第一章:光輝たる暗黒時代からの脱却――遅れてきた青年の特権と二・五次元のリマスター
約半世紀前、この地上に生を受けた映画狂たちが直面していた絶望的な飢餓感を、現代の私たちはどれほど正確に追体験できるだろうか。映画『徳川セックス禁止令 色情大名』(1972年、東映)という、日本映画史の最も過激で最も華美な熱帯雨林に咲いた狂気の徒花を巡る環境は、かつて苛烈を極めていた。当時の観客は、本来ならば89分あるはずの本編から、文字通り四肢をもぎ取るかのように強引に30分も切断された、無残なカット編集版しか目撃することを許されなかったのである。それは表現の自由に対する検閲という名の暴力であり、同時に、エロティシズムという人間の根源的な熱量をあらかじめ去勢しようとする社会的な抑圧の表れでもあった。
しかし、時は流れた。かつて幻の名作、あるいは伝説の奇行として好事家の間でしか語られなかった本作は、今やDVDとなり、ストリーミングの電脳空間を縦横無尽に駆け巡り、あろうことか海の向こうの海外レーベルの手によって、本家本元である東映の動きを出し抜く形で「2Kリマスター版」として鮮やかに蘇ったのである。この現状を前にして、狂喜乱舞せずにいられようか! 珍しくもなく、クリック一つで、あるいはディスクをドライブに滑り込ませるだけで手軽に鑑賞できるこの現代の環境は、本当に、心から喜ばしいことだと言わねばならない。半世紀前の観客が、当時の物価で9,800円という大金を叩きつけても決して得られなかった「完全なる真実の姿」を、私たちは自宅のモニターの前で、極めて安価に、そして至高の画質で享受しているのである。これはまさに、歴史の濁流の果てに生み落とされた「遅れてきた青年ゆえの特権」であり、私たちはこの奇跡的な時代に対して、無条件の感謝と狂おしいほどの賛辞を捧げる義務がある。
ああ、なんと素晴らしい時代に私たちは生きているのだろうか! スクリーンの中で蠢く杉本美樹の陶器のような白い肌、サンドラ・ジュリアンの放つ異国情緒豊かな肉体の躍動が、粒立ち豊かな2Kの粒子となって網膜に突き刺さる瞬間、私たちは時間の壁を超越する。映画『徳川セックス禁止令 色情大名』は、1972年の東映ピンク路線(ポルノ路線)を華々しく、そして暴力的なまでの極彩色で彩る、鈴木則文監督の傑作中の傑作である。この作品を初めて全編フルサイズで観たときの衝撃は、今もなお私の胸の奥底で、マグマのように熱く、激しく燃え続けている。
江戸時代という、一見すると堅苦しい封建社会の枠組みを舞台に選びながら、そこへ「性」という人類最古にして最強の喜び、そして最大の狂気を巡る大騒動を投げ込む。笑いとエロス、そして痛烈な風刺の渦で1分1秒を埋め尽くしたこの一本は、単なるエロティック時代劇、あるいは下俗なプログラムピクチャーなどという矮小な枠組みには決して収まらない。それは、人間存在の根源的な欲望の美しさと、それを統制しようとする権力者たちの底知れない愚かさを徹底的に抉り出す、人類普遍の「永遠の古典」なのである。
現代の映画界を見渡してみるがいい。ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)だの、キャンセルカルチャーだの、コンプライアンスだのといった、精神の去勢手術を迫るドグマが跋扈し、表現者たちは委縮し、観客は傷つかないための安全な記号だけを消費している。そんな窮屈で窒息寸前の現代の映画界の顔面に、本作の持つ自由奔放、縦横無尽、そして破天荒なエネルギーを強烈なストレートパンチとしてぶち込んでやりたい! その熱き衝動と、この映画が持つ真の革新性を証明するために、私はここに狂おしいまでの賛辞と、過剰なまでのテキストの暴動を展開するものである。
第二章:処女姫と童貞大名の邂逅――無知の悲喜劇と異国からの福音
物語の核心は、最高権力者である徳川家斉の娘・清姫が、九州の辺境に位置する唐島藩主・小倉忠輝のもとに輿入れするという、あまりにも壮大な政略結婚から幕を開ける。清姫は将軍家の過保護な深窓の令嬢であり、男女の営みなどという卑俗(しかし至高)な現実を露知らずに育った生粋のお姫様である。一方、迎え撃つ藩主・小倉忠輝は、三十路を過ぎてもなお女嫌いをこじらせ、己の肉体の本能を封印し続けてきた稀代の「童貞大名」であった。
この二人が対峙する初夜のシーンを思い返すだけでも、私の脳内には爆笑と愛おしさが混ざり合った奇妙な感情が沸き起こる。豪華絢爛な寝所、重々しい空気の中で、男女の交わりのなんたるかを微塵も理解していない二人が畳の上で繰り広げるぎこちない触れ合い。互いの圧倒的な無知がもたらす致命的なすれ違いは、滑稽でありながらも、どこか人間という生き物の不完全さを象徴しているようで涙ぐましい。現代の洗練された(しかし乾いた)結婚カウンセリングの教科書にそのまま掲載すべきレベルの、生々しくもユーモラスなリアリティがここにはある。家名の存続という重圧と、肉体的な恐怖と困惑が交錯するこの暗黒の寝所に、鈴木則文監督の天才的な演出の導火線が点火されるのだ。
遅々として進まない若き夫婦の夜の営みに危機感を抱いたのは、藩の存続を憂う老獪な家老たちであった。彼らは前代未聞の奇策に打って出る。なんと、長崎の出島を経由して、はるばる海を渡ってきた白人美女サンドラを「輸入」し、彼女の熟練した、そして宇宙的な広がりを持つ「技」によって、若き大名の眠れる本能を目覚めさせようというのだ。
フランスからやってきた女優サンドラ・ジュリアンの妖艶な肢体がスクリーンに映し出されるその瞬間、映画の空気は一変する。日本のジメジメとした封建社会の泥臭さの中に、突如として眩いばかりのラテン的エロティシズムの光線が射し込むのだ。観客はその一瞬で彼女の虜となり、スクリーンに釘付けにされる。フランスの洗練された官能の歴史を背負った異国情緒たっぷりの美女線画が、九州の田舎大名に「天国」の存在を教え込むというこの設定自体が、すでに映画的ジョークの最高峰であり、同時に文化人類学的な衝撃映像でもある。
「おお、こんな世界があったのか!」
サンドラの柔らかな肉体と超絶的な愛の技術によって、それまで堅物であった忠輝の脳内物質が完全に書き換えられた瞬間、彼の目は文字通り歓喜の炎で輝きだす。この名和宏が見せる、童貞の殻を破り捨てた人間の爆発的な歓喜の表情は、私たち現代人が人生のどこかで経験した「初めての恋」や「初めての快楽の発見」の瞬間を、強烈なノスタルジーとともに思い出させてくれる。その姿はどこまでも純粋で、同時にどこまでも貪欲であり、権力者であるはずなのにどこか憎めない、人間味に溢れた愛らしさに満ちているのだ。
しかし、この目覚めこそが、藩全体を巻き込む未曽有のディストピアの幕開けとなるとは、この時の忠輝自身も、そして観客もまだ気づいてはいなかった。
第三章:暴政としての「セックス禁止令」――抑圧のパロディと本能の蜂起
快楽の味を占めた忠輝の行動は、人間の独占欲の極限へと突き進む。彼はサンドラを正式に側室に迎えるだけでなく、その至高の悦びを自分一人だけの特権とし、他者に分け与えたくないという、あまりにも幼稚で独占的な動機から、藩内全域に向けて前代未聞の「セックス禁止令」を発令してしまうのである。こここそが、本作が単なるエロ映画から、人類史に残るハイパー・サタイア(超風刺劇)へと飛躍する真骨頂の瞬間である。
身分の貴賤を問わず、すべての男女の営みを法律によって禁じるというこの暴政は、一見すると荒唐無稽なギャグのようでありながら、実は古今東西の独裁者たちが試みてきた「人間の私的領域への介入」という政治の本質を突いている。性のコントロールこそが究極の民衆支配であるという冷酷な事実を、鈴木則文は極上のコメディとして反転させるのだ。
禁止令が敷かれた唐島藩の様子は、人間の本能がいかに法律や権力よりも強固であるかを証明する壮大な実験場と化す。庶民たちは子作りはおろか、愛を囁き合うことすら罪となり、町は欲求不満のドロドロとしたエネルギーで大混乱に陥る。誇り高き侍たちは、股間の悶々とした熱さに耐えかねて武士道精神を完全に忘れ去り、刀を抜く代わりに腰を浮つかせる。可憐な町娘たちはエネルギーの発散場所を失って狂暴化し、抜け目のない商人たちは密かに「裏の性ビジネス」を立ち上げて暴利を貪る。
監督はここで、性欲という人間の最も根源的な本能を抑圧することの徹底的な愚かさを、爆笑必至のドタバタ劇として描き抜いていく。例えば、夜な夜な行われる禁止令の摘発シーンの滑稽さはどうだ。藪の中で密会している男女を捕まえようと息を潜めて監視していた侍が、月明かりの下で繰り広げられる生の営みを凝視するうちに、自身も理性を失って興奮し、挙句の果てには摘発対象であるはずのその行為に自ら参加しかけるという、最低で最高なオチが飛び出す。
このような、一見すると下品で低俗極まりないギャグが機関銃のように連発されるにもかかわらず、本作には奇妙なほどの哲学的深みと気品すら漂っている。なぜなら、それらの笑いの底流には、「性は一部の権力者や道徳家のおもちゃではなく、名もなきすべての人間に平等に与えられた神聖なる自然の贈り物である」という、揺るぎない人間賛歌のメッセージがビシビシと響いているからだ。抑圧すればするほど、人間の性はより奇妙で、より強力な形で噴出する。その様子を笑うことは、そのまま、人間を型にはめようとするあらゆる権力構造を笑い飛ばすことに繋がっているのである。
第四章:ネオ・リベラリズムと道徳警察への鉄槌――ポリコレ批判の先駆けとしての超克
私は本作を単に「過去の面白いB級映画」として消費することに激しい拒絶を覚える。むしろ、この作品こそが、21世紀の現在において最も必要とされている「ポリコレ批判の先駆け」としての記念碑的役割を果たしていると断言したい。
現代のハリウッド映画や、我が国の地上波ドラマの惨状を見てみるがいい。画面から性的な描写は巧妙に薄められ、登場人物の行動には「多様性」だの「倫理的同意」だのといった記号的なレッスンが義務付けられ、作り手も受け手も、誰も本音で笑えず、誰も真の興奮を得られない去勢された空間が広がっている。言葉の端々に罠が仕掛けられ、表現者は歴史的なコンテクストを無視した道徳警察の監視に怯えている。
だが、今から半世紀以上前に作られた『徳川セックス禁止令 色情大名』は、そんな未来の軟弱な規制など知ったことかとばかりに、すべてのタブーを土足で踏みにじりながら猛スピードで突き進む。フランスから連れてこられたサンドラという白人女性を、「異文化交流」の美しい象徴として堂々とエロスの中央に据え置き、彼女の肉体をカメラは凝視する。さらに、それに対する清姫の剥き出しの嫉妬や、家臣たちの動物的な不満を、何一つオブラートに包むことなくストレートに描写するのだ。
もし、この映画を全く同じプロットと演出で今作ろうとしたならば、一体何が起こるか。公開される前にSNSは大炎上し、「人種差別的ステレオタイプ」「女性の性的搾取」「植民地主義的なオリエンタリズム・ファンタジー」といった、耳障りの良い現代的ラベルを次々と貼り付けられ、映画監督は社会的抹殺の憂き目に遭い、作品は即座に配信停止、あるいはマスターテープの破棄へと追い込まれるだろう。
笑わせるな! と私は声を大にして言いたい。芸術とは本来、社会が勝手に設定した禁忌(タブー)の境界線を突き破り、人間の本質的なドス黒さや美しさを露呈させるために存在するものではなかったか。鈴木則文監督は、性欲を独占し民衆を抑圧する忠輝の姿を愚かな権力者の戯画として描きながら、驚くべきことに、現代の「ネオ性禁止令」――すなわち、過剰なポリコレイズムやリベラルな道徳警察がもたらす、新たな精神的抑圧の時代を完全に予言していたのである。
忠輝の「自分だけ楽しみたい、だからお前たちは我慢しろ」という幼稚な独占欲の構造は、今日の世界において「自分たちは多様性や人権を優雅に謳歌しながら、庶民が楽しむ娯楽や土着的な文化に対しては『不適切』の烙印を押して規制する」現代のエリート層、あるいは文化の特権階級の姿と見事に重なり合う。ポリコレという大義名分の下で、映画から鋭いエッジが削り取られ、古典映画のセリフや描写が次々と改変・抹消される暗黒の令和の時代において、この作品は、かつて日本映画が持っていた「表現の野生」そのものとして、私たちの脳髄に痛烈なカウンターを食らわせてくれるのだ。
第五章:前近代の人権倫理への告発――封建制の闇と抑圧される女性たちの連帯
しかし、熱狂的な賛辞だけでこの映画のすべてを肯定することは、映画批評としての誠実さを欠く行為だろう。私たちは現代の観客としての視座から、作中に描かれる当時の人権倫理やジェンダー観に対して、冷徹かつ苛烈な酷評を下さざるを得ない部分があるのもまた事実である。
江戸時代という前近代のシステムにおいて、女性は家父長制の強固な歯車として機能させられ、実質的に嫁ぎ先の家や男性の所有物のように扱われていた。杉本美樹演じる清姫が、自身の意思とは無関係に政略結婚の道具として九州の僻地へと送り込まれ、夫の気まぐれに運命を翻弄される姿は、現代のジェンダー平等の視点から見れば、到底容認できるものではない。
さらに、忠輝の女嫌いが治った途端、彼を救ったはずの正妻である清姫の存在をなおざりにし、サンドラという新しい「玩具」を側室に据えて溺れるその横暴さは、男尊女卑の極みである。清姫の教育係である藤浪が、毅然とした態度で忠輝の乱行に必死の抗議を試みるシーンは、観る者の胸を激しく打つが、その必死の抵抗も、結局は「男の欲望と権力」が絶対的な上位に位置する社会構造の前には、一時的な水溜まりの波紋のように消し去られていく。この構図には暗憺たる気持ちにさせられる。
「どうせ女に権利などなかった古い時代のお話だ」と、歴史の必然として冷たく切り捨てるのは簡単だ。しかし、そこにこそ、人間社会が抱える根深い暗部がある。性的な欲求や快楽への権利は、本来すべての人間に平等に帰属するはずのものであるのに、権力を持つ者はそれを特権化し、独占しようとする。この映画で描かれる「禁止令の下で性的な表現や行為を奪われ、悶々と苦しむ庶民たちの描写」は、図らずも現代の格差社会における文化資本の偏在や、経済的強者だけが自由を享受し、弱者が規律を強いられる構造を強く想起させるのだ。金持ちは自由に快楽を貪り、貧困層は自己責任の名の下に我慢と労働を強いられる――これは単なる時代劇のフィクションではなく、人類の歴史が形を変えて何度も繰り返してきた、醜悪な現実の変奏曲なのである。
しかし、この映画の真に天才的なところは、そうした社会の重苦しい不条理や人間のドス黒い闇のテーマを、あくまでも軽快でスラップスティックなエロコメディのオブラートで優しく包み込み、観る者に対して「それでも、これを見て笑い飛ばせ!」と力強く促す点にある。理不尽な世界に対する最大のリベンジは、深刻な顔をして絶望することではなく、それを極上の笑いへと昇華させて権威を無力化することなのだ。私はこの作品の人権的未熟さを酷評しつつも、その未熟さの向こう側にある時代を超えた普遍的な人間観察の手腕を、称賛せずにはいられない。
第六章:妄想的脱構築――異文化の衝突、黒船としてのエロス、そして#MeTooの先駆
ここで、映画の行間を読み解くために、私の個人的な妄想と想像力を限界まで膨らませて、テキストの迷宮をさらに深く構築してみよう。
忠輝がサンドラと過ごす、あのめくるめく官能の夜の数々は、単なる男の性欲処理や肉体関係の描写ではない。私にはそれが、幕末を待たずして発生した「東洋と西洋の精神的衝突、およびその官能的融合」の瞬間であると確信できるのだ。サンドラが体現するフランス的な個の自由、肉体の解放という思想が、江戸の堅苦しい朱子学的なしきたりや封建的な規律を、内側からトロトロと溶かしていくそのプロセスは、まさに肉体を通じて行われた「明治維新のゼロ年」とでも呼ぶべき予感を孕んでいる。
彼女が巨大な木箱に詰められ、まるで南蛮渡来の珍しい動物や高級な絹織物のように運ばれてくるという象徴的な設定自体、当時の日本が世界に対して行っていた密貿易の闇と、西洋に対する強烈なエキゾチシズム(異国趣味)の表れである。鈴木則文監督は、この悪趣味とも言えるギミックの裏側に、当時の日本人が抱いていた「西洋の圧倒的な近代文明とエロスに対する憧れと、それによって自分たちのアイデンティティが解体されることへの恐怖」という複雑怪奇な精神力学を、さりげなく、しかし決定的な形で織り込んでいたのではないか。
そして物語の後半、夫の不実と異国の侵略者(サンドラ)に対して、正妻である清姫が教育係の藤浪や腰元たちといった「城内の女性たち」と強固な結束を結び、知略を尽くしてサンドラを追い返そうとする一連のシークエンスは、単なる女の嫉妬劇という枠組みを遥かに超えている。それは、男性中心主義の権力空間の中で抑圧されていた女性たちが、自らの尊厳を守るために立ち上がった「シスターフッド(女性同士の連帯)の美しい萌芽」として捉え直すことができる。
現代の視点で見れば、これは間違いなくハリウッドを発端とする「#MeToo運動」の鮮やかな先駆けであり、女性による主体的抵抗の歴史的瞬間である。しかし、1972年の東映のスクリーンにおいては、それが小難しい政治的スローガンとしてではなく、生々しく、泥臭く、感情的な「嫉妬とプライドのぶつかり合い」として描かれる。だが、それこそが良いのだ! イデオロギーでコーティングされた綺麗な正義ではなく、人間らしい、汚くて、生々しくて、身勝手な感情の爆発こそが、この映画の血管を流れる熱い血潮であり、映画という芸術の生命線そのものなのだから。
第七章:喜劇の職人たち――アンサンブルが奏でる89分の奇跡
本作の映画的魅力の完成度を担保しているのは、鈴木則文の演出力もさることながら、東映黄金期を支えた超一流の俳優陣による、息の合った圧倒的なアンサンブルである。
「セックス禁止令」が施行された後、城下町で繰り広げられる庶民たちの「お上の目を盗むためのセックス隠し」の工夫の数々は、現代におけるインターネットの違法ダウンロード対策や、検閲をかいくぐるための暗号通信の攻防を見ているようで、その時代を超えたユーモアのセンスには脱帽する。侍が「殿のご命令でござる! 色情は厳禁である!」と大真面目な顔で四角四面に叫びながら、その本人が物陰でこっそり町娘の着物の裾をめくって抜け駆けをしようとするその強欲な二面性に、観客は何度観ても腹を抱えて笑うはずだ。
キャスト陣の顔ぶれを見るだけで、邦画ファンの胸は高鳴る。日本映画界の至宝であり、その風貌自体が人間の土着的な業を体現している殿山泰司が演じる米津家老の、苦虫を噛み潰したような渋い表情と、主君の奇行に振り回される中間管理職としての悲哀。三原葉子や城恵美といった、当時のピンク路線を支えた女優たちが演じる町娘たちの、可憐でありながらも性の本能に対してはどこまでもオープンで逞しい姿。そして、登場するだけで画面の空気を映画的な幸福感で満たしてしまう山城新伍の、コミカルで軽妙洒脱な脇役としての狂言回しぶり。
主役の名和宏が見せる演技の振り幅も見事というほかない。威厳に満ちた(しかし中身は空っぽの)大名が、童貞を喪失した瞬間から一気に「性欲魔神」へと変貌していくそのプロセスを、滑稽かつ愛嬌たっぷりに演じきり、観客に嫌悪感を与えるどころか、応援したくなるようなキャラクターに仕立て上げている。そして何より、杉本美樹の清姫である。彼女の持つ圧倒的な気高さと、少女のような可愛らしさの同居。彼女は単なる男社会の被害者としてシクシク泣くようなヒロインではなく、自らの手で運命を切り開き、物語のドタバタを力強くドライブしていく偉大なる原動力としてそこに君臨している。
この奇跡的なキャスト陣のアンサンブルが、90分弱という、現代の映画から見れば極めてタイトな上映時間の中で、1秒の無駄もなく完璧に機能しているのだ。画面の切り替わりのキレ味鋭い編集、演者の肉体の躍動を逃さず捉える躍動的なカメラワーク、そして全編を包み込むジャジーで軽快な音楽――すべてが高い次元で調和し、観客の感情を一切退屈させることなく、至高のエンターテインメントへと昇華させている。
第八章:絶倫将軍の影と社会風刺――歴史のパロディとしての性の政治学
本作が単なるエロティックなファンタジーに留まらないもう一つの理由は、その笑いの背景に、実際の歴史的事実を極めて巧妙にデフォルメした「性の政治学」が横たわっているからである。
徳川幕府の盤石な安定を装いつつも、その内実においては、最高権力者である将軍(ここでは家斉をモデルにしている)の精力絶倫ぶりが、結果として幕府や諸藩の財政・政治を圧迫していくという皮肉な歴史のダイナミズムを、この映画は見事に物語の背景に組み込んでいる。清姫が「将軍家の34番目か54番目かの娘」という、呆れるほどアバウトで膨大な兄弟姉妹の存在を示唆する設定からして、将軍家の肉体的な人口爆発と、それによって地方藩が押し付けられる政略結婚の経済的・政治的狂騒が浮かび上がる仕組みになっているのだ。
忠輝が発令する「セックス禁止令」は、そのような上の世代(将軍家)の過剰なエゴイズムと、それによって閉塞していく封建社会全体に対する、鈴木則文からの痛烈な一撃としてのブラックユーモアなのである。これを現代の社会構造に置き換えてみたらどうなるだろうか。例えば、深刻な少子化問題に直面している現代の政府が、ある日突然、強権を発動して「国民全員に週3回のセックスを義務付ける『セックス推奨令』」を出したら一体どのような地獄絵図が完成するか、という逆説的な思考実験と同義である。
国家や政府といった巨大な権力機構が、個人の最もプライベートで聖なる領域である「ベッドの上」にまで口を出して管理しようとすることの、根源的な馬鹿馬鹿しさと恐怖。本作は、その政治の傲慢さを、大爆笑の渦の中に叩き落として笑い飛ばしてくれる。性の管理は社会の管理であり、そこに対する反逆こそが、真の個人の自由の獲得なのだということを、歴史パロディという極上のエンターテインメントを通じて私たちに教えてくれるのである。
第九章:欲望の管理とディストピアの崩壊――カタルシスとしての性の勝利宣言
さらに深く本作のテキストを掘り下げていくならば、この映画は「欲望の管理と、その管理システムの必然的な崩壊」を描いた、極めて現代的なディストピア寓話であると言える。
忠輝という一個人が快楽の本質を知ったその瞬間から、彼の持つ「権力」は急速に腐敗し、私物化されていく。サンドラとの終わりのない蜜月に溺れ、藩政や民の生活を完全に疎かにしていく彼の姿は、現代の政治家やハリウッドセレブたちが、自らの特権的な地位を利用してスキャンダルや過剰な快楽にふける姿を、見事に予告しているかのようだ。権力は快楽によって盲目になり、民を見捨てていく。
しかし、そうした抑圧と不平等の果てに待ち受けるのは、民衆の「本能の反乱」という必然的な歴史のうねりである。性という最も基本的な生存の喜びを奪われた名もなき人々が、理性を捨て、法律を破り、ただ「愛し合いたい」「交わりたい」という一念で結託し、お上に対して反旗を翻すその姿には、世界史におけるフランス革命や、現代における様々な社会抗議運動の力強い影を見出すことができる。
だが、ここで鈴木則文監督のカメラは、決して冷徹な社会派ドキュメンタリーのような説教臭いトーンには陥らない。映画のラストに向けて、物語はすべての抑圧を吹き飛ばすような、圧倒的で痛快な大団円(カタルシス)へと一直線に突き進んでいく。法律が肉体の熱量に敗北し、禁止令という机上の空論が庶民の強靭な生命力によって粉々に粉砕されるクライマックスシーンは、まさに「性と人間の自由の完全なる勝利宣言」そのものである!
私たちは画面のこちら側で、崩壊していく権力の塔を見上げながら、人間の本能が持つ圧倒的な肯定感に涙し、喝采を叫ぶのだ。どんなに強大な権力をもってしても、人間の生きたい、愛し合いたいという炎を消し去ることはできない。その圧倒的な解放感こそが、本作が半世紀を超えてなお輝き続ける最大の理由である。
第十章:十数回の巡礼を経て――2Kの光の中に蘇る官能と、現代の若者への遺言
私はこの映画を、これまでに少なくとも十数回は繰り返し観返してきた。しかし驚くべきことに、その鑑賞のたびに、画面の端々から常に新しい発見と興奮が湧き出してくるのだ。
現在のデジタル技術がもたらした2Kリマスター版の、圧倒的に鮮明な映像美の恩恵を浴びる時、その感動は頂点に達する。杉本美樹の持つ、まるで発光しているかのような白い肌の質感、サンドラ・ジュリアンが放つ、西洋の彫刻のように完璧で官能的な肉体の曲線が、まるで昨夜撮影されたかのような生々しさで現代に蘇るその喜び。かつて半世紀前の観客たちが、劇場の暗闇の中で、不完全なカット版を見ながら想像力で補うしかなかった「映画の全貌」を、私たちは今、完璧な形で網膜に焼き付けることができる。これはまさに奇跡であり、映画の神様が私たちに与えてくれた最高の贈り物だ。
だからこそ、この「表現の去勢時代」であるポリコレ全盛の現代に生きるすべての人々に、そして何よりも未来を担う若い世代の映画ファンたちに、私はこの作品を烈火のごとく推薦したい。性は、隠すべき恥ずべきものでも、法律や道徳で四角四面に管理すべきものでもない。それは人間が生きていることの最も賑やかな証明であり、大いなる笑いと、狂おしい喜びと、時には社会を大混乱に陥れるほどのトラブルを生み出す、制御不能な「人間の本質」そのものなのだ。
現代の若者たちよ、スマホの小さな画面の中で行われる安全で清潔なコンテンツの消費を今すぐ止め、この映画の画面越しに、忠輝が初めて世界を発見したあの驚異の目覚めを我がことのように共有せよ。清姫の理不尽に対する苛立ちと誇りに心から共感せよ。そして、お上が敷いた「セックス禁止令」という愚劣な法律の馬鹿馬鹿しさに、腹の底から大笑いせよ。
もっと、もっと語るべきことは山ほどある。例えば、禁止令の厳戒態勢下で行われる、深夜の密会シーンでの侍と町娘の丁々発止の駆け引きのセリフ回しは、まるでウィリアム・シェイクスピアの小気味良い喜劇を思わせるような、高度なウィットとユーモアに満ちあふれている。また、お局である藤浪が、自らの知略と城内のネットワークをフルに活用して展開する防衛作戦の数々は、前近代における女性のインテリジェンス(賢さ)の勝利を美しく讃えている。さらに、サンドラが政治的思惑から一時的に藩を追放されるものの、森田勝馬のような心優しき男たちの手によって匿われ、助けられていく一連の流れは、異邦人の孤独な運命に対する、監督の意外なほどの優しい眼差しが感じられて目頭が熱くなる。
すべてのアクション、すべてのエロティシズム、すべてのギャグが、緻密なエンターテインメントの計算の下に配置されていながら、その手触りは決して堅苦しくなく、どこまでも野生のグルーヴ感に満ちている。このエロスとコメディの完璧すぎる黄金比率のバランスこそが、日本のピンク映画、ひいては娯楽映画の到達した一つの「最高峰(頂点)」であると断言して憚らない。
想像力をさらに狂おしく膨らませてみよう。忠輝がこれほどまでに極端な女嫌いをこじらせていたルーツには、もしかしたら幼少期における厳格すぎる封建的な家庭教育や、将軍家からの過度な政治的プレッシャーによる深い精神的トラウマがあったのかもしれない。心を完全に閉ざし、冷え切っていた彼の孤独な魂が、サンドラという「異国の温もり」によって急速に解凍されていくそのドラマチックな過程は、単なるエロ映画の枠を超えた、極めて秀逸な人間の心理再生ドラマとしても読み解くことが可能なのだ。
清姫もまた同様である。輿入れ前の完全なる無知がもたらす夜の恐怖と葛藤を抱えながらも、様々な大騒動をくぐり抜けることで、自らの性とアイデンティティを確立し、一人の自立した女性へと成長していく。こうしたキャラクターたちの内面のドラマを、説明的なセリフに頼ることなく、演者の視線、微細な身体表現、そして流麗なカメラワークだけで雄弁に語り尽くす鈴木則文監督の手腕には、ただただ平伏し、脱帽するほかない。
第十一章:終わらない反逆――首輪を外して自由の荒野へ
最後に、もう一度だけ、現代の人権倫理の冷徹な視点からこの映画を酷評し、同時に超克してみせよう。江戸時代の人々の生活様式や倫理観は、今日の進歩した私たちから見れば、確かに「人権侵害と抑圧の塊」のような暗黒の世界に見える。侍の圧倒的な特権階級の横暴、女性の社会的な従属、そして生まれた瞬間に固定される身分制度――本作の「セックス禁止令」は、そうした歪んだ封建社会が極限まで煮詰まった末に誕生した、グロテスクな奇形児としての法律である。
現代の私たちは、温かい部屋でこの映画を見ながら、「なんと野蛮で愚かな時代があったことか」と、自らの「進歩した高い倫理観」を自慢し、安心感に浸ることができるかもしれない。
しかし、待て。立ち止まってよく考えてみよ。本当に私たちは、あの時代の忠輝や江戸の人々よりも「進歩」したと言い切れるのだろうか?
SNSという名の巨大な相互監視空間の中で、他者の性的な表現や個人的な嗜好を24時間体制でパトロールし、歴史的な名作や古典小説の描写すら「現代の基準に合わない」という理由で次々と改変・抹消していく現代社会は、実は形を変えた、より巧妙で、より逃げ場のない「ネオ・セックス禁止令」を、私たち自身の首元に敷いているのではないか。忠輝の幼稚な愚行を画面の向こう側で冷笑する前に、現代の私たちは、まず自分の首に巻かれている「道徳」という名の見えない首輪の鎖を確かめるべきなのである。それこそが、鈴木則文監督がギャグの爆辞の裏側に仕込んだ、時代を超えて現代の私たちを射抜く、最も過激で最も誠実なメッセージなのだ。
この批評のテキストを狂ったように書き殴っている間にも、私の脳内にはあの素晴らしい劇伴音楽が鳴り響き、再び本作を再生したくてたまらなくなってきた。身体が、あの爆発的なエネルギーを求めて震えているのだ。
映画『徳川セックス禁止令 色情大名』は、ただのエロ映画では断じてない。それは、人生という名の壮大な喜劇であり、人間の持つ汚くも美しい欲望の賛歌であり、すべての権威主義に対する果てしない反逆の傑作である。この幸福な時代に生きるすべての映画狂たちよ、遅れてきた青年の特権を極限まで満喫し、89分間の映画の奇跡を、全身で、胸いっぱいに浴びるがいい!
笑え、興奮せよ、深く考え、そして時には大いに赤面せよ。それこそが、この不滅の名作に対する、最も正しく、最も熱狂的な鑑賞法なのだから。この映画は、人類が自由への渇望を忘れない限り、永遠にスクリーンの中で、そして私たちの魂の中で輝き続ける。鈴木則文監督、そして命を吹き込んだすべての表現者たちよ、最高の狂気をありがとう。徳川の色情大名よ、永遠に私たちの平穏な心を掻き乱し続けろ!
観よ、笑え、愛せ。そして、お上の作ったあらゆる禁止令を飛び越えて、自由を謳歌せよ!