熊井啓が1980年に世に解き放った『天平の甍』は、日本映画史の地平に巨大な隕石のごとく落下し、その強烈な熱量と圧倒的な存在感によって周囲の風景を永遠に変貌させてしまった巨篇である。日中国交正常化直後という歴史的な過渡期において、幾多の政治的・物理的困難を乗り越えて敢行された初の大規模中国ロケ、そして依田義賢の剛毅かつ濃密な脚本、姫田真佐久の過剰なまでに重厚なカメラワーク、さらに主演の中村嘉葎雄をはじめとする名優たちの魂を削るような熱演——これら全てが奇蹟的な力学で噛み合い、歴史映画という枠組みを軽々と踏み越えた至高の人間ドラマを創り出した。井上靖の原作が持つ淡々としながらも深い抒情性を、熊井啓という泥臭くも高潔なリアリストの眼差しを通すことで、スクリーン上には生の躍動と死の匂いが渦巻く壮絶な物質性が立ち現れている。この作品が提示する凄まじい衝撃は、四十年以上の歳月を経た現在であっても少しも減衰することなく、むしろ混迷を極める現代のわれわれの胸に鋭い刃のように突き刺さる。
物語は天平五年、第九次遣唐使船に乗って広大な黄土の大地へと渡った四人の若き日本人留学僧——普照、栄叡、玄朗、戒融の姿を追う。彼らに課せられた使命は、未だ戒律の定まらぬ日本の仏教界に真の教えをもたらすべく、正統な戒師となる高僧を唐の地から日本へ招致することであった。生きて再び母国の土を踏む保証などどこにもない死と隣り合わせの航海を経て、彼らは栄華を極める唐の都・洛陽、長安へと足を踏み入れ、そこで世界の中心たる大帝国の圧倒的な文化的質量と、途方もない年月、そして容赦のない運命の悪戯に直面することとなる。
熊井啓の演出は、唐という国家の威容を提示する際、あえて豪華絢爛な装飾や美しい絵の具の色彩だけに依存しない。むしろ画面を支配するのは、見渡す限りの地平線を押し潰すような泥煙、乾燥した風が吹き荒れる広大な黄土、そしてそこに生きる人間の体臭である。姫田真佐久のカメラが捉える中国大陸の風景は、観光的な美しい絵葉書などではなく、荒々しく猛烈な自然そのものの威圧感に満ちている。画面の奥深くまでピントを合わせた重厚なディテール、荒い粒子の陰影、太陽の熱線が直接レンズを灼くような強烈な明暗のコントラスト。スクリーンから匂い立つのは、唐の宮廷の煌びやかさではなく、人々の汗と埃、そして途方もない距離の重圧である。この圧倒的な視覚的迫力こそが、観客を千数百年前の異国の地へと引きずり込み、若き僧たちが直面した途方もない絶望と孤独を体感させるのだ。
画面の端々に配された群衆の動き、動物たちの嘶き、バザールの喧噪、古びた寺院の湿り気。そのすべてが徹底された時代考証のもと、圧倒的な物質的リアリティをもって構築されている。熊井啓のカメラは、主人公たちの顔面に迫るだけでなく、彼らを取り巻く圧倒的な環境としての唐の広大さを逃さず捉え続ける。地平線の彼方まで続く黄土の道を進む小さな点のような僧たちの姿。そのロングショット一発で、観客は人間がいかに小さく、同時にその小さな身体にどれほどの途方もない意志を宿し得るかという二重の感覚に打ちのめされる。長安の巨大な城壁を見あげる僧たちの佇まいには、異文化の巨大な壁の前に立ち尽くす無力感と、それでも前へ進まざるを得ない若者たちの切壮な覚悟が同居している。
普照を演じた中村嘉葎雄の存在感は特別である。彼の鋭い眼光と、抑圧された感情の深層で静かに揺らめく情念の焔は、映画全体にブレることのない一本の太い背骨を与えている。普照は決して超人的なヒーローでもなければ、完成された聖人でもない。故郷に残してきた許婚・平郡郎女への断ち切りがたい愛着と未練を胸の奥底に秘めながら、己に課せられた国家的な使命という重圧に押し潰されそうになり、苦悩し、葛藤する一人の生身の青年である。中村嘉葎雄は、セリフの行間やふとした沈黙の所作、ただ風を見つめるその横顔の陰影によって、言葉にならない孤独を力強く表現してみせる。彼が唐の大地で直面する苦難の数々——志をともにした仲間の脱落や死、そして幾度となく繰り返される渡日の失敗——を受け止める中で、その表情から若さの青臭さが削ぎ落とされ、やがて悟りと諦念が入り混じった冷徹なまでの静寂を宿していく過程は、震えるほどの気品と悲壮感を漂わせている。
その普照と対極の軌跡を描くのが、大門正明演じる栄叡である。栄叡は情熱の塊であり、鑑真和上を日本へ招聘するという使命に対して、己の命の全てを賭して突き進む男だ。彼の瞳に宿る純粋すぎる焔は、眩しい輝きを放つと同時に、自らの生命を内側から焼き尽くしていく。渡日の計画が秘密裏に進められる中で、当局の監視や密告によって計画が破綻し、密出国の主謀者として捕らえられ投獄される試練に見舞われても、彼の執念が衰えることはない。大門正明の熱演は、狂気すら感じさせるほどの純粋さを画面に焼き付ける。病に侵され、肉体が衰弱し、息も絶え絶えになりながらも、なお日本への海を鋭く見つめ続ける栄叡の姿。広東の熱病に侵され、南方の地で無念の死を遂げるその最期の瞬間まで、彼は熱き志そのものであった。彼の命の燃焼と死は、悲劇的な哀惜の残響とともに普照の内に宿る静寂の焔へと継承されていく。
さらに、草野大悟が演じた戒融という存在も決して忘れてはならない。正統な戒律の招致という組織的な使命に縛られる他の僧たちとは異なり、戒融は仏陀の生の真理を体感すべく、一人組織を離れ、広大な唐の大地の奥深かくと姿を消していく。国家や制度という枠組みから滑り落ち、流浪の民となって西域の砂漠や見知らぬ村々を放浪する戒融のあり様は、一見すると脱落や挫折のように見えながら、実は誰よりも深く仏教の根源的な真理に触れようとする魂の叫びでもある。草野大悟の泥臭くも飄々とした風貌と、底知れぬ凄みを秘めた眼光は、この流浪の僧に不思議なリアリティを与えている。広大な天山山脈の足元で、あるいは乾燥したタクラマカン砂漠の風の中で、戒融は何を見つめ、何を祈っていたのか。彼の存在は、国家や集団の目的とは異なる次元で紡がれる個の精神の壮大な探求の表徴となっている。
そして浜田光夫が演じた玄朗の、人間の弱さと生への執着を剥き出しにした苦悩もまた、この重厚な人間ドラマにおいて極めて重要な色彩を添えている。唐の文化に呑み込まれ、夢に敗れ、異国の女性と結ばれて俗世の幸福の中に逃避していく玄朗の姿は、理想に殉じることができなかった持たざる者の哀哀たる肖像であり、われわれ観客の多くが自身を投影せざるを得ない等身大の人間臭さを湛えている。玄朗の選択を誰が責めることができるだろうか。遠い母国への望郷の念に身を裂かれながらも、現実の生存と目前の温もりにすがりついた玄朗の弱さこそ、人間の最も切実で愛おしい本質の一端を照らし出している。四人がそれぞれ歩んだ道——意志を耐え抜いた普照、命を燃やし尽くした栄叡、荒野に消えた戒融、俗世に生き直した玄朗——この四者四様の生き様が多面的なモザイク画のように組み合わさることで、映画は天平という時代の群像劇として途方もない深みを獲得する。
映画において強烈な磁場を放っているのが、写経に生涯を捧げる老僧・業行を演じた井川比佐志の圧倒的な佇まいである。薄暗い部屋にこもり、無数の経典をただひたすら一つ一つ手作業で写し続ける業行。彼の存在は、文化的・宗教的成果というものが、華々しい才能や歴史的名声の陰に隠れた、名もなき無数の人間の血の滲むような執念の積み重ねによってのみ打ち立てられるという冷酷な真実を暴き出している。業行の顔に刻まれた無数のシワ、かすれた声、墨で黒く汚れた指先。井川比佐志が体現する業行の姿は、執着を超越した一種の鬼気迫る美しさを漂わせている。彼にとって写経とは単なる作業ではなく、息を吸い、吐くことと同義の生の証明であり、命を墨に変換する儀式であった。
彼が長年かけて命を削り書き写した無数の経典が、海上で荒れ狂う暴風雨によって波間に呑み込まれ、永遠に失われていくシーケンスの絶望感と無常感は、観客の肺腑を深くえぐる。木箱に詰められた膨大な経典が、荒れ狂う黒い波に洗われ、沈み、解体され、海中に墨の黒い雲が広がっていく。何十年という人生の全精力を傾けた仕事が一瞬にして泡と消える非情さ。その瞬間の井川比佐志の叫び、天を仰ぐ絶望の表情は、全編を通じて最も残酷でありながらも、最も崇高な瞬間として脳裏に焼き付く。しかし、その虚無の先にある何ものかを描き出す熊井啓の演出は、救いのない悲劇の向こう側に至高の精神的気高さを浮き彫りにする。失われた経典は形としては消え去ったが、それを写し続けた業行という人間の命の純粋な燃焼そのものが、映画の空間に永遠の聖痕として刻みつけられているのだ。
この壮大な人間模様の頂点に聳え立つ巨木のごとき存在が、田村高廣が演じる鑑真和上である。田村高廣の演技は、もはや演技という次元を超え、高僧の霊性と慈悲、そして鋼のごとき意志をそのまま宿した圧倒的な神々しさを放っている。日本の若き僧たちの必死の願情を受け止め、「諸法のためにして何ぞ一身を惜しまん」と渡日を決意するその声の響きは、重低音のように観客の鼓膜と心根を揺さぶる。五度におよぶ渡日の失敗、繰り返される捕縛や難破、弟子たちの裏切りや死、そして過酷な旅の果てに両眼の視力を失うという過酷すぎる試練。あらゆる苦難がこれでもかと彼を叩きのめすが、鑑真の決意はかすかに揺らぐことすらない。
両目を失明し、白濁した瞳で果てしない闇を見つめながらも、なお日本という未開の東の島国へと向かおうとする鑑真の姿。田村高廣は、その動じることのない静かな佇まいの中に、マグマのような無限の熱量を漲らせる。視力を失ったことで、かえって彼の内面的な精神の眼が完全に開かれたかのような静謐な神聖さ。彼が静かに発する一言一言は、荒れ狂う海の嵐をも鎮めるような絶対的な重みを持って肉迫してくる。海上の暴風雨、崩れ落ちる船体、悲鳴を上げる船員たちの中で、ただ一人座禅を組み、念仏を唱える鑑真の姿。その動と静の鮮烈なコントラストは、物質的な破壊を超越した精神の勝利を静かに誇示している。六度目の渡海でついに日本の土を踏んだ鑑真が、奈良の平城京に立ち、唐招提寺の建立に至る結末において、我々は言葉を失い、ただただ人間の意志が持ち得る途方もないスケールに平伏するしかない。
熊井啓監督の演出の手腕は、これらの複雑な人間関係と歴史の巨大な奔流を、一切の妥協なしにスクリーンの上に構築してみせた点にある。1970年代末から80年代初頭にかけての映画制作環境において、日中国交正常化から間もない中国本土での撮影を実現させた情熱と執念は、それ自体が作中の鑑真たちの渡日への執念と見事なまでに共鳴し合っている。実際の中国の風景が持つ圧倒的な空気感——太古の昔から変わらないであろう黄河の濁流、静まり返った蘇州の水郷、果てしなく続く砂漠や山脈——これらが偽物のセットでは絶対に生み出せない極限のリアルを映像に与えている。
姫田真佐久の卓越したカメラワークは、引きのロングショットによって自然の容ズルいほどの巨大さと人間の矮小さを鮮烈に対比させつつ、寄りのクロースアップにおいては極限状態に置かれた人間の顔面の皮膚の質感、汗の粒、涙の痕までをも冷徹に捉え切る。また、武満徹による音楽の役割も計り知れない。安易なエキゾチシズムや大袈裟なドラマチックさに逃げることなく、東洋的な空間の余白と静寂を際立たせる響きで作品を包み込む。風の音や波の音といった自然の効果音と繊細に溶け合いながら、時折挿入される静謐で美しい旋律は、悠久の歴史の時の流れと、その中で一瞬の火花のように消えていく個々の人間の命の儚さを切なく提示する。
ここで特筆すべきは、本作における時の表現の凄まじさである。普照たちが日本を出発してから、鑑真とともに日本の地に帰還するまでに費やされた年月は、実に二十年という途方もない歳月である。映画という短い時間枠の中で、この二十年という歳月の重みを観客に体感させることは容易ではない。しかし熊井啓は、登場人物たちの顔に刻まれていく苦悩の痕跡、衣類の擦り切れ方、そして繰り返される季節の移り変わりと風景の過酷さを丁寧に堆積させることによって、時間の絶対的な不可逆性と重圧を見事にスクリーン上に結晶させた。
映画の終盤、長年の苦闘の果てに、ようやく日本への帰還を果たした普照が目にする母国の風景の描写は、圧倒的なエモーショナルな力に満ちている。しかし、そこにあるのは無邪気な勝利の悦びや感動のハッピーエンドなどではない。二十年の歳月は、彼が愛した故郷の風景を変貌させ、かつて愛した平郡郎女は別の男の妻となって子供を抱き、愛する母はこの世を去っていた。普照が払い去った犠牲の大きさ、失われたもののあまりの多さ。彼が得たものは、正統な仏教の戒律をもたらすという抽象的で巨大な国家的成果であり、引き換えに彼自身のかけがえのない青春、私的な幸福、そして愛する仲間たちの命の全てが失われたのだ。
この切なくも残酷な対比こそが、本作を圧倒的な完成度へと引き揚げ、普遍的な人間の業と救いのドラマへと昇華させている理由である。普照は帰国後、平城京の光の中で何を感じていたのか。彼が振り向いた視線の先にあったものは、勝利の誇りなどではなく、黄土の塵の中に消えていった栄叡の命であり、海の底に沈んだ業行の経典であり、西域の彼方へと去った戒融の背中であり、失明した鑑真の静かな面影であったはずだ。
熊井啓監督が描いたのは、偉大な歴史的業績の裏側に埋もれた、無数のなせなかった者たち、途中で倒れていった者たちへの深く温かい鎮魂歌である。歴史の教科書には「鑑真和上の来日」というわずか一行の事実しか記されない。しかし、その一行の陰には、名前すら残らなかった無数の人々の汗と血、途方もない孤独、涙、そして無念の死が地層のように積み重なっている。熊井啓はその地層を力強く掘り起こし、そこに生きた人間の生の温度を、熱狂的な情熱をもって現代に蘇らせたのだ。
映画『天平の甍』は、観る者に対して根源的な問いを突きつけて止まない。「あなたは何のために己の人生を賭けることができるのか」「失われること、報われないことの中に、なお残る絶対的な価値とは何か」。効率性や即物的な成果ばかりが求められる現代社会において、二十年という歳月をかけ、命を幾度も捨てながら、ただ一つの精神的な高みを目指して突き進んだ天平の人々の凄烈な生き様は、われわれの軟弱な魂を烈火のごとく打ち叩く。
この映画が持つ爆発的な熱量と重厚な質感は、制作から長き年月が経過した今なお、少しも色褪せることなく燦然と輝き続けている。姫田真佐久のカメラが捉えた重厚な光と影、依田義賢の無駄のない剛健な言葉の力、中村嘉葎雄や田村高廣ら名優たちの魂を振り絞るような演技、そしてそれら全てを統率し、歴史の深淵へと挑んだ熊井啓監督の屈強な志。これらが結晶化した『天平の甍』は、日本映画が到達した一つの極北であり、永遠に語り継がれるべき至高の映像遺産である。その壮大なスクリーンの前で我々が味わうのは、時空を超えて魂が激しく揺さぶられる高揚感であり、人間の精神が持ち得る無限の美しさと気高さに対する深い敬意と感動にほかならない。