これはいわば、まさに魂の泥濘を裸足で駆け抜けた者たちだけに許された、一筋の清冽な祈りのドキュメントである。
1993年。バブル崩壊の残響が猥雑な都市のノイズに溶けていく時代、一本の映画が静かに、しかし決定的な熱量を持って劇場に放たれた。映画『人間交差点(ヒューマンスクランブル)雨』。矢島正雄の、人間の弱さと業を抉り出す冷徹かつ慈愛に満ちた言葉。弘兼憲史の、昭和から平成へ移り変わる歪な社会の輪郭を捉えた鋭利な線。
その奇跡的なマリアージュが生み出した傑作劇画の一挿話が、平山秀幸という「人間の修羅場を凝視する」稀代の映画職人と、当時『お引越し』で少女の瑞々しくも残酷な精神の揺らぎを見事に言語化し、後に日本映画界の至宝となる脚本家・奥寺佐渡子の手によって、一切の妥協を排した純度の高い日本映画として結実した。
この作品を単なる「非行少女の更生もの」として片付ける者は、映画という表現が持つ真の暴力性と救済の本質を見誤っている。ここで描かれるのは、社会の最底辺という重力に囚われた少女と、その重力を共に背負おうとした教育者という名の「泥塗れの聖者」による、血の滲むような精神の殴り合いであり、奇跡のような魂の邂逅なのだ。
序:冷たい鍵盤と自閉の檻――出逢いという名の絶望
映画は、静謐を切り裂くような鍵盤の音色から幕を開ける。そのメロディは優しく、しかし同時にどこか決定的な破滅を予感させる冷たさを孕んでいる。画面に映し出されるのは、手のひらに一匹の蛾を包み込む少女、菊島あけみ。十六歳。 蛾という、およそ愛されることのない、夜の闇に這う羽虫を慈しむように包み込むその手つきだけで、彼女がどのような世界を生き、どのような地獄を見てきたかが観客の胸に突き刺さる。彼女にとって世界は、自分を虐げ、利用し、使い捨てるための冷酷な装置でしかなかった。
彼女が送られてきたのは、更生施設「国立恵愛女子学園」。少年院という名の、社会から隔絶された檻である。そこへ、彼女の担当教官として赴任してきたのが、保護観察者であり若き研究者でもある野崎洋平だ。 「どうだ?少しは落ち着いたか?君の担当になった野崎だ」
古びた校舎の廊下、日の当たらない講座室。野崎の問いかけに、あけみは一切の言葉を返さない。徹底的な自閉。世界に対する完全な拒絶。最初の七日間、この狭い部屋で二人は対峙することを余儀なくされる。野崎は調書をめくる。そこに書かれた文字は、十六歳の少女が背負うにはあまりにも重すぎる現実だった。
二年前に義務教育すら修了せぬまま家を飛び出し、生きるために窃盗と売春を繰り返し、やがて暴力団の暗い沼へと引きずり込まれていった過去。四歳で父親を亡くし、母親は男を執拗に切らしながら同棲を繰り返す。母親からの捜索願は出ていない。
「邪魔だったんだろう。邪魔にされていたんだよ」
調書の行間から漏れ聞こえるのは、社会の構造的暴力と、家族という名の最初の地獄だ。野崎は、あけみの背後に広がるその底なしの闇を幻視する。しかし、この時の野崎はまだ知らない。自分がこれから足を踏み入れる場所が、小手先の同情や教育論など微塵も通用しない、人間の本質的な修羅場であることを。
破:蝉時雨の修羅――摩擦する肉体と反逆のシチュー
学園の外には、狂ったように蝉の声が鳴り響いている。その暴力的なまでの生命の咆哮は、院内に閉じ込められた少女たちの行き場のないエネルギーと、じっとりと張り付くような苛立ちを増幅させる。
食堂での諍い。にやけ顔で近づく先輩院生の金子が、あけみの頭上から容赦なく給食のスープを浴びせる。ねっとりとした液体が髪を伝い、頬を濡らす。それは明確な洗礼であり、尊厳の蹂躙だ。「手が滑っただけ」と言い放つ金子に対し、あけみはただじっと耐える。いや、耐えているのではない。彼女の中で、復讐の炎が静かに、しかし確実に着火した瞬間だった。
体育の時間、ブルマー姿の院生たちが校庭に集まる中、あけみは「生理だ」と告げて参加を拒む。周囲から浴びせられる「脱げ、脱げ」という容赦のない、残酷な囃し立て。少女たちのコミュニティもまた、社会の縮図としての権力構造を孕んでいる。そしてついに、均衡は破られる。
教室での大暴動。あけみは、あのスープをかけた金子を視界に捉え、狂犬のように襲いかかる。ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 が割れ、机が吹き飛ぶ。必死に止める野崎の腕の中で、あけみは獣のように咆哮する。
この暴力の応酬によって、野崎の右目の脇は切り裂かれ、血が流れる。失明寸前の大怪我。「不幸中の幸いです」と院長は言うが、学園の空気は一変する。規律と暴力を信奉する大谷教官は、野崎のやり方を「甘やかしすぎだ、ナメられてるんだ」と激しく糾弾する。大谷の言う「教育」とは、野生の獣を檻に入れ、鞭で調教する従順化に過ぎない。しかし野崎は、あけみを獣としては見ない。一人の、傷つき肥大化した自尊心を持つ人間として見つめようとする。
「野崎先生、あなたがここにいる時間もあとわずかになりましたね。あと半年です。悔いの残らないように」
神林院長の言葉は重い。野崎は、大学の研究室に戻るまでの「腰掛け」としてここにいる。その限界を、あけみは見抜いていた。畑仕事の最中、再び暴れ狂うあけみを羽羽交い締めににした野崎に対し、彼女は本質を突く怒号を浴びせる。
「そんなに騒ぎが起きるのが怖えのかよ。びびってんじゃねえよ!」
別室に隔離され、うつぶせに倒れるあけみ。野崎が「なぜあんな真似をした」と問いかけても、彼女は動かない。ただ、部屋を去ろうとする野崎の背中に向かって、ぽつりと、しかし呪いのように呟く。 「絶対逃げんなよ」
この一言が、野崎の魂に深く楔を打ち込む。逃げるな。私を見捨てるな。お前もどうせ、他の大人たちと同じように、時期が来れば綺麗事を残して消えていくんだろう。その諦念と、かすかな、あまりにもかすかな救いの希求が、その言葉には滲んでいた。
二人の関係性は、巨匠・黒澤明の『赤ひげ』における保本登とおとよの精神的闘争を彷彿とさせる。他者を信じられず、毒を吐き散らすおとよに対し、保本が身を削って向き合ったように、野崎もまた、あけみという猛毒の檻に自ら飛び込んでいく。
「来年になれば私はここにはいない。大学に戻る」と言う野崎に、あけみは冷笑を浮かべる。
「やっぱり。お前だけ他と違う。うちらとは違う。ただ見てるだけ。それだけ。あとは関係ないと思ってる」
「そんな風には思っていない」
「だったら食わせろ。食わせたら食ってやる」
挑発。魂の底からの揺さぶりだ。体力が限界に達し、意地を張るあけみに対し、野崎はシチューをスプーンですくい、その口元へと運ぶ。それは教育の枠を超えた、絶対的な他者への「コミットメント」の瞬間だった。あけみはそのシチューを口に含む。しかし、次の瞬間、彼女の目は狂気に染まる。
「いま何考えてた?何考えたんだよ!」
激しい平手打ち。ベッドの上での奇声。
首根っこを掴み合う、男と女、教官と院生という枠組みを完全に超越した、剥き出しの肉体と言葉の掴み合い。
「出ていけ!二度と戻ってくるな!」
野崎の叫びは、あけみの魂に届いたのか。
夕闇が迫る廊下、窓から顔を出して囃し立てる院生たちの前で、二人がかりで取り押さえられながらも、あけみは地団太を踏み、叫び続ける。
それは、初めて他者と「繋がってしまった」ことへの、恐怖と歓喜の産声だったのだ。
急:夜のバラと放火の闇――崩壊する境界線
野崎は追い詰められていた。居酒屋で同僚と泥酔し、ろれつの回らない声で「やっていけませんよ、これじゃ俺。やめます、俺」と弱音を吐く。
顔を見るのも嫌だ、名前を聴くのも嫌だ。それは、あけみという存在が、野崎の平穏なエゴイズムを完全に破壊し尽くしたことの証明だった。
しかし、帰りのタクシーの中で、混濁する意識の底から這い上がってきたのは、やはり彼女の名前だった。 「菊島がいるんだよ、菊島」
真夜中の校舎。玄関には、なぜか一輪の薔薇が飾られている。誰が置いたのか。それはまるであけみの、棘だらけの魂の具現のようだ。
酔いつぶれた野崎は、あけみの部屋の前で倒れ込む。その時、美しいピアノの音色が静かに流れ出す。あけみはドアの覗き穴から、自分のために身を滅ぼしかけている男の足元をじっと見つめていた。
金子が退院していく送迎会。
「先生。菊島、相当しぶといからさ。頑張んなよ」
「菊島も寂しくなるな」
「これでだいぶ静かになりますね」
静寂が戻るかと思われた学園に、突如として鳴り響く非常ベル。
赤い光が廊下を染め、院生たちがゴキブリのようにワラワラと湧き出してくる。
火災報知器の悪戯。野崎は直感的にあけみの部屋へと電撃的に突入する。
「出ろ!」
無言で対峙する二人。
職員会議では、証拠がないにもかかわらず、あけみの犯行と断定され、野崎と彼女の間に「冷却期間」を設けるべきだという結論に至る。
さらに、女性教官のハヤカワから、あけみ本人が「野崎から女として屈辱を感じるような行為を受けた」と中傷していることが告げられる。
「そんな噂が……一体だれがそんなことを!」 絶望的な沈黙が職員室を支配する。
信じていた教え子からの、最も卑劣な裏切り。しかし、野崎の執念は折れなかった。
夜間の見回り。懐中電灯の細い光が、暗黒の廊下を照らす。
あけみの部屋の前。
「帰れよ」 冷たく言い放つあけみは、手の中で輪ゴムを遊ばせている。
野崎は覗き穴越しに語りかける。
「お前と話がしたかった。だけどどう話せばいいのか」
その瞬間、あけみは覗き穴から輪ゴムを差し出し、パチンコのように弾いた。
バキッという激しい音と共に、火災報知器のスイッチが破壊される。呆然とする野崎。
「どうしてそんなに困らせるんだ。じゃあどうしていつも俺なんだ……」
あけみは、悪魔的な、しかしあまりにも悲しい笑みを浮かべて言い放つ。
鍵を開けた瞬間、あけみは野崎を殴り倒し、夜の闇へと脱走する。
頭から血を流し、床に頽れる野崎。
しかし、彼の心にあったのは、怒りではなく、彼女を暗黒街へ戻してはならないという狂信的な使命感だった。
翌朝の職員室
「私に連れ戻しに行かせてください。脱走後、48時間は猶予が許されている。その間は、私が探します」
警察に通報しようとする同僚たちを遮り、野崎は一人、雨の予感に満ちた東京の、歓楽街へと走り出す。
滞:歌舞伎町・桃原企画の血闘――泥濘の中の再会
野崎が足を踏み入れたのは、暴力団が支配する雑居ビルの一室「桃原企画」である。そこは、かつてあけみを囲い、売春を強要していた男たちの巣窟だ。電話番の男が「ホテル椿の5025室、30分後に行かせます」と、女をモノとして消費する生々しい会話を交わしている。 東南アジア系の女性が擦れ違う部屋の奥、どんよりとした空気の中に、あけみはうずくまっていた。
「あんたしつこいね、いねえったらいねえんだよ!」
ヤクザたちの脅しにも、野崎は怯まない。「菊島!」と叫ぶ野崎の身体を、二人がかりの暴力が襲う。
事務所から激しく蹴り出され、階段を転げ落ちる野崎。
「大変だな、変に慕われちゃって。あんなタコ気にすんな。それより昔みたいに稼いで、いいもん食って。菊島ちゃんにはちゃんと客決めたんだよ」
客。その言葉があけみの脳内で、過去のトラウマのスイッチを完全に押し入れた。彼女は男を激しく殴りつけ、事務所から飛び出す。
夜の街を、あけみが走り、ヤクザが追い、血塗れの野崎が脚を引きずりながら追う。 自転車と衝突し、ゴミ溜め場へと転がり込むあけみ。段ボールの山、ビールケースの物陰。凄惨な乱闘の末、彼女はヤクザの手を振り切る。
ゴミの山から這い上がった野崎は、もはや教官の姿ではなかった。ただ一人の少女の命を救うためだけに動く、剥き出しの執念の塊だ。街の片隅、水道の蛇口からここで水を飲む野崎の前に、息を切らせたあけみが姿を現す。
「お前……」
「見てらんねえよ。危っかしくて」
ふっと笑うあけみ。二人は再び、手を携えて走る。
「また逃げるよ。今度は足のつかない場所……」
「逃げ込む場所は他にあるのか。今度は逃すような真似はしないからな」
「野崎隙だらけじゃねえか。のこのこヤクザの事務所に飛び込んでくる奴がよく言うよ」
「どんな時でも口だけは達者だな、お前は。痛いか?」
「慣れてるよ」
「慣れてるよ」という言葉の重さに、野崎は胸を締め付けられる。
暴力に、痛みに、陵辱に慣れてしまった十六歳の少女。少年院へ戻る廊下で、あけみはぽつりと語る。
「野崎、最低って気分わかるかい?死ぬほど殴られたり、嫌な男にやられまくったり、寝るヤサがなかったり、金なくてくすねたり……」
「忘れろ……」
「そんな目にあってねえから言えるんだよ」
「忘れろ……忘れない限り、そっからは一生抜け出せない」
忘れること。それは、過去の地獄を切り離し、新たな人間として生まれ変わるための唯一の儀式だ。野崎は彼女の部屋の鍵を開け、静かに彼女を迎え入れる。その夜、あけみの中で、何かが決定的に変わった。
結:母親の刺青と雪の教室――開かれた心の扉
季節は巡り、工作の時間。色鮮やかな折り紙を折りながら、他の院生と初めて笑顔で打ち解けているあけみの姿がそこにあった。窓外からそれを見つめる野崎の目には、柔らかな光が宿っている。
しかし、試練は終わらない。
「菊島、面会だぞ」
職員室のドアを開けると、そこには派手な服を着て、部屋の中で堂々とタバコをふかす母親・和子の姿があった。
「誰だこいつ、知らねえ」 拒絶するあけみに、母親は冷酷な言葉を投げつける。
「しばらくねえ、あんたもちょっとはマシになったかと思ったけど、昔のまんま」
「そう簡単に変わるかよ。あんた何様のつもりだ」
「あたしさ、お店持ったのよ。昔と全然違うのよ」
「偉そうな口利いてんじゃねえよ。どうせ男の×××!」
罵声の応酬。
母親が「あたしが言えばあんたここを出られるんだから」と言った瞬間、あけみの感情は爆発する。
「てめえのせいだろうが!」 暴れるあけみを取り押さえる野崎の腕の中で、彼女は床に泣き崩れる。
「イヤだ……イヤだ……!」
その夜、あけみは激しいトラウマのフラッシュバックに襲われる。
セピア色に変色した回想画面。暗い家の中。母親の愛人(義父)が、幼いあけみに卑劣な手を伸ばす。
そこへ帰ってきた母親。
「用事あったんじゃねえのかよ」
「泥棒」
「ちょっとからかっただけだよ」
「何してたの」
「何もしてねえよ」
母親は、愛人の性暴力を知りながら、自らの生活(男)を守るために、実の娘を「泥棒猫」と罵り、生贄に捧げたのだ。これ以上の地獄があるだろうか。あけみの転落の歴史は、この家庭という名の密室での虐待から始まっていた。
翌日、階段を降りるあけみを野崎が介抱する。
左腕の肩を乗せながら、「どっか痛むのか?」と優しく問いかけたその瞬間、あけみは野崎を階段から突き落とす。激しい音を立てて転落する野崎。あけみは彼の腰から鍵を奪おうと貪欲に手を伸ばす。
「そんなにあの人から逃げたいのか!」
「離せよ!あの女は嫌だ!」
「また元に戻りたいのか!」
「あたしは一生このままだよ!」
「お前の母親だろ!」
「生きてりゃいいんだろ!」
「菊島!それじゃダメだ!」
「生きてりゃいいんだろ」というあけみの叫びは、魂を放棄した人間の極限の言葉だ。ただ肉体が存続していればいい、心などとうに死んでいる。それに対して野崎は「それじゃダメだ!」と、彼女の魂の尊厳を真っ向から肯定する。その場で激しく泣き崩れるあけみ。彼女の目から流れたのは、長年溜め込んできた地獄の澱のような涙だった。
外は雪。真っ白な雪が、世界の汚れを覆い隠すように降りしきる教室で、あけみは隣の院生に優しく勉強を教えている。その姿は、完全に更生した一人の少女のものだった。 野外での畑仕事。風にたなびくカーテンの向こう、長い髪を綺麗に束ねられたあけみは、野崎に尋ねる。
「やめんのいつだよ?」
「やめない」
「じゃあずっとここに手紙出せばいいんだね」
「そうだ。ここでいいんだ」
「あたしがまともになって、先生ぐらいになれたら、あたしの男になってくれる?そしたらあたし色んなこと忘れる。忘れて最低にならないようにするよ」
野崎は何も答えない。
あけみは照れ隠しのように笑う。 「冗談だよ」
それは、少女が生まれて初めて抱いた、極めて純粋で、そして決して叶うことのない聖なる「恋慕」の情だった。
転:一年後の川崎――土砂降りの迷宮と覗き部屋
あけみが少年院を出る日。神林院長は「おめでとう、体に気をつけてな」と送り出し、野崎に向かって「野崎先生、とうとうやりましたね」と微笑む。
あけみから届く手紙の数々が、彼女自身の声で読み上げられる。
「殴ったり、問題を起こしたあとに、野崎に見捨てられたらどうしようと怖くなった時があった。出て行けって言われたときは泣きたくなったけど、そのあとも付き合ってくれたから嬉しかった。外に比べたらここはマシだった。でも戻ってこないようにするよ。元気でね。野崎先生へ。菊島あけみ」
美しい大団円。並大抵の映画であればここでエンドロールが流れるところだが、この映画はここでは終わらない。奥寺佐渡子の脚本の恐ろしさは、この「更生」の先の、冷酷な現実のフェーズを描く点にある。 「一年後」のテロップ。
少年院前。かつての院生金子が車から降りてくる。
「菊島はなかなか戻ってきませんね」という野崎は言う。手紙がぱったりと来なくなったことを案じ、野崎は動き出す。
喫茶店で母親の和子と再会するが、彼女は「私には何も話してくれない子ですもの。私はもうあきらめています」と冷淡に言い放つ。
学園の院長室。神林院長は手紙の記録を見ながら苦渋の表情を浮かべる。
「私は反対ですよ。新宿、池袋、浅草、川崎。一年のうちに4回も住所が変わっています。大きな歓楽街があるところばかりですね」
「院長、菊島がなにかいかがわしい商売をしてるとおっしゃるんですか。憶測はやめてください」
「菊島はもう18歳ですよ。違法行為ではありません。もう菊島を卒業なさってもいい頃ですよ」
「しかし菊島はどうなんでしょうか。ここではうまくいってたと思うことが、外ではどうなのか。それが知りたいんです」
「それだけですか?尋ねた先で菊島の最悪の姿を見たとしたら?」
院長の言葉は、現実の重みを持っている。歓楽街を転々とする18歳の少女。誰もが「最悪の事態」を想定する。
ソープ、キャバレー、風俗の沼。野崎は川崎駅に降り立つ。崎陽軒のシウマイの看板が、妙に生々しい生活感を醸し出す街。 あけみの写真を手に、歓楽街を聞き込みする野崎。その姿はダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の歌詞そのものだ。
「うーん知らんな」 「知らねえなあ、見たことねえよ」 スナックを追い出され、「しつこい奴だねえ、まったく」と罵られる。 「見たことあるよ、この先のキャバレーで」
辿り着いた「グランドサロンエンペラー」。しかしそこにも彼女はいない。覗き部屋のドアの向こう、裸の女が爪を研ぎながら野崎を嘲笑う。
「ちょっとあんた、川崎にこういう店が何軒あると思ってんの?全部あたるつもり?あとはソープぐらいしか探すとこないんじゃないの。やめといたほうがいいと思うよ。逃げた女ってのはさ、絶対帰って来やしないよ」
外は土砂降りの雨。バケツをひっくり返したような豪雨が、歓楽街のネオンを歪ませる。
野崎はソープランドの待合室で、女の子たちの写真アルバムをめくる。
「いなかったですか」
「はい。ありがとうございました」
別の店、また別の店。「ねえねえ、その子、あんたの彼女かなんかなの?」と嘲笑う風俗嬢たち。
雨に濡れ、ネクタイは歪み、髪からは水滴が滴る。野崎の姿は、執念を通り越して狂気の沙汰だ。
呼び込みの若い女が声をかける。
「お兄さん、寒くない?あったかいところ行かない」
「こういう子、知らないかな?」
「公園待ちの子にいたかな。金ない客相手にするの。公園で待って、公園でやっちゃうんだ」
公園待ち。底の底だ。野崎は激しい雨の中を走る。公園の暗がりに、紫色の傘を差した女の後姿が見える。
「菊島!」 振り返った顔は、全くの別人だった。
「何よ?他探しなさいよタコ」 横から現れたメガネの中年男が「話はついてんだよ」と野崎を押し退ける。
途方に暮れる野崎。ずぶ濡れのまま、「Bar里枝」の軒下で雨宿りをしながら、彼は自己嫌悪に陥る。
「俺は何をしているんだ……」
彼女を信じきれず、最悪の姿を想像し、風俗街を這いずり回った自分自身の浅ましさ、傲慢さ。院長の言った通り、自分はただのエゴの押し付けをしていたのではないか。
終:ラーメン屋「珉珉」の奇跡――救済のロマン
飢えと疲労の限界の中、野崎は一軒の古びたラーメン屋「珉珉(みんみん)」にふらりと入る。温かいスープの湯気が立ち込める店内で、一人ラーメンをすする。その時、カウンターの裏口が勢いよく開いた。
「ただいま!どんぶり全部下げてきたよ」
雨合羽を着た、活気のある女の声。
「ごくろうだったな。大変だったろ」と迎える、若いラーメン屋の主人の声。
「平気平気、次は出来てる?」
「おまえな、馬じゃねえんだから。無理すんなよ」
「そんなヤワかって」
雨合羽のフードを外したその顔。弾けるような笑顔。それは、野崎が泥泥の中で探し求めていた、菊島あけみその人だった。 野崎はハッとして動きを止める。しかし、声をかけない。あけみは野崎の背中に気づかないまま、愛する主夫と生き生きとした会話を続ける。
「やっと二人で店持ったんだ。これぐらい当然だよ」
「ああバリバリ働いて、早いとこ店改修して、お前の先生来てくれるかな」
「一番心配してくれてんだ。絶対来てくれるよ。来なきゃひきずってでも連れてくるんだ」
「お前の先生には誰も敵わねえな」
「急に呼んでびっくりさせるんだ。今のままじゃ汚くてそれだけでびっくり」
野崎の背中が、画面に大きく映し出される。
彼は、あけみに声をかけない。自分が今ここで姿を現せば、彼女の新しい生活の、その誇り高い自立の物語に水を差すことになる。彼女は風俗に落ちてなどいなかった。歓楽街を転々としていたのは、このラーメン屋の主人と共に、自分たちの城を持つための資金を必死に稼ぎ、這い上がってきた証だったのだ。
あけみは再び、次の出前配達のために、岡持ちを抱えて激しい雨の中へと飛び出していく。野崎は立ちつくし、ただ彼女の力強い後ろ姿を心の眼で凝視する。
(菊島、お前は死ぬまで頼れる、自分だけの先生を見つけたんだな)
野崎のモノローグ。ここでの「先生」とは、野崎のことではない。彼女が自らの手で選び取り、共に生きることを決めたパートナーであり、彼女自身の「生きる意志」そのもののことだ。野崎という通過点を経て、あけみは真の意味で社会の重力から解き放たれ、自分の足で大地を踏みしめていた。手の付けられない不良少女は、自らの魂の洗濯を終え、最も美しい姿で更生していたのだ。
画面は暗転し、スタッフロールが流れる。上田正樹の至高の名曲「ROMAN」。
泣きたい時も くじけそうな時も
何も見えなくなる どんな時でも
助けたいんだ 守りたいんだ
かばいたいんだ すべての罠から
命賭けて 愛を この胸に
あなたの為なら いつでも死ねると
ロマンを抱いてふたり 生きてゆく
どこで朽ち果てても かまわない
この歌詞こそが、映画『人間交差点・雨』のすべてを総括している。野崎があけみに捧げた、そしてあけみがラーメン屋の主人と共に築き上げた、泥塗れの、しかし世界で最も美しい「ロマン」。 平山秀幸の骨太な演出と、奥寺佐渡子の魂を削る脚本、安藤庄平の執念のカメラワークが捉えたのは、人間が人間を信じ抜くということの、文字通りの「命懸け」の闘争であった。
我々はこの映画を観終えた後、激しい雨の音と共に、自らの魂が激しく揺さぶられ、浄化されていくのを禁じ得ない。これぞ映画であり、これぞ人間の交差点なのだ。爆裂する熱狂の果てに、ただ一筋の、雨上がりの光が我々の胸に残り続ける。