昭和四十一年、すなわち一九六六年の日本映画界という歴史的特異点において、ひとつの怪物的な傑作が産み落とされた。山田洋次監督の『なつかしい風来坊』である。
本作は、後に国民的巨篇となる『男はつらいよ』の原点であり原型であるとしばしば評される。しかし、そのような歴史の「前奏曲」的な位置づけだけでこの作品を片付けることは、映画という芸術に対する冒涜以外の何物でもない。ここにあるのは、高度経済成長期という荒涼たる狂乱の時代に対する、圧倒的に美しく、狂気すら孕んだ人間礼賛の爆風である。
物語の軸を担うのは、ハナ肇が圧倒的な実存感をもって演じきる無骨で規格外の男・源五郎と、高度経済成長のシステムの中でどこか無気力に息を殺して生きるサラリーマンの早乙女良吉である。そして、その二人の間に彗星のように降臨するのが、倍賞千恵子演じる悲劇のヒロイン・愛子だ。
一九六六年の日本は、高度経済成長の只中にあった。マイホーム、マイカー、カラーテレビといった三種の神器が家庭を覆い、人々は規格化された「豊かさ」という名の檻に自ら進んで収監されていった。その近代社会の病理とも言える無菌室的な日常を過ごす良吉の前に、泥と汗と圧倒的な野性を撒き散らしながら現れるのが源五郎という台風である。
源五郎は単なる道化ではない。彼は社会の「まともさ」という虚飾を粉砕する破壊神だ。保険所から薬殺寸前の犬を救い出し、自殺を図ろうとした愛子を抱きかかえて連れてくる。彼の行動には、社会的な手続きや法的な打算など一切存在しない。存在するのは、生の本能と、あまりにも不器用で、ゆえにあまりにも純粋な他者への情熱だけである。
ここに立ち現れる源五郎の姿は、古代の酒神バッカスであり、近代社会の亀裂から噴出した原初生命の化身である。ハナ肇という不世出の喜劇役者が全身から放つ「生気」の塊は、スクリーンのフレームを容易く打ち破り、観る者の皮膚感覚をダイレクトに揺さぶり続ける。
そして、倍賞千恵子演じる愛子の存在感。彼女は社会に棄てられ、裏切られ、自らの命すら断とうとした痛ましい傷跡そのものである。しかし、山田洋次が描き出す彼女は、単なる同情の対象ではない。源五郎という猛烈な熱量と出会うことで、彼女の内に秘められた生命の灯火が再び美しく燃え上がる。その奇跡的なグラデーションを、倍賞千恵子は息を呑むほどの繊細さと可憐さ、そして底知れぬ強さをもって体現している。
映画の中で最も暴力的で、かつ甘美な悲哀を撒き散らすのが、あの映画館の帰りの「手繋ぎ事件」から派生する錯覚と不条理の連鎖である。愛子の手を握ろうとした源五郎の衝動。驚いた愛子が道路下に滑り落ち、全身泥まみれになる凄絶なシーン。そこには喜劇の衣をまとった「人間が存在することの絶望的なディスコミュニケーション」が剥き出しになっている。
好意が恐怖に裏返り、愛の手差し伸べが暴行未遂という濡れ衣にすり替わる。警察に捕らえられた源五郎は、自らの無実を証明しようとしない。それどころか「おれがやったんだ」と言い張り、自ら罪を被ろうとする。この源五郎の「狂気の聖人性」に、私は震えを覚えずにはいられない。自分を嫌悪した愛子のために、彼は悪者になりきり、自らを罰することで彼女の尊厳を守ろうとするのだ。何という自己犠牲、何という切なくも荒々しい愛のカタチだろうか。
近代的な裁判や警察機構というシステムは、この源五郎の純愛を「罪」としてしか解釈できない。システムの中で適応して生きる良吉は、その矛盾に打ちのめされる。善意と悪意、真実と誤解、純粋さと愚かさが混ざり合い、ぐちゃぐちゃの泥まみれになった人間ドラマの神髄がここにある。
後半、物語はさらに加速し、哀愁のピークへと雪崩れ込む。一年後、良吉は会社都合で青森への単身赴任を命じられる。マイホームを手に入れた家族は、彼の孤独な転勤に付き合おうとはしない。近代社会が推進する「マイホーム主義」が、皮肉にも家庭の絆を分断していく構図。良吉は、システムに完全に取り込まれ、使い捨てにされるサラリーマンの悲哀を全身に背負って北への列車に乗る。
その暗い車内において、映画史に残る奇跡的な再会が訪れる。
目の前の座席に座っていたのは、赤ん坊を抱いた女――愛子であった。そして、そこにはあの大爆笑と狂気を背負った男、源五郎が夫として寄り添っていた。
離散し、傷つき、社会の底辺へと弾き飛ばされたはずの二人が、身を寄せ合い、夫婦となり、新たな生命を育みながら生き抜いていた。この瞬間に流れる感情の爆発を、どう表現すればよいのだろうか。かつて決裂し、断絶したはずの友情と絆が、北へ向かう汽車の揺れの中で何の説明もなく完璧に「復活」するのだ。
良吉は二人を温かく迎え入れ、二人もまた良吉を何一つ変わらない笑顔で受け入れる。社会の「体制内」で孤独にさいなまれていた良吉は、この「体制外」の二人の圧倒的な生の温もりに触れることで、救済される。
ここに山田洋次監督が喜劇という映画表現に託した最高度の思想が結実している。
喜劇とは、単に人を笑わせるための娯楽ではない。狭い価値観や社会的立場、偏見によって人間を差別し、区別している現実の人間たちが、映画館でその滑稽な姿を見て笑い、そして笑っている自分自身の愚かさに気づき、自己を省みるための鏡なのだ。
社会の規格からはみ出し、不器用で、他人に誤解されながらも、誰よりも人間らしく泥臭く生きる風来坊たち。彼らの存在こそが、近代社会の虚構を撃つ最良の弾丸であり、救いの光である。『なつかしい風来坊』は、一九六〇年代後半の日本映画が到達した、狂気と人情と社会批評が混然一体となった至高の傑作であり、今なお観る者の胸を熱く焦がし続ける、燃え盛る人間性の賛歌なのだ。
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