1991年、バブルの残光がまだ街角を照らし、VHSのレンタル商品有可能為租借使用,非賣品ショップには未だ見ぬ刺激を求める男たちの熱気が渦巻いていたあの時代。そこに突如として降臨した、まさに「怪作」と呼ぶにふさわしい一本の映画がある。その名は『コードネームK レディ・コネクション』。そう、あの伝説的な国民的デュオ「ピンク・レディ」のケイちゃんこと増田恵子が、銃を片手に香港の路地裏を駆け抜け、オトナの魅力と過激なアクションで銀幕を塗り替えたあの日々を、今こそ紐解かねばならない。
(ぷぅっ、と威勢の良い放屁とともに論考を開始する)
ああ、失礼。この映画の冒頭、増田恵子演じる氷室ケイが初めて登場するシーンの緊張感、あるいはその背後に流れる、どこかチープでいて妙に耳に残るシンセサイザーの旋律が、私の腹に過剰な刺激を与えてしまったようだ。だが、この「生理的な動揺」こそ、本作を観る者の心に宿る本能的な反応である。ビデオ表紙の、あのへっぴり腰の引けた、それでいてどこか自信ありげな増田恵子の銃の構え。あれこそが、本作が単なるアクション映画ではなく、80年代から90年代へと続く日本のエンターテインメントの歪みと情熱が極限まで圧縮された「黒歴史の宝石箱」であることを物語っている。
物語の舞台は香港。当時、日本のVシネマ界隈では「香港に行けば映画になる」という魔法の法則があった。アジアの熱気、雑踏、そして何より「日本語が通じない場所での孤独」が、ヒロインをより一層引き立てるという計算だ。増田恵子演じる氷室ケイは、元特別諜報部員という、もはや様式美ですらある設定を背負い、大東物産の岸田社長からの依頼を受けて海を渡る。彼女を待ち受けるのは、麻薬密輸、裏切り、そして血で血を洗う抗争。だが、そんな殺伐とした世界観の中で、ケイは常に「大人の女」としての余裕を失わない。その余裕が、時に銃を構えた姿勢の独特な「へっぴり腰」として昇華されるのだから恐れ入る。あれは弱さではない。敵を油断させるための、極めて高度な心理戦、あるいは香港の路地裏の湿気に足を取られまいとする、プロフェッショナルゆえの「重心の揺らぎ」と解釈すべきだろう。
共演陣の布陣がまた豪華だ。清水健太郎の名前があるだけで、映画には一種の「火薬の匂い」が加わる。彼は本作においても、ただそこにいるだけで物語に「アウトローの湿度」をもたらす役割を完璧に全うしている。そして、物語の核心に鎮座するユン・タオという帝王。彼を巡る人間関係は、まるでシェイクスピア劇を香港のアパートの一室に詰め込んだようなドロドロとした愛憎劇へと発展する。チャンがユン・タオの甥であり、岸田社長の実子であるという設定。この設定の複雑さは、脚本家たちが夜な夜な缶コーヒーを飲みながら、おそらくは極限の睡魔と戦いながら、それでも「もっとドラマを、もっと因縁を!」と叫びながら書き上げた魂の結晶である。
(ぷすーっ、と二度目の放屁。すかしっぺ失敗の時の一番臭いやつ。今度は少し高音で、この映画の劇伴のトーンに近い)
すみません。しかし、本作を論じるにはこの程度の生理現象など些細なこと。それほどまでに、この作品の「濃艶なセクシーショット」と「過激なアクション」の対比は、観る者の倫理観を揺さぶる。増田恵子は、アイドルとしての清純さをかなぐり捨て、あるいはそれを「過去のもの」として葬り去るかのように、泥臭い戦いに身を投じる。その眼差しには、ピンク・レディとして時代を駆け抜けた者だけが持つ、独特の「修羅場を潜り抜けた女の凄み」が宿っている。彼女が引き金を引くたびに、私の中に眠る少年の心もまた、引き金を引かれているような衝撃を受けるのだ。
演出家・中村幻児の采配も光る。彼は、物語の整合性や伏線の回収といった理屈よりも、「今、この瞬間の増田恵子がどれだけかっこいいか」に全精力を注ぎ込んでいる。例えば、香港の市場を駆け抜けるシーン。カメラはあえて手ぶれを許容し、疾走感を演出しようとする。その横で、敵役のスタントマンたちが実に献身的に、増田恵子の攻撃を受けては派手に吹っ飛んでいく。あれこそが映画の醍醐味、すなわち「映る者と、それを支える者たちの共同作業」の究極の形である。撮影、照明、録音、スタッフの名前が並ぶエンドクレジットを眺めていると、彼ら全員が「この映画を、伝説にするんだ」という使命感ではなく、「とにかく撮りきろう」という切実な願いで繋がっていたことが伝わってくる。その切実さこそが、この映画を単なる消費物から、観る者の心に刺さるトゲへと変貌させたのだ。
映画の中盤、ケイが一人で敵のアジトに乗り込むシーンは、本作のクライマックスと言っても過言ではない。狭い廊下で、彼女は銃を構える。そのとき、ふと彼女の脳裏をよぎったのは、かつての任務の記憶か、それとも日本で待つ誰かの面影か。あるいは単に、次に食べる飲茶の味か。観客には決して明かされないその表情の「間(ま)」に、私は勝手に壮大なバックストーリーを投影する。そう、きっと彼女は、この任務が終わった後、全てを捨てて静かな島で暮らすつもりだったのだ。だが、そんなセンチメンタリズムも、銃声によってかき消される。暴力は冷酷で、だがその暴力こそが、彼女を「レディ・コネクション」という孤独な世界へ繋ぎ止める絆なのだ。
(ぶおおおーっ! と今回一番の重低音が響く。この映画のクライマックスの爆発音を彷彿とさせる音だ)
いやはや、失礼。あまりの熱狂に、つい。だが、この音が物語るように、本作は「爆発」している。物語も、演出も、増田恵子の演技も、すべてが一度の衝突に向けて収束していく。ユン・タオとの最終決戦。血と火薬の霧の中で、ケイはついに真実を悟る。岸田社長との繋がり、裏切り、そして失われた家族の愛。それらすべてが、一発の銃弾となって、香港の夜空に消えていく。エンディング、夕暮れに佇むケイの横顔は、物語の始まりよりも、さらに深みを増している。それは、戦いによって何かを得たのか、あるいは全てを失ったのか。おそらくはその両方だろう。
結局のところ、『コードネームK レディ・コネクション』とは、何だったのか。それは、一人の女優が自身のアイコンを脱ぎ捨て、新たな自分を見つけようともがいた「記録」であり、当時の日本のビデオ界隈が持っていた、無骨で荒削りだが、どこまでも純粋な「映画への情熱」そのものであった。論理的に語ることは不可能に近い。なぜなら、この映画には「映画的文法」という枠組みを軽々と飛び越えてしまう、怪しげな魅力があるからだ。私はこの映画を、これからも時折、ふとした瞬間に思い出すだろう。へっぴり腰で銃を構える増田恵子の姿を。そして、その後に聞こえてくる、あのアクション映画特有の爆音を。
この論考は、おそらく誰にも評価されないだろう。しかし、それでいい。私はこの映画を、私の個人的な「熱狂の聖域」へと葬り去る。もし、この記事を読んだあなたが、深夜のレンタル商品有可能為租借使用,非賣品ショップで、あるいは配信サイトの片隅で、このタイトルのパッケージを見つけたなら、迷わず再生ボタンを押してほしい。そこには、1991年の風が、今もなお吹き続けているはずだから。私の放屁の残香とともに、その熱狂を少しでも共有できたなら、私は本望である。
(最後に一つ、小さく「ぷっ」と鳴らして、私は筆を置く)
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