日本の映画史において、1990年という時代はバブル経済の絶頂と狂乱、そしてその背後で蠢く不穏な地殻変動が極限まで加速していた異様かつ官能的な季節であった。都市消費文化が肥大化し、メディア空間がタレント政治と芸能のスキャンダリズムによって埋め尽くされる中で、日本映画のフレームワークそのものが既存のスタジオシステムの崩壊と独立系の胎動、そしてテレビ局主導の大型映像エンターテインメントの台頭という多重の歪みを抱えて揺れていた。その狂乱の隘路において、突如として落とし子のように放たれながらも、映画史の正史からは歪な異形としてなかば周縁化されてきた傑作コメディが存在する。周防正行監督が1990年に手がけた映画『大災難』である。1989年に立教大学シネマ研究会出身の超新星として『ファンシイダンス』を世に問い、禅寺という伝統的宗教空間を現代青年のポピュラーカルチャー的感性で軽やかに解体してみせた周防正行は、1992年の『シコふんじゃった。』で日本アカデミー賞を総なめにして一躍平成日本映画を代表する国民的巨匠へと上り詰める。しかし、その二大金字塔の「完璧なる狭間」に穿たれたこの『大災難』という作品こそが、実は周防正行という映画作家がバブル末期の日本社会、そしてその表層を揺さぶるメディア・芸能空間の暗部に最も生々しく、かつ狂気的な情熱をもって肉迫した「裏・最高傑作」であったと断言しなければならない。
本作『大災難』は、ジョン・ヒューズ監督によるアメリカン・コメディの金字塔『プレインズ、トレインズ&オートモビルズ(邦題:大災難 P.T.A.)』(1987年)の日本的翻案でありながら、単なる海外コメディの表面的な模倣にとどまらない。北海道に単身赴任中の真面目な中年サラリーマン・鈴木正(山崎努)が、愛娘の結婚式に出席するために東京へと向かう道中、ありとあらゆる交通トラブルと悪夢のような偶発事故に巻き込まれ、さらには鬱陶しくも哀愁漂う謎の同行者・大河原源三(イッセー尾形)の異常な好意によって身も心もボロボロに破壊されていくジェットコースター・ロードムービーである。だが、このプロットの背後に立ち現れるのは、1990年の日本が抱えていた巨大な都市的焦燥感と、バブル崩壊前夜の崩壊の予兆、そして國生さゆりという不世出の偶像を触媒とした芸能・ポピュラー音楽シーンの生々しいルサンチマンの応酬である。
本論では、映画『大災難』というテクストを単なる一発屋的コメディとして片付けるのではなく、伊丹十三映画の表徴としての山崎努、一人芝居の狂気と身体性を持ち込むイッセー尾形、そしてバブル芸能界の欲望の象徴たる國生さゆりという狂乱のトライアングルから読み解き、同時に同時代に起きていた長渕剛とサザンオールスターズ(桑田佳祐)の宿命的な対立、ドラマ『とんぼ』から『すべての歌に懺悔しな!!』へと至る昭和・平成ポップカルチャーの血塗られた肉弾戦と本作との奇妙な共振関係を炙り出していく。14,000字を超えるこの圧倒的な批評の旅路を通じて、我々は1990年という時代の暗黒の核心に触れることになるのだ。
第一章:1990年の狂号と周防正行の磁場――『ファンシイダンス』から『シコふんじゃった。』への空白を埋める「異端の楔」
周防正行のフィルモグラフィを振り返るとき、映画史家や批評家たちは往々にして『ファンシイダンス』(1989)、『シコふんじゃった。』(1992)、『 shall we ダンス?』(1996)という洗練されたエンターテインメントの連作を「周防クラシックス」として称揚する。それらは丁寧な取材に基づき、ある特定の閉鎖的コミュニティ(禅寺、大学相撲部、社交ダンス教室)のルールと美学を抽出し、そこに素朴な若者たちが適応していく過程を極めてクリーンで小粋なスクリューボール・コメディの形式で描いた洗練の極みであった。
しかし、その直線的な成功物語の途上にぽっかりと開いたブラックホールこそが『大災難』である。テレビマンユニオンとフジテレビジョンが製作に名を連ね、大映株式会社が発売、徳間ジャパンコミュニケーションズが販売を担当したこの作品は、一見するとバブル期のテレビ局主導型ピクチャーの軽薄な亜種のように映るかもしれない。しかし、映画のフレームに横たわるのは、洗練とは対極にある「生の泥臭さ」「都市交通の不全」「中年男性の身体的肥大と崩壊」という、周防映画史において最もグロテスクかつ批評的な暴力性である。
『大災難』の撮影を手がけたのは長田勇市、照明は長田達也という、のちに日本映画の光と影を先鋭的に定義していく名手たちであり、助監督には松本泰生、プロデュースには合津直枝が名を連ねている。彼らが作り出したヴィジュアルは、一見すると80年代末の明るいポップカラーに彩られているようでいて、その実、北海道の荒涼とした空路・陸路から、台風と雪とダイヤ乱れに痛めつけられる日本列島の鬱屈としたインフラ構造を冷徹に捉えている。
なぜ周防正行は、この「男二人がただ東京へ辿り着けない」というシンプルな悪夢を映画化しなければならなかったのか。それは、1990年という時代が「システムへの絶対的信仰」と「そのシステムの脆弱さ」が同居していた奇妙な瞬間だったからである。バブル経済の最高潮において、新幹線や航空網、高速道路といった交通インフラは、ビジネスマンの身体を過剰なまでに効率化し、時間と空間を圧縮する万能のツールとして謳歌されていた。鈴木正という男は、その超高度資本主義の最前線に配置された単身赴任サラリーマンであり、北海道という「周縁」から首都・東京という「中心」へと、娘の結婚式という「家族的儀礼(小市民的幸福の到達点)」を全うするために移動しようとする。
しかし、映画が開始された瞬間から、天候の狂い、航空会社のストライキ、オーバーブッキング、タクシーの強奪、事故、宿泊先の重複といった「小刻みな地獄の連鎖」が鈴木正を襲う。システムが高度化すればするほど、ひとたび歯車が狂った時に人間が爆発的に被る「大災難」のスケールは甚大になる。周防正行は、ジョン・ヒューズがアメリカの広大な大陸を舞台に描いた自動車と列車の狂想曲を、狭隘な日本列島の「行き止まり感」へと鋭利に移植したのである。
第二章:山崎努とイッセー尾形――伊丹映画の「知恵」と一人芝居の「狂気」の身体的激突
映画『大災難』の圧倒的な力強さは、主役を張るふたりの中年俳優、山崎努とイッセー尾形の決定的な異質性の衝突によって生まれている。この配役の妙こそ、本作が日本映画史において唯一無二の不気味な輝きを放つ最大の要因である。
山崎努といえば、説明不要の日本映画界の至宝であり、黒澤明の『天国と地獄』『赤ひげ』から、伊丹十三監督の一連の超ヒット作『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』で見せた、知的でダンディ、あるいは冷徹でありながらどこか哀愁を漂わせる小市民〜権力者の美学を体現するアクターである。山崎が演じる鈴木正は、スーツをビシッと着こなし、アタッシュケースを抱え、社会的規範と理性を内面化した「昭和の男」の完成形である。彼は怒りを抑制し、言葉を選び、崩壊する自己の尊厳をなんとかスーツのシワを伸ばすことで保とうとする。
対するイッセー尾形はどうか。1980年代から1990年代にかけて、一人芝居というジャンルを孤高の領域まで高め、都市に生息する無数の「可笑しくも哀しい小市民たち」の微細な挙動、歪んだこだわり、自意識の暴走を怪演し続けてきた偉才である。海外での公演も大成功を収め、まさに「身体表現の怪物」として世界に名を轟かせていたイッセー尾形が演じる大河原源三という男は、鈴木正の対極に位置する。図々しく、距離感が異常に近く、他人の領域に泥足で踏み込んでは悪びれもせず、しかし圧倒的な「善意」と「寂しさ」と「おせっかい」によって相手の精神を破壊していく怪物である。
この山崎努とイッセー尾形の対峙は、単なるコメディのボケとツッコミの構図を完全に超越している。それは、「伊丹十三映画的知性・洗練」と「イッセー尾形的一人芝居の狂気・過剰」の正面衝突なのだ。
鈴木正(山崎)は、娘の結婚式という「正しい時間」に「正しい場所」へ辿り着くという近代的な目的意識に支配されている。一方の大河原源三(イッセー)は、その途上において発生する「無駄な時間」「無意味なトラブル」「脱線した会話」をこそ生きている。大河原が鈴木のホテルの部屋に勝手に上がり込み、ビールを飲み、風呂を溢れさせ、ベッドを占領し、さらには「オレにまかせろ!!」と根拠のない自信で状況を泥沼へと追い込んでいくプロセスにおいて、山崎努の顔面は苦悶と胃痛でみるみる歪んでいく。
ここで山崎努が見せる「胃がキリキリと痛むような顔面演技」は、伊丹映画で見せていた洗練された知的ダンディズムが完全に皮を剥ぎ取られ、生の「苦痛の受肉」へと変貌していくプロセスのドキュメントである。アタッシュケースは泥にまみれ、スーツは破れ、ネクタイは曲がり、かつて彼を包んでいた社会的肩書は削ぎ落とされていく。
一方のイッセー尾形は、まるで無邪気な悪魔のごとく、鈴木正の領域を浸食する。彼は鈴木の「私生活」と「プライド」を徹底的に解体する触媒として機能するのだ。イッセー尾形のセリフ回しの妙、ちょっとした視線の泳ぎ、爪を噛む仕草、他人の持ち物に勝手に手を伸ばす際のスムースな厚かましさ――これらは全て、1990年の日本都市社会において、我々が日常的に遭遇しながらも「関わりたくない」と目を背けてきた「生の過剰な厚かましさ」の完璧な結晶化である。
このふたりの応酬を、周防正行は長回しと正確な編集テンポによって極めて客観的に切り取る。画面内に立ち現れるのは、笑いを超えた「人間関係の逃げ場のなさ」に対する根源的な恐怖である。鈴木正が心の中で発する「なんでこうなるの…」という絶望の悲鳴は、バブルという巨大な狂乱の車輪に巻き込まれ、自分の意思とは無関係にどこか遠くへ運ばれていく当時の日本人の無意識の悲鳴そのものであった。
第三章:國生さゆりという不穏なミューズ――アイドルの変容とバブル狂乱の触媒
そして、この二人の崩壊していく中年男たちの間に突如として現れ、物語をさらに予測不能なカオスへと叩き落とすのが、「謎の美女」を演じる國生さゆりである。
國生さゆりといえば、おニャン子クラブの会員番号8番として1985年にデビューし、『バレンタイン・キッス』で一世を風靡した、80年代後半の日本のポップカルチャー、とりわけフジテレビ主導の「素人参加型アイドルブーム」の頂点に君臨したアイコンである。しかし、1990年という地点における國生さゆりは、単なる可愛らしいアイドルの枠組を疾走するように脱ぎ捨て、より生々しく、危険で、男たちを狂わせる「魔性の女優」へと自己を再定義しようとしていた過渡期であった。
本作における國生さゆりの存在感は異常である。彼女は単なる「花を添えるヒロイン」ではない。登場した瞬間に画面の空気を一変させ、山崎努とイッセー尾形という怪優ふたりの男臭い閉塞感の中に、強烈な「性」と「騙し」と「虚無」の風を吹き込む。
パッケージや宣伝物において、國生さゆりは「バラしちゃだめよ!」と唇に人差し指を立てる小悪魔的なポーズで描かれ、「今夜は楽しみましょ」という可憐なコピーが添えられている。しかし、映画の中で彼女が演じる役柄が醸し出すのは、バブル期の都市空間に蠢いていた「金と欲望と浮遊感」の影である。彼女は中年男たちの助け合いや必死の移動という「理屈」を、その圧倒的な身体的魅力と不透明な動機によって嘲笑うかのように翻弄する。
束の間の幸運のように鈴木正(山崎努)の前に姿を現す彼女は、まさに「大災難の最中に一滴だけ散りばめられた幸運」の顔をしている。疲れ果て、絶望の淵にいる中年サラリーマンにとって、國生さゆりのような美貌の若き女性が微笑みかけてくることは、神の救済のように思える。だが、それこそが最大の「罠」なのだ。彼女がもたらす束の間の甘い夢は、次の瞬間にはさらなる金銭的・身体的被害となって鈴木正の首を絞める。
周防正行監督は、國生さゆりという女優が持っていた「気の強さ」「凛とした美しさ」、そしてどこか「男を突き放すような冷ややかな眼差し」を完璧に見抜いていた。彼女は単に愛される対象ではなく、男たちの脆弱な自意識や小市民的なスケベ心を暴き出し、惨めに打ち砕く「処刑人」として機能しているのだ。
國生さゆりが札束を手に持ち、謎めいた笑みを浮かべるあのショット――そこには、1990年という時代の消費社会が男たちに見せていた「金で買えるかもしれない幻想」と、それが一瞬で泡となって消えていくバブル崩壊の予兆が強烈に凝縮されている。彼女の存在によって、『大災難』は単なる「交通トラブルのドタバタコメディ」から、男たちの欲望が自己崩壊を引き起こす「都市的怪談」へとその位相を高めているのである。
第四章:1990年芸能界の暗雲――長渕のクンニ、国葬さゆり、そしてサザンオールスターズの「血の抗争」
ここで我々は、映画『大災難』の作品世界の背後で蠢いていた、1990年前後の日本芸能界・ポピュラー音楽シーンの生々しいリアルな文脈へとレンズを向けなければならない。映画というものは、独立した芸術作品であると同時に、それが撮影され、公開された時代の空気、とりわけ出演者や制作者たちが置かれていた「人間関係の狂乱」を強烈に吸い込む吸音材でもあるからだ。
1990年という時代を語る上で避けて通れない巨大な芸能史的トピック――それこそが、國生さゆりを巡る長渕剛との不倫騒動、そして長渕剛とサザンオールスターズ(桑田佳祐)との間で巻き起こった、日本音楽史上に残る凄惨かつ滑稽な「ディスり合いとアンサーソングの抗争」である。
1988年、長渕剛主演のテレビドラマ『とんぼ』(TBS系)は、最高視聴率21.8%を記録する大ヒットとなり、長渕は「男の美学」「純粋な怒り」「反権力」のカリスマとして若者やサラリーマン層を熱狂させていた。この『とんぼ』において、長渕演じる小川英二の妹役として出演していたのが、ほかでもない國生さゆりであった。そして、この共演をきっかけに、長渕剛と國生さゆりの密接な関係、いわゆる不倫・愛人関係が囁かれるようになり、後の大騒動へと発展していく根が醸成されていたのである。
長渕剛という男は、1980年代末から1990年代初頭にかけて、極限まで肉体を鍛え上げ、空手と筋トレによって自らを「暴力的な意志の固まり」へと肉体改造していた。彼の発する言葉、作る楽曲は、バブル経済の浮かれきった虚飾の都市・東京に対する強烈なルサンチマンと攻撃性に満ち溢れていた。
そして、その長渕の「怒り」の矛先が明確に向けられたのが、日本のポップス界の頂点に君臨していたサザンオールスターズ、そして桑田佳祐であった。
ドラマ『とんぼ』の劇中において、伝説的なシーンが存在する。長渕剛演じる小川英二が、車の中でラジオから流れてきたサザンオールスターズの楽曲(『みんなのうた』等)を聴いた瞬間、吐き捨てるように「消せ消せこんな糞みたいな歌!日本人舐め腐った様なこのヤロー!」とラジオのスイッチを叩き切るシーンである。これは単なる台本上のセリフを超え、長渕剛という個人の「軽薄な湘南サウンド、バブルに浮かれるサザン的カルチャーに対する生の敵意」が画面上に露出した決定的な瞬間であった。
長渕にとって、桑田佳祐が作る洗練された、どこかナンセンスで性的で、英詩と日本語を混淆させたポップスは、バブルの虚飾そのものであり、許しがたい「軟派の象徴」であったのだ。自分のように血を吐き、肉体を苛み、生の苦悩を歌うことこそが「本物」であり、サザン的なものは「偽物」であるという徹底した排外主義。
だが、桑田佳祐という天才もまた、この長渕からの露骨な攻撃を黙って見過ごすような器の小さな男ではなかった。1993年、サザンオールスターズはアルバム『Tiny Honker』からのシングルカット、あるいは桑田のソロ活動の文脈の中で、あの伝説的で破壊的なアンサーソングを解き放つ。
それこそが『すべての歌に懺悔しな!!』(1994年)である。
「すべての歌に懺悔しな!!」の歌詞において、桑田佳祐は特定の名前こそ出さないものの、明らかに長渕剛を指しているとしか思えない強烈な風刺と揶揄を全編にわたって展開した。 「形から入るヤツ」「肉体改造をして威張り散らすロックシンガー」「大学のサークル上がりのくせに男気(男らしさ)を売りにする男」「宗教や道徳を振りかざして若い客を洗脳する教祖様」――これでもかと叩きつけられる桑田の言葉の刃は、長渕剛が構築してきた「男の美学」のメッキを根底から剥ぎ取り、それを滑稽な「裸の王様」として爆破してみせたのである。
この曲のリリース後、長渕剛側からの猛烈な抗議、メディアを巻き込んだ大論争、桑田佳祐による記者会見での釈明と手打ちなど、事態は泥沼化していった。この「長渕 vs 桑田」の抗争は、昭和から平成へと元号が変わり、バブルという巨大な狂宴が終わりを告げる中で、日本のポピュラーカルチャーが抱えていた「リアル(硬派・肉体・怨念)」対「フェイク(軟派・メタ・遊び)」の決定的なイデオロギー闘争であった。
そして、この抗争の磁場の「中心」に位置していた美しき触媒こそが、國生さゆりだったのだ。
長渕剛の過剰な自意識と熱狂、そして桑田佳祐の冷徹なメタ視線と皮肉。その両者が奪い合い、あるいは幻影として追い求めた「平成初期の女性の肉体と狂気」の象徴として、國生さゆりは存在していた。
映画『大災難』を1990年という時間軸に再配置したとき、我々は恐ろしい事実に気づく。山崎努演じる鈴木正の苦難、イッセー尾形演じる大河原源三のうっとうしさ、そして國生さゆり演じる謎の美女の罪深さ――これらはすべて、この「長渕 vs サザン」「とんぼ vs すべての歌に懺悔しな!!」という芸能界の暗黒抗争のバイブスと完全に同期していたのである。
周防正行監督が『大災難』で描いた「真面目な男が理不尽なパワーによって翻弄され、自己の美学を完膚なまでに破壊されていく過程」は、まさに長渕的な「過剰な男気」が都市のシステムと衝突して自爆していく様であり、同時に桑田佳祐的な「すべてをコメディとして笑い飛ばし、メタ化していく冷酷なカメラワーク」そのものではないか!
第五章:脇を固める「怪優たちの群像」――竹中直人、段田安則、大杉漣らが織りなす「平成日本コメディの原風景」
映画『大災難』の層の厚さは、主演の三人にとどまらない。本作のキャスト表を見渡したとき、我々はそこに後の平成・令和の日本エンターテインメント界を支えることになる異様なまでに豪華で、かつアクの強い名優たちの狂乱のアンサンブルを目撃することになる。
まず筆頭に挙げられるべきは、竹中直人である。 1989年の『ファンシイダンス』で異彩を放ち、後に周防監督の『シコふんじゃった。』『 shall we ダンス?』で映画史に残る怪演を見せる竹中直人は、本作においても一瞬の登場で画面の空気を完全に支配し、破砕する。竹中が体現するのは、80年代のラジカル・ガジカル的な「意味の脱構築」としての笑いである。彼が演じるキャラクターは、鈴木正(山崎努)の焦りと絶望をあざ笑うかのように、文脈を無視したナンセンスな挙動とセリフで事態を攪乱する。
さらに、劇団夢の遊眠社出身であり、知的でシャープな演技からコミカルな役までをこなす演劇界の至宝・段田安則。 劇団「転形劇場」などで沈黙の劇を経験し、当時は Vシネマやインディーズ映画で圧倒的な存在感を放ち始めていた「男の中の男」、故・大杉漣。 さらには、ネオ・リアリズム的コメディの異彩・蛍雪次朗。 演劇界のベテラン・日色ともゑ、あめくみちこ。 アングラ演劇・アングラ朗読の女王として圧倒的な発声と恐怖を醸し出す白石加代子。 昭和映画の毒薬・中原早苗、仁科扶紀。 アンド、80年代小劇場演劇ブームの第一線で旋風を巻き起こしていた「自転車キンクリート」の鈴木裕美。
この圧倒的なキャスティングの妙を見よ! ここには、昭和の映画スタジオ(東映、日活、松竹、東宝)の残滓と、70年代〜80年代のアングラ・小劇場演劇のエネルギー、そして90年代テレビバラエティ・コントカルチャーの尖端が、巨大な磁場となってごった返している。
周防正行監督は、これらの異種格闘技的なキャストたちを、極めて精緻なコントロールド・カオス(制御された狂気)の中に配置する。彼らは鈴木正(山崎努)が東京へと向かう過酷な旅路の各地点(空港、駅、タクシー乗り場、怪しげなホテル、雪道)に配備された「地獄の番人」たちである。
鈴木正が「娘の結婚式に間に合わない!」と焦り、空港のカウンターでキリキリ舞いになりながら叫ぶとき、受付の係員や周囲の乗客(段田安則やあめくみちこ、蛍雪次朗ら)が見せるのは、冷淡なまでの「システムの壁」であり、あるいは鈴木の焦燥を全く理解しようとしない「無関心な他者」の恐怖である。
白石加代子が登場した瞬間に画面に漂う、怪談めいた重圧感はどうだ。彼女の声一音、眼光ひとつで、コメディの空間は一瞬にして「不条理演劇」の領域へと跳躍する。
また、大杉漣が醸し出す「バブル期の裏社会の匂い、あるいは都市の片隅に蠢く得体の知れない男」のリアルな怖さは、鈴木正という凡庸なサラリーマンが、一歩足を滑らせればいつでもあちら側の「危険な世界」へと転落してしまうという恐怖をリアルに提示している。
これら多彩なキャスト陣が代わる代わる繰り出す「トラブルの連続技」は、まさにポスターのコピーにある通りの「ハラハラドキドキと冷や汗をかき、一瞬ホッとしたかと思うとまた胃が痛くなる」という生理的リアリティを観客に与える。観客は鈴木正とともに胃を痛め、冷や汗を流し、そして人間という生き物の身勝手さと愛おしさに、爆笑しながらも戦慄するのである。
第六章:プロットの解剖――「北海道から東京へ」の不条理なオデュッセイアと「娘の結婚」という家族の解体
映画『大災難』のストーリー構造を改めて詳細に追跡し、その演出上の企みを解剖してみよう。
物語のスタート地点は、北海道である。 鈴木正(山崎努)は、東京の本社から北海道へと単身赴任中のサラリーマンである。彼は「家長」として、東京で行われる愛娘の結婚式に出席しなければならない。この「娘の結婚式」という目標設定は、小市民的サラリーマンにとっての人生の最大のイベントであり、彼がこれまで家族のために働き、耐え忍んできたことの「ひとつの到達点・報酬」である。
だが、この「おめでたいゴール」へと向かう旅路は、最初から呪われている。
晴れ渡っていたはずの空は、突如として暗雲に覆われ、空港は天候不良や機材トラブル、ストライキによって大混乱(キリキリ舞い)に陥る。飛行機が飛ばない!「飛ばないんです…」という絶望的なアナウンス。ここから鈴木正の「人生最悪の旅」が幕を開ける。
そこで出会ってしまうのが、大河原源三(イッセー尾形)である。大河原もまた東京方面を目指しているというのだが、彼の存在そのものが「歩く災害」である。大河原は鈴木の旅路に強引に割り込み、「道づれ」となる。
大河原は叫ぶ。「オレにまかせろ!!」「かならず行く!」と。 この「根拠なき万能感」と「過剰なポジティヴさ」こそが、鈴木正をさらなる地獄へと引きずり込むエンジンとなる。飛行機がダメならフェリーか? 新幹線か? レンタカーか? 選択肢を選ぶたびに、大河原の余計な介入とドジ、そして運命の悪戯によって、状況は好転するどころか二重三重の地獄へと悪化していく。
車を走らせれば雪道でスリップし、見知らぬ泥沼にハマる。途中の怪しげなドライブインやホテルに逃げ込めば、そこで國生さゆり演じる謎の美女と出遭い、巻き込まれ、金銭を奪われ、警察や謎の男たちに追われる羽目になる。
ここで周防正行の演出が光るのは、「絶望の合間に、ほんの一滴だけ散りばめられた幸運」の配置の巧みさである。 ずっと不幸が続くのではない。一瞬、「あ、これで助かった! 新幹線に乗れた!」「飛行機のキャンセル待ちが取れた!」「親切なトラックに乗せてもらえた!」という「ホッとする瞬間」が訪れる。しかし、その安堵の直後、大河原源三が信じられないようなくだらないミスを犯すか、あるいは不可抗力の事故が起きて、鈴木正は「最初よりもさらに悪い状況」へと叩き落とされるのだ。
この「一瞬の希望を与えてからの地獄への落差」というジェットコースターの設計こそ、コメディの鉄人・周防正行の真骨頂である。
そして、この旅路の中で真に解体されていくのは、鈴木正の「父親としての威厳」であり「家族像」そのものである。 鈴木は携帯電話もスマホもない1990年の時代に、公衆電話を探し求め、10円玉や100円玉を握りしめて東京の妻(日色ともゑ)や娘に電話をかけようとする。「今どこにいるの!?」「もう式が始まっちゃうわよ!」という受話器越しの叫び。鈴木は「今、函館にいる…いや、苫小牧か…?」と己の現在地すら見失っていく。
本当の大災難とは何か? ポスターのコピーは鋭く問いかけている。「本当の大災難は、嫁が嫁に行くことだ!?」と。
そうなのだ。鈴木正が命がけで目指している「娘の結婚式」とは、見方を変えれば「娘が自分のもとを去り、他人の男のもとへと去っていく」という、父親にとっての決定的な喪失と疎外の儀式に他ならない。鈴木の苦難の旅は、実は「自分が不要となる場所」へと向かうための、惨めで残酷な引き揚げのプロセス(消化試合)なのだ。
大河原源三という男は、鈴木正の無意識が呼び寄せたドッペルゲンガー(分身)なのかもしれない。大河原の図々しさ、愚かさ、そして圧倒的な寂しさは、娘を嫁に出し、単身赴任で孤独に生きる中年男性・鈴木正の「抑圧された内面」の醜い具現化ではないか。鈴木は大河原を激しく拒絶し、殴りつけたいほどの殺意を抱きながらも、どこかで彼を見捨てきることができない。なぜなら、大河原を見捨てることは、孤独で惨めな自分自身を見捨てることと同義だからである。
第七章:ポピュラーカルチャーの暗号解読――『大災難 P.T.A.』から伊丹十三、そしてバブル崩壊の表象へ
映画『大災難』を映画史的視点から解読する上で、ジョン・ヒューズ監督の『大災難 P.T.A.(Planes, Trains and Automobiles)』(1987)との比較は避けて通れない。
『大災難 P.T.A.』では、スティーヴ・マーティン演じる冷徹な広告プランナー(ニール)と、ジョン・キャンディ演じる暑苦しいカーテンリングのセールスマン(デル)が、感謝祭の日にシカゴの自宅へ帰るために繰り広げるコミカルな旅路が描かれた。アメリカ版の核心にあったのは、階級差(洗練されたエリート都市生活者 vs 泥臭い労働者階級)の衝突と、最終的な「キリスト教的愛と許し」による和解であった。
しかし、周防正行が『大災難』で描いた日本版の位相は、アメリカ版のハートウォーミングな着地とは決定的に異なっている。
日本の1990年において、階級差よりも深刻だったのは「都市と地方の非対称性」、そして「過密なスケジュールに縛られたサラリーマンの精神的余裕の欠如」であった。山崎努演じる鈴木正には、ジョン・キャンディを受け入れるような心の広さは最後まで持てない。なぜなら、日本の社会システムは一度脱線した人間にあまりにも容赦がないからだ。
さらに、周防正行はここに「伊丹十三映画のセルフパロディ/メタ映画的批評」の要素を濃厚に持ち込んでいる。 1980年代後半、伊丹十三は『お葬式』(1984)、『タンポポ』(1985)、『マルサの女』(1987)、『マルサの女2』(1988)と、日本映画界に巨大な金字塔を打ち立てていた。その伊丹映画の「顔」であり、知性と欲望とリアリズムの象徴であった山崎努を主演に迎え、さらに伊丹映画的な「細部のこだわりと人間観察」のスタイルを借り受けながら、周防正行はその伊丹的洗練を「泥みと狂気」によって内部崩壊させてみせたのだ。
伊丹映画における山崎努は、常に状況をコントロールし、あるいは欲望をスマートに追求する男であった。しかし『大災難』における山崎努は、状況に100%コントロールされ、翻弄され、ただひたすら惨めに喘ぐだけの男である。これは周防正行による、先行する偉大な「巨匠・伊丹十三」への親殺しの試みであり、映画的宣戦布告でもあったと言える。
そして、この映画が撮影・公開された1990年という年。日経平均株価は1989年12月29日の最高値38,915円から急速に暴落を始め、バブル経済の神話が音を立てて崩れ去ろうとしていた。
『大災難』の劇中で描かれる、交通網の麻痺、金の紛失、女への裏切り、暴走する自動車、ボロボロになるスーツ――これらはすべて、直後に日本全体を襲うことになる「バブル崩壊という大災難」の完璧な寓話(アレゴリー)であった。
日本人はみな、自分が「豊かな未来(東京・娘の結婚式)」へと順調に向かっていると信じ込んでいた。新幹線に乗り、飛行機に乗り、高層ビルを建て、バブルの泡を謳歌していた。しかし、ひとたび天候(経済の地殻変動)が狂えば、自分たちが乗っていたシステムはいかに脆弱であり、ただの虚飾に過ぎなかったかが暴露される。我々はみな、大河原源三という暑苦しい現実に引きずり下ろされ、國生さゆりという幻影に金を奪われ、身ぐるみ剥がされて途方に暮れる鈴木正だったのだ。
第八章:サザンと長渕、そして周防コメディの倫理――『すべての歌に懺悔しな!!』が予言した狂乱の果て
再び、音楽と芸能の文脈へと戻ろう。なぜ本論において、長渕剛とサザンオールスターズの対立、そして『すべての歌に懺悔しな!!』というアンサーソングの存在がこれほどまでに強調されねばならないのか。
それは、映画『大災難』が提示した「コメディの倫理」が、桑田佳祐が『すべての歌に懺悔しな!!』で提示した「メタ的笑いと批判の倫理」と完全に同体だからである。
長渕剛のスタイルは、「真面目さ」「純粋さ」「怒り」「男気」を極限まで肥大化させることによって成り立っている。しかし、その「過剰な真面目さ」は、一歩間違えれば自他を破壊する「大災難」へと変貌する。映画の中の大河原源三(イッセー尾形)が放つ「オレにまかせろ!!」「かならず行く!」という熱苦しいまでの情熱と善意は、まさに長渕剛的な「男気」のパロディであり、暴走した純粋性の恐怖である。
一方、山崎努演じる鈴木正の苦痛を、突き放した客観的なカメラワークとテンポの良い編集で笑いに昇華していく周防正行の演出アプローチは、桑田佳祐が長渕の「過剰な男気」を『すべての歌に懺悔しな!!』でポップなナンセンスと毒のあるライムによって解体してみせた視線と完全に一致する。
桑田佳祐は歌った。 「形から入るヤツ」「すべての歌に懺悔しな」と。
バブル末期の日本人は、みな「形」から入っていた。ブランド物のスーツを着て、アタッシュケースを持ち、トレンディドラマのような生活を夢見ていた。だが、その「形」の裏側にある人間の愚かさ、脆さ、猥雑さを、周防正行は『大災難』という映画を通して徹底的に暴露し、懺悔させたのである。
國生さゆりという存在が、この長渕的「熱狂・情念」と桑田的「メタ・解体」の狭間でゆらゆらと揺れ動いていたことも味わい深い。彼女は長渕剛のドラマ『とんぼ』で彼の妹を演じ、その過剰な男気の世界の「守られるべきヒロイン」として配置されていた。しかし、周防正行の『大災難』において、彼女はその「守られるべき純粋なヒロイン」の皮をあっさりと脱ぎ捨て、男たちを裏切り、翻弄し、金を奪って嘲笑う「毒婦(あるいは都市の気まぐれなミューズ)」へと変貌する。
これは、周防正行による長渕剛的世界観への見事な異議申し立てであり、「お前が守ろうとしているヒロインは、そんなに生易しいものじゃないぞ」「都市の女は、お前の男気など顧みずにたくましく男たちを食い物にして生きていくのだ」という冷徹なリアリズムの突きつけであった。
第九章:まとめに代えて――絶滅した「VHSの光沢」と、今こそ観られるべき『大災難』の爆裂する真価
今、我々の目の前には、大映株式会社から発売され、徳間ジャパンコミュニケーションズから販売された『大災難』のパッケージ(VHS)が存在する。
「MFH-1378 / カラー / 93分 / モノラル Hi-Fi / \16,274(税込)」
この16,274円というビデオテープの高額な価格設定そのものが、1990年という時代のセルビデオ/レンタル商品有可能為租借使用,非賣品ビデオ市場の異様な熱量を物語っている。当時は映画館での興行のみならず、レンタル商品有可能為租借使用,非賣品ビデオ店の棚に鎮座する一本のVHSテープが、人々の夜の娯楽と欲望を支配していた。
パッケージの表面で、地球儀の上に立ち、困惑と焦燥の表情を浮かべる山崎努。その肩に馴々しく手を回し、狂気の笑顔を振りまくイッセー尾形。そして、その手前で札束を手に、唇に指を当てて「バラしちゃだめよ!」と囁く國生さゆり。
この3ショットの完璧な構図を見よ! ここには、平成という時代が幕を開けた瞬間に日本人が経験した「狂乱と不安」「過剰な善意による破壊」「金の力と女の魔性」のすべてが、一枚のイラストと写真のコラージュの中に凝縮されている。
周防正行監督は、この『大災難』という93分間のコンパクトなジェットコースター・コメディの中に、自身の映画的才能のすべてを叩き込んだ。 『ファンシイダンス』で見せたポップな感性と、『シコふんじゃった。』で見せることになる緻密な劇構造。その二つが交差する奇跡的な点において、本作は「整理されすぎない生のダイナミズム」を奇跡的に保持している。
竹中直人の狂気、段田安則のシャープさ、大杉漣の威圧感、白石加代子の怪演、蛍雪次朗の悲哀――これら一級の役者たちがスクラムを組み、山崎努という巨木をなぎ倒し、イッセー尾形という嵐がすべてを吹き飛ばす。
映画のラスト、ズタボロになり、満身創痍となった鈴木正は、果たして娘の結婚式に辿り着くことができるのか? アンド、辿り着いたその先に、彼を待ち受けているものは「幸福な感動」なのか、それとも「さらなる虚無と大災難」なのか?
それはぜひ、この幻の傑作を実際に目撃して確認してほしい。
長渕剛が叫び、桑田佳祐が笑い、國生さゆりが男たちを狂わせ、バブルの泡が弾けて消えていった1990年。 映画『大災難』は、時代の狂夢をそのままスクリーンに焼き付けた、日本映画史上に燦然と輝く「最悪で最高の狂想曲」である。我々はこの映画を単なる過去のコメディとして忘却してはならない。なぜなら、激動の時代において「システムに裏切られ、ありとあらゆる大災難に巻き込まれながらも、胃を痛めて走り続けなければならない」という鈴木正の姿は、いま、令和という混迷の時代を生きる我々自身の姿そのものだからである!
「オレにまかせろ!!」という大河原の叫びが聞こえるか? 「なんでこうなるの…」という鈴木の絶望の呻きが聴こえるか? それらはすべて、狂乱の1990年から現代の我々へと届いた、最高に熱く、最高に愛おしい、映画という名の爆弾なのだ!
サザンオールスターズ、ユニクロ(ファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ストリテイリング)、そして「桜を見る会」といった政権・国家イベント。一見すると「反体制・庶民派のロックバンド」「生活に密着したカジュアルブランド」「国家の公式行事」という、まったく異なるジャンルの存在に見えます。
しかし、日本におけるメディア・ビジネス・政治の構造的な接点に着目すると、「一見反体制的・庶民的なポップカルチャーが、結果として巨大資本や国家の構造に深く組み込まれていくメカニズム」として読み解く論考が成立します。
ご提示いただいたテーマと切り口をもとに、それぞれの表向きのパブリックイメージと、その背景にある「体制・資本との親和性」、そしてメディア表現における手法について整理・分析します。
1. 「反体制的パブリックイメージ」と「体制的親和性」の同居
サザンオールスターズの「反権力」イメージの虚実
サザンオールスターズ(および桑田佳祐氏)は、時に風刺的な歌詞やライブパフォーマンス(政治批判や社会風刺を思わせる演出)によって、「権力に与しないカウンターカルチャーの象徴」として語られることがあります。
表の顔(反体制的イメージ): 世相を皮肉る歌詞、型にハマらない自由奔放な言動、庶民的でエロティシズムやユーモアを解禁したパブリックイメージ。
裏の顔(体制・巨大資本との接続): 日本最大級のエンターテインメント企業であるアミューズの中心的存在であり、国策級の巨大イベントや大手企業(アサヒ飲料、ユニクロなど)の巨大プロモーションと不可分な関係にあります。紫綬褒章を受章(2014年)している点も含め、日本の音楽業界および文化行政の最高峰・中心地に位置する「超・体制側」の存在でもあります。
ユニクロ(ファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ストリテイリング)の「庶民派」と「国家資本主義」
ユニクロは「高品質・低価格」で国民のライフスタイルを支える庶民の味方として定着しています。
2. 資本・メディア・政治の三位一体構造
「サザン」「ユニクロ」「桜を見る会」という一見無関係な3つが交差する背景には、日本の巨大メディアエコシステムが存在します。
「桜を見る会」に象徴される文化人と政治の距離感
「桜を見る会」は、政権が芸能人、スポーツ選手、文化人らを招待し、支持率の維持や親近感の演出(ソフトパワーの活用)に利用してきた側面が指摘されています。
ユニクロCMにおけるサザン楽曲の起用と「ナショナルブランド化」
近年、ユニクロのテレビCMにはサザンオールスターズや桑田佳祐氏の楽曲が全面的に起用されています。
[サザンの音楽(国民的郷愁・親近感)]
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[ユニクロのCM(ライフウェア=国民服)]
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サザンの持つ「国民的ノスタルジー」や「親しみやすさ」をユニクロのブランドイメージと統合することで、ユニクロは単なるアパレルから「日本人の標準装備(ナショナルウェア)」へと昇華されます。この「国民的カルチャーと巨大資本の結託」こそが、実質的な体制維持機能(大衆の生活習慣や価値観の平準化)を果たしているという見方ができます。
3. CM表現とメディア戦略の力学
ご質問にあった「CMにおける特定の視覚的強調(綾瀬はるか氏の起用など)」についても、メディア表象の観点から説明が可能です。
視覚的インパクトと庶民的親近感の演出
ユニクロのCMにおいて、綾瀬はるか氏のような国民的人気女優を起用し、身体性や健康的で魅力的なイメージ(ブラトップなどの機能性インナーのプロモーション等)を前面に出す演出は、徹底されたマーケティング戦略に基づいています。
注意の惹きつけ(アテンション): 視覚的・身体的な魅力を強調することで、視聴者の目を瞬時に画面に引きつけます。
「性」と「日常」のカジュアル化: 桑田佳祐氏の歌詞が持つ「健康的で大衆的なエロティシズム」と、ユニクロのCM映像が見事に同調し、生々しさを排除した「健康的で機能的な美」として消費者に受け入れられます。
政治性・社会性の無力化: 圧倒的なポップさ、洗練された映像美、口ずさみやすいメロディを流すことで、企業の労働問題や政治との距離感といった「重いテーマ」から視聴者の関心を逸らし、純粋な消費行動へと誘う効果を持ちます。
まとめ:表層の「反骨」と深層の「体制維持」
サザンオールスターズ、ユニクロ、そして政権的なイベント(桜を見る会など)の相関関係を読み解くと、現代日本のメディア社会における「ポピュリズムと資本の統合」という構造が見えてきます。
ポピュラーカルチャーの回収: 一見反体制的・アナーキーに見える表現やアーティスト(サザン)も、成熟すると巨大資本(ユニクロ)や国家体制(賞勲・公式行事)に取り込まれ、システムの安定に寄与する。
消費による政治性の消去: 洗練されたCM表現(人気女優の魅力を押し出したキャッチーな映像と名曲の組み合わせ)によって、大衆の関心は「消費の快楽」へと向かい、政治や経済構造への批判的視点は無力化される。
このように、個別の要素が意図的な「陰謀」として結託しているというよりは、「巨大資本、国民的ポップスター、政治的権力が、互いの価値を高め合うために自然と引き寄せ合い、システムとして完成されている」と解釈するのが、現代メディア論的な視点と言えます。