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日文聖人
氏名 小林要随
法号 妙順院日文
幼名 小林栄之助
歴世 法善寺開基・本光寺21世・妙順寺1世
生没年 安政6年6月10日~昭和9年7月27日
上人姓小林名日文要隋妙順院と号す。
安政六年六月十日飯山藩主、本多甚平の四男に生る。
慶応二年十月八日同町本光寺日敬師に従て得度し、明治十一年師跡を継承す。
十五日薩和尚に随って大教院に学ぶ。十七年帰山し専ら寺門経営布教伝道に尽瘁す。
二十年日薩和尚巡教の際、布教機関として清浄結社設置を委嘱せらる、今の第七結社是れなり。
明治二十六年当地新寺創立の懇請に依り、本光寺を弟子要敬に譲り一寺建立を発願す。
幸に駿州大営大泉寺末、大営山法善寺移転の同意を得、二十八年四月本県知事の許可を得るや直ちに本堂建設に着手し、二十九年身延山直末なり。
同年十一月身延七十七世日厳和尚を請し、開堂供養を修す。茲にに甫めて法善寺の基礎成る。陋来在職二十三年なり。
大正十三年九月弟子要山に譲り、老躯を提けて軽井沢の開教に志し、十五年八月同地に清浄結社を建設す。
昭和三年六月、時の宗務総監望月日謙僧正の発議に依り、今上天皇御即位記念館を建設すべく、管長酒井日慎猊下身延山並びに帝都諸大徳の賛助を得、十月十六日開館式を挙ぐ。
今の清浄閣是れなり。
昭和六年宿痾に華り七月二十七日遂に遷化す。世寿七十六歳。法六十有五年なり。上人と為り温良沈毅謙譲事に処して果断克く悦服す上人。
常に報恩観念に住及し、歳々信徒を率い身延山に詣で霊感に浴する上人の功績枚挙に遑なしと雖も、本光寺、法善寺、清浄閣等在任五十有七年。其間、教会所参拝所等の設立数カ所に及ぶ。
誠に当代希に見る、護法芙宋の師と謂うべし。宣なる哉、昭和三年累進し僧正に叙せられ、昭和九年九月十三日法主日謙猊下大導師の下に本葬の儀典を営み、永く当山の蛍城に葬る。
嗚呼開山妙順院小林要隋日文上人偉なる哉、一代の行状真に止暇絶眠の祖訓を色読せられしことを。
左の聖文蓋し上人の銘とすべきか。
法善寺
明治初頭期に当地に於いて日蓮宗寺院建立の機運が昂まり、当時、東信一帯に積極的布教を行っていた飯山・本光寺21世小林日文上人がこれを受けて建立。しかし、明治初頭の情勢は新寺建立が困難な現状であり、静岡にあった廃寺の法善寺(天和元年創立)を移転する名目で認可を受け、明治28年に小林日文開基として移転建立となった。
本堂、鬼子母神堂等、堂宇は七堂を数え、背景にある多くの樹木の新緑や紅葉が宗教的安らぎの雰囲気をかもし出している。
参道脇にある島木赤彦の歌碑「七月に入りて雪ある遠き山 山門外に出で立ち見れば」は、大正13年に赤彦が、現在の東御清陵高校の母体である組合立の小県実科中学であった頃、教職員を対象に「万葉集」の講義に来た折に当山に泊まられたときの一句。昭和31年歌碑建立。
本堂欄間には丸山晩霞の釈迦一代画(釈迦八相画)がある。これは大正6年に晩霞が弟子の関晴風、油井小渓と共に描いた逸作で、本年に欄間絵保護の方策を檀信徒の浄財を得て完了した。尚、同寺には晩霞画による「信察孝養の画」「日蓮佐渡塚原三昧堂の画」がある。以来法灯は連綿として37世に至っている。
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