未使用新品ですが、箱は保管中劣化あり
高さ約19cm、上部外径約8cm、底部外径約5.5cm
みずほフィナンシャルグループ20周年記念
江戸切子(えどきりこ)とは江戸時代末期から江戸、東京都において生産されているガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 細工である。
江戸時代後期に生産された江戸切子は、透明な鉛ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 (透きガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 )に鑢や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による手摺り工程による細工によって制作されたと言われる。
当時の薩摩切子が厚い色ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 を重ねた色被せ(いろきせ)ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 も用いていたこと、ホイールを用いた深いカットと大胆な形であることとは大きな違いがある。
明治期以後は薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や海外からの技術導入により、江戸においても色被せガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の技法・素材も用いられるようになる。色ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の層は薄く鮮やかなのが特徴。加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行していく。
江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉文様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴である。
現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 等の透きガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 よりも色被せガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 を素材に用いたものが切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されている。
歴史
1834年(天保5年)に江戸大伝馬町のビードロ屋、加賀屋久兵衛(通称:加賀久)が金剛砂を用いてガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の表面に彫刻で模様を施したのが始まりと言われている[1][2]。加賀久は日本橋通油町の硝子・眼鏡問屋・加賀屋(通称:加賀吉)から暖簾分けし、切子も始めたとされる[2][3]。ただし、江戸時代に使われていた道具や製作方法を記した文献はほとんど残っていない[1]。
1873年(明治6年)、明治政府の殖産興業政策の一環として日本初の硝子工場、品川興業社硝子製造所が開設され日本での近代的な硝子生産の試みが始まった。興業社は三条実美,村井三四郎,丹羽正庸が品川宿東海寺裏に設立したガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 工場で、1876年に工部省が買上げて「品川硝子製作所」と改称した[4]。
1881年(明治14年)当時最先端の技術を持ったイギリスからお雇い外国人としてカットグラス技師・エマヌエル・ホープトマンを招聘し[1][2]、数名の日本人が師事した。これにより、現代に連なる伝統的技法が確立された[1][2]。
大正期から昭和初期(開戦前)にかけての大正文化・モダニズムの時代に、工芸ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 と言えばカットグラスと呼ばれるほどの人気を誇り[2]、食器からランプにいたる多様な形で普及する。第一次世界大戦に伴う産業構造の変化や素材の研究やクリスタルガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の研磨の技法の開発もあって、江戸切子の品質は大きく向上した[2]。
当時のメーカーには佐々木硝子(後の佐々木クリスタル。現在の東洋佐々木ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 )、岩城硝子(品川硝子製作所元職工長・岩城滝次郎が創立した日本初の民間洋式ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 工場。現・AGCテクノグラス[5][6])、岡本硝子、各務鑛三の各務クリスタル硝子製作所(現・カガミクリスタル)などがあり、その他多くの問屋が存在した。
太平洋戦争中は平和産業のため制限下に置かれ、多くの職人も出征。残った職人たちは転業や疎開、またその加工技術から戦闘機向けガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 加工など軍需生産にも動員された。
戦後、主な生産地であった江東一体の下町は灰燼に帰し戦中の制限もあって業界は壊滅的打撃を受けていた。その荒廃の中から各メーカーや問屋に加え、新たに旧軍向け光学レンズからガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 食器に参入・技術転用し後に世界的なクリスタルガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 ブランドへと発展した保谷硝子(現・HOYAクリスタル)などのカットグラス生産に切子職人たちが関わり復興していく。その背景にはGHQの進駐によるガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 食器の発注や海外向け高級シャンデリア等の輸出など「外貨獲得の戦士」と称された時代、さらに高度経済成長期など生活の洋風化に伴うグラス・花器・洋食器の普及・需要増があった。
カガミクリスタル株式会社は、日本の茨城県龍ケ崎市に本社・工場を置く、クリスタルガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 を製造する企業である。
概説
現在、250以上の日本大使館・領事館で公式に使用されており、ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 食器メーカーとして日本を代表する存在の一つである。
ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 食器の他、花瓶・灰皿、江戸切子・オブジェ等の工芸品、オーダーメイド品、ならびにウイスキー瓶や香水瓶の制作を行なっている。各務鑛三の伝えたグラヴィール(エングレービング)工法を得意とする特徴がある。
沿革
南満州鉄道のガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 工場からドイツに留学し、後に帰国した各務鑛三(かがみこうぞう)により、大倉陶園の後援を受けて1934年(昭和9年)に創業した。大倉陶園社有地に建設された当時の工場は、日本初のクリスタルガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 専門工場であった。
1934年(昭和 9年) - 東京市蒲田区町屋(現在の東京都大田区西六郷)で各務クリスタル製作所として創業。
1943年(昭和18年) - 東久邇宮に内親王成子が嫁いだ際に調度品を納めた。以降、皇室御用達となる。
1948年(昭和23年) - 株式会社各務クリスタル製作所に改組。
1952年(昭和27年) - 日本在外公館の再開に伴い、外務省へクリスタル製品納入開始。
1960年(昭和35年) - 東宮御所新築の際にクリスタル建材の施工。
1960年(昭和35年) - 吹上御所の造営に際し、クリスタル建材の施工。
1965年(昭和40年) - この頃より時計業界や電子業界にも進出。
1968年(昭和43年) - 吹上御所の新宮殿に食器・シャンデリアを納入。
1974年(昭和49年) - 日本迎賓館および同・和風別館に食器を納入。
1985年(昭和60年) - 特殊ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 部門をエヌ・エス・ジー・ハイテクプロダクツ株式会社として分離し、カガミクリスタル株式会社に改称。
1990年(平成 2年) - 宮内庁御大礼調度に食器を納入。本社と工場を大田区から茨城県龍ケ崎市へ移転し、つくば工場の操業を開始。
1997年(平成 9年) - 茨城県郷土工芸品に指定。
2002年(平成14年) - 新・総理大臣官邸へクリスタル食器を納入。
鍋谷淳一 JUNICHI NABETANI
1966年、東京都生まれ。1949年に大田区で創業した「鍋谷グラス工芸社」の3代目として、4代目・鍋谷海斗氏とともに江戸切子と向き合う。2009年、伝統工芸士に認定。2013年には「江戸切子新作展」にて「経済産業省商務情報政策局長賞」を受賞する。
江戸切子に携わる人々が、なにを想い、一つひとつの作品や仕事と向き合っているのか。工房を尋ね、お話を伺う連載『Artisan Interview』。第2回目となる今回は、確かな技術とガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 への高い知識をもつ江戸切子の伝統工芸士・鍋谷淳一さんです。
いろはを学び、腕をつけ、実感
——ご家業が江戸切子の工房ですが、鍋谷さんが職人になるまでのお話から聞かせてください。
江戸切子 伝統工芸士 鍋谷淳一氏
子どもの頃、友だちが江戸切子を知らなかったんですよ。それに、僕が子どもの頃は今ほど道具も進化していなかったから、作業は全て重労働です。毎日クタクタになるまで仕事する父を見ながら「これは大変だ」とも感じていたし、江戸切子は今後、産業として成り立っていないんじゃないかと思っていたんです。
23歳で社会人になったんですが、当時の僕は、やりがいは仕事がくれるもんだとばかり思っていました。同時に、やりがいがない仕事はしたくないとも思っていて。その後、やりがいは仕事がくれるものじゃない。自分で感じるものだと分かるんですけれど。江戸切子はやりがいがないって、勝手に判断していたんです。
だから、学校を卒業したあとはコンピューター関係の仕事につきました。時代として盛り上がっていく予感がしたし、憧れもあって。でも、入ったものの、希望の部署に入れなくって。ちょうど1年で辞めたんですが、同時に、自分のやりたいこともなくなってしまいました。
ただ、何もしないでブラブラしてるわけにもいきません。その時に父から「お前、江戸切子はやるのか? やらないのなら、自分の代で潰すのは簡単だから」と言われたんです。どうせ潰すんなら一回関わってみようと、25歳で江戸切子の世界に入りました。
最初から家業をついだわけじゃなくて、クリスタルガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の製造で国内最大手の「カガミクリスタル」にお世話になりました。ここは、江戸切子の生地となるガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 製造を一貫して手がけています。素材の買い付け、熱で溶かす、溶けたドロドロのガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 を成形して、色付け、磨き。1から10まで手がけているから、職人としてものすごく勉強になりましたね。
カガミクリスタルには3年勤めるという約束で、1年目はガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 のいろはを学びました。2年目からは、関連会社で江戸切子を勉強しつつ、製造にも関わるようになって。触れれば触れるほど、少しずつ江戸切子への魅力を感じつつあったけど、この仕事で一生食っていこうという踏ん切りは、なかなかつかなかったですね。僕、心が決まるまでに時間がかかるんです(笑)。