡る哀歌と、逃げ遅れた乗客たちの断末魔の叫びのコントラストは、観る者の精神を激しく揺さぶる。
船体が完全に水没し、冷たい海の上に静寂が訪れる。救命ボートの上で震える生存者たち。その中で、一頭のピッグ(豚)の形をしたオルゴールが寂しくちいさな音色を奏でるロングショットから、救助に駆けつけるカルパチア号へのディゾルブ(溶転)。「人間としてできる限りのことはすべてやった」という哀切極まるセリフとともに物語は幕を閉じる。
ところで、本作は映画ファン、特にスパイ映画やアクション映画のオタクにとってもたまらない「宝探し」のような作品でもある。 今観返すと、本作のキャスト陣の豪華さ(そして後の出世ぶり)には目を見張るものがある。先述のオナー・ブラックマンに加え、『ナポレオン・ソロ』のイリヤ・クリヤキン役で一世を風靡するデヴィッド・ナポレオン……ではなくデヴィッド・マッカラムが若き無線技師として出演しているほか、なんとジェームズ・ボンド『007』シリーズで秘密兵器開発担当の「Q」を演じることになる俳優が、この1本の映画の中に複数名も隠れているのだ! 秘密兵器を渡す前のQが、タイタニックの沈没現場で必死に無線を打ったりボートを押したりしている姿を探すだけでも、映画ファンならご飯が何杯でも食べられるだろう。
1958年の公開当時、本作は本国イギリスで大ヒットを記録し、批評家からも絶賛の嵐を浴びた。しかしアメリカでは、英国的な抑えの効いたリアリズムと、アメリカ人乗客(モリー・ブラウンなど)があまり格好良く描かれていなかったことが災いしてか、爆発的な興行収入とまではいかなかった。そのため、一時期はフィルムの状態が悪化した粗悪なプリントが回遊する不遇の時代もあったが、現在はクライテリオン・コレクション等によって美しく修復され、映画史上の至高の名作として世界中で正当に評価されている。
ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』が「最新技術とラブロマンスで観客を圧倒するテーマパークのアトラクション」であるとするならば、ロイ・ウォード・ベイカーの『SOSタイタニック/忘れえぬ夜』は「人間の尊厳、愚かさ、勇気、そして運命の不可逆性を描いた、一品の極上ドキュメンタリー・ドラマ」である。
過度なメロドラマの演出も、安易な悪役の造形もない。ただそこに存在したのは、極限状態に置かれた普通の人々であり、彼らが織りなした数々の小さな選択の集積だった。
もし君が、あの1997年の超大作を観て感動したことがあるなら、あるいは間違えてこの1958年版のビデオを手に取ってしまったなら、どうかそのまま部屋の電気を消し、集中して画面を見つめてほしい。白黒の画面から立ち上る凄まじい熱量と、静かなる人間愛の波に、君の心は間違いなく呑み込まれるはずだ。
キャメロンのロマンス映画も悪くはない。だが、真の映画通が心から愛し、永久に忘れることができない「夜」は、1958年のこのモノクロフィルムの中にこそ、完璧な形で永遠に刻み込まれているのである!