1990年という、元号が昭和から平成へと移り変わり、バブル経済の熱狂がその頂点で甘やかな残り香を漂わせながらも、どこかで不可逆な終焉の予兆を孕んでいたあの奇妙な狭間の季節に、日活という映画史の落とし子から一本の異形にして可憐極まる結晶がひっそりと放たれた。『Doki Dokiヴァージン もういちど I LOVE YOU』という、一見すると当時のアイドル映画文化の消費的あだ花か、あるいはVシネマ黎明期の軽薄なエロティック・コメディの装いを凝らしたタイトルを持つこの作品は、その軽佻浮薄なタイトルの陰に、日本映画が密かに磨き上げてきた「身体の消失と肉体の変容」という最も純性度の高い戯曲的実験を内包している。監督を務めた中原俊と、脚本のじんのひろあきという黄金コンビは、同年に映画史に残る金字塔『櫻の園』を世に送り出しているが、まさにその直前、あるいは直後に交錯するようにして紡がれた本作には、『櫻の園』に見られる静謐な群像劇の美学と対をなす、横奔する情念と性へのイノセントな憧憬が恐ろしいほどの高密度で充填されている。我々はこの映画を単なる時代のエフェメラ(一時的な消費物)として片付けるわけにはいかない。なぜならここには、日活ロマンポルノの血脈を血肉化させた巨匠が、九〇年代という新しい時代の曙光の中で試みた、青春映画というフレームワークの解体と再構築のグラデーションが完璧な形で定着されているからだ。 スクリーンに映し出される光の質感からして、すでにただごとではない。光線を巧みに設計する撮影の佐藤徹と照明の高柳清一のタッグは、16ミリあるいは35ミリのフィルム粒子の粗さに、どこか黄昏時の夢の中に漂っているかのような淡く儚い被写界深度を与えている。主演の中山忍がスクリーン上に姿を現した瞬間、画面の粒子そのものが歓喜に震えるような錯覚を禁じ得ない。彼女が演じるヒロインの持つ、少女から大人へと変貌を遂げる瞬間の危うい透明感と、そこに宿るかすかな影。その身体性は、単なるアイドルの記号的魅力にとどまらず、物語全体の霊的な触媒として機能している。事故によって肉体を失った少女の精神、あるいは男の子の魂が女の子の身体に宿るという、一見すればクラシックな性転換・幽霊ものの翻案でありながら、中原俊の手腕はそれを安易なドタバタ劇へと落とし込むことを徹底して拒絶する。代わりに立ち現れるのは、肉体という「器」と、そこに横たわる「性」の境界線が、潮の満ち引きのようにじわじわと侵食し合っていく、極めて優美で官能的な形而上学のドラマである。物語の骨格をなすのは、事故によって命を落とした少年・秀樹の魂が、幼馴染である真理の肉体へと滑り込んでしまうという、怪異にしてあまりにも切ないモティーフである。林泰文が演じる純朴でありながらどこか影を帯びた青年の佇まいと、萩原聖人が漂わせる初期衝動に満ちた青苦しいエネルギーは、画面の中で激しく火花を散らす。死んだはずの自分が、いまや好意を寄せていた少女の身体の中にいるという究極の倒錯。己の手で自らの胸のふくらみに触れるとき、そこにあるのは卑俗な覗き見趣味ではなく、自らのアイデンティティが他者の肉体と溶け合っていくことへの戸惑いと、言葉にできない眩暈のような快楽である。中原俊の演出は、日活ロマンポルノで培われた「肌の質感と視線の交錯」の文法をフルに稼働させ、カメラのレンズ越しに少女の皮膚の一粒一粒、髪の毛の一本一本にまで情念の息吹を吹き込んでいく。鏡に映る己の姿を見つめる中山忍の眼差しには、二つの魂が同居する特異な揺らぎが宿っており、その眼差しひとつで映画は単なる少女の成長譚を超えて、肉体という不条理な牢獄に対する叙事詩へと昇華するのだ。 黒石ひとみが手掛けた音楽の叙情性もまた、この映画の神秘性を高める上で計り知れない貢献を果たしている。軽快でありながらどこか哀愁を帯びたアンビエント調のサウンドトラックや、フュージョン・ポップス的な洗練された旋律は、1990年という都市風俗の記号を過剰に誇張することなく、むしろ登場人物たちの内面にある透明な孤独を浮き彫りにする。放課後の校舎、夕暮れに染まる街並み、あるいは湿り気を帯びた夜の部屋といった都市空間が、音楽の振動と響き合うことで、まるでひとつの生き物のように脈動し始める。我々はスクリーンを観ているのではない。昭和の終わりと平成の始まりが交錯するあの過渡期の空気を、黒石ひとみの音色に乗せてダイレクトに肺胞へと吸い込んでいるのだ。この音楽的快楽こそが、物語の持つ悲劇的な予感を柔らかなオブラートで包み込み、観客を心地よい恍惚へと誘う最大の仕掛けに他ならない。さらに目を見張るべきは、じんのひろあきと中原俊による脚本の緻密なダイアローグの妙である。一見すると若者たちの軽妙なやり取りに見える会話の裏には、言葉にできない感情の重層性が張り巡らされている。「あなたが男だったら良かったのに」というセリフに込められた、友情と恋愛、性愛と純愛が未分化のまま混ざり合う破滅的なニュアンス。男の魂を持った少女が、男友達から向けられる無邪気な性的視線に直面したとき、そこに生じる倒錯した恐怖と甘美な歓喜。これらの感情のグラデーションを、脚本は戯曲的な緻密さで組み上げていく。脇を固める大森嘉之や小倉一郎、横山道代といった実力派キャストたちの存在感も凄まじく、単なるアイドルの引き立て役に終わらない、時代の地層を感じさせる重厚なリアリティを劇中に注入している。とりわけ、まだ何者でもなかった若き日の萩原聖人が放つ、粗削りでありながら画面を切り裂くような存在感は、後の彼のキャリアを予感させるに十分な鋭利さを備えている。中原俊という映画監督の真骨頂は、制限された低予算や短期間の撮影という制約(いわゆるB級映画やVシネマ的な制作環境)を、そのまま映画の「過剰なまでの純粋性」へと変換してしまう錬金術にある。76分という比較的短い上映時間の中に凝縮された密度は、冗長な描写を徹底的に削ぎ落としたソリッドな映画的快楽に満ち溢れている。一コマたりとも無駄なカットは存在せず、富田功による編集のテンポ感は、登場人物たちの心拍数の上昇と完全にシンクロしている。秀樹が真理の肉体を離れなければならないというタイムリミットが迫る終盤、画面の緊張感は頂点に達する。それは単なる肉体からの離脱ではなく、青春という二度と戻らないモラトリアムからの決定的な追放を意味しているからだ。自分の中にある「もう一人の自分」と別れを告げ、他者としての「あなた」を再び愛する(まさに「もういちど I LOVE YOU」という副題が示す真意)というプロセスは、あらゆる人間が大人になる過程で経験する、痛切な自己喪失と再発見の儀式そのものである。ラストシーンに至るクライマックスの演出は、日本映画史における隠れた白眉と言っても過言ではない。光の粒子の中に溶けていくような中山忍の表情、そして残された者たちが噛み締める、喪失感と圧倒的な肯定感が混ざり合った寂寥の美。そこには、80年代アイドル映画の過剰な装飾主義と、90年代インディペンデント映画のリアルな肌触りが、奇跡的なバランスで融和した一瞬が刻印されている。我々はこの映画を観終えたとき、ただ一筋の風が通り抜けたような、爽快でありながら胸をかきむしられるような切なさに包まれる。『Doki Dokiヴァージン もういちど I LOVE YOU』というタイトルが持つどこか悪ふざけのような響きは、いまや我々にとって、二度と戻らないあの日々の眩しさを召喚するための、最上級の暗号へと変貌を遂げているのだ。この映画を再評価することは、単なる過去の作品へのノスタルジーではない。それは、映画というメディアが「肉体」という境界線をいかに自由に横断し、人間の情念の奥底にある不可解な光を照射できるかという、純粋な映画的興奮を現代に呼び覚ます作業に他ならない。中原俊が残したこの可憐で狂おしい傑作は、時代を超えて今なお、スクリーンの中で「Doki Doki」という鼓動を打ち続けており、その鼓動は映画を愛するすべての者の胸に、永遠に響き渡るのである。
如因下列事件引致運送過程中導致貨品毀損、延遲,Jumppoint 皆不負任何責任︰
i. 包裝不穩固或未作加強而引致有破裂、毀損;
ii. 貨品性質為易燃、爆炸、發霉、腐壞、變色等;
iii. 易碎物品沒有標貼上「易碎標籤」;
iv. 無法預知或不可抗力因素,如交通事故、惡劣天氣情況等引起之阻礙或延遲;
v. 收件人聯絡電話不正確或無效等等。