◆島津 久治
幕末の薩摩藩家老。島津氏一門・宮之城島津家15代当主。島津久光の次男。薩摩藩最後の藩主である忠義(茂久)の同母弟。史料では諱の久治ではなく、百官名(通称)で島津 図書(しまづ ずしょ)と記される。
天保12年、島津久光の次男として重富館(現鹿児島県姶良市)に誕生する。母は正室の千百子。嘉永5年(1852年)閏4月に島津久宝の養嗣子となることが決定し、同年3月に家督を相続した。また、久宝の娘と結婚する。
文政2年(1855年)に海防総頭取に任命され、薩摩藩の沿岸防衛の要を務める。文久3年(1863年)の薩英戦争勃発に際して実兄の茂久(のちの忠義)の代理として薩摩藩海軍の指揮を執る。元治元年(1864年)、禁門の変でも茂久の代理として皇居警衛総督、同年12月には薩英戦争講和使節代表となり長崎を訪問する。慶応2年(1866年)に家老に任ぜられる。若年でありながら次々と要職を務めたのは、国父・久光の次男で、藩主・茂久の弟という血統がものを言ったものと思われる。
ところがこの頃の薩摩藩内では倒幕派が主流となり、孝明天皇の基本方針に沿った公武合体派の論調をとっていた久治は窮地に立たされることとなる。慶応3年(1867年)には小松帯刀、桂久武らの強硬論に対して、重職では慎重論を唱えただ一人反論した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では私領4番隊を会津藩攻撃に向かわせたものの、久治本人は参加しなかった。これが若手藩士からは「軟弱」行為と映り、川村純義らに藩主の目前で詰問されるという屈辱的な目に遭う。
明治2年(1869年)2月に家老を辞職し、同年8月には私領15750石を藩に返上、代わりに家禄1500石を賜る。以後は国政・藩政にはかかわらず、以前より関心のあった教育事業に参加した。明治4年(1871年)、所領のあった吉野村(現鹿児島市吉野町)に第12郷校が建設された際、建材の提供などを行っている。
明治5年(1872年)正月に急死した。享年32。島津家に伝わる公式系図などでは急病によるとしているが、西郷隆盛から大久保利通に宛てた当時の書簡では「ピストル自殺」と明言されている。家老辞職の頃より孤立感から気鬱となっており、父・久光も「気遣っていたが手遅れとなった」とある。幕末の勝者側の、それも藩主の一門としてはあまりにも哀れな最期であった。墓所は歴代宮之城家墓所である宗功寺ではなく鹿児島市の天神山墓地に設けられたが、戦後になって子孫の手により歴代宮之城家墓所に移転した。
あとには前年生まれたばかりの長男・長丸と未亡人が残された。長丸は長じて叔父・珍彦の娘である治子と結婚、明治30年(1897年)3月に男爵となり、華族に列した。
大正5年(1916年)、従四位を追贈された[1]。
◆島津 珍彦
幕末の薩摩藩士。明治期の日本の政治家、華族[2]。侍従、貴族院議員。位階・勲等・爵位は従三位勲三等男爵。
鹿児島城下(鹿児島県鹿児島市)春日小路町の邸で生まれる[3]。島津久光の四男。母は正室の千百子。最後の薩摩藩主・島津茂久(忠義)の同母弟にあたる。名(諱)は紀寛→忠鑑→珍彦、通称は敬四郎→又次郎→周防→常陸→備後と変遷した。名の珍彦は記紀神話に登場する神・椎根津彦の別名である。
父の久光が島津宗家(薩摩藩主家)へ復帰したことに伴い、大隅重富を領有し、重富島津家を相続、忠鑑(ただあき)と名乗った。のち珍彦に改名した。元治元年(1864年)の禁門の変をはじめとして、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い及び箱館戦争に従軍した。のちに照国神社宮司や鹿児島県立中学造士館館長を歴任。
1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[4]、1897年(明治30年)7月10日、貴族院男爵議員に選出された[5][6]。1910年(明治43年)、糖尿病で没す。麻布三河台の本邸で死去[3]。
1889年(明治22年)3月2日 - 男爵[7]
1889年(明治22年)3月5日 - 従五位[8]
1891年(明治24年)12月14日 - 木杯一個[9]
1893年(明治26年)12月4日 - 木杯一個[10]
1895年(明治28年)6月29日 - 正五位[11]
1896年(明治29年)
3月29日 - 銀盃一組[12]
10月10日 - 従四位[13]
1899年(明治32年)9月26日 - 木杯一個[14]
1902年(明治35年)6月20日 - 正四位[15]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[16]
1909年(明治42年)5月4日 - 木杯一組[17]
1910年(明治43年)6月16日 - 従三位勲三等瑞宝章[18]
妻は、伯父の薩摩藩主島津斉彬の四女・典子(のりこ)。2男3女がある[1]。
長女:明子(1869年 - 1958年) - 島津久寛に嫁ぎ、離縁となったのち島津雄五郎(珍彦の弟・島津忠欽の長男)に再嫁した。子に島津忠夫、大谷文子。長男・忠夫は早世した父に代わって祖父・忠欽の男爵位を継ぎ、玉里島津家分家の2代当主となり、妻に日置島津家15代当主・島津繁麿の妹・せつを迎えた[19]。娘・文子は大谷瑩韶(伯爵大谷光瑩庶子)の妻となった[19]。
長男:壮之助(そうのすけ、1871年 - 1925年) - 重富家の家督と男爵位を継ぐ。壮之助の最初の妻・鶴は島津雄五郎の妹である。子に長男・島津忠彦、次男・加藤久幹ら。
次女:治子(1878年 - 1970年) - 男爵島津長丸(宮之城島津家当主)の妻となり、昭和初期に皇后宮女官長を務めた。
なお、島津久寛・雄五郎・長丸はいずれも珍彦の甥、鶴は姪にあたり、久光から3代続けてのいとこ婚である。
次男:久雄(大村純久、1885年 - 1917年) - 男爵大村武純(元大村藩主・大村純顕の三男、また伯爵大村純英の実父)の養子。
三女:孝子(1888年 - 1975年) - 三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太に嫁いだ。そのため、島津家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係で結ばれている。