銀幕という名の巨大な競技場に、我々は今一度、引きずり戻されねばならない。1959年、ウィリアム・ワイラー監督が世界に叩きつけた映画『ベン・ハ―』。このおよそ3時間半、212分に及ぶ超大作を、現代の冷徹な、あるいは斜に構えた視線で語ることはあまりに容易である。SNSのタイムラインを流れる寸評のように、「長すぎる」「退屈だ」「セラピーに行く代わりに命懸けの戦車レースに出る男たちの物語だ」と、冷笑的なユーモアで片付けることは、この映画が持つ真の怪物性を何一つ説明したことにはならない。
我々が今、この映画と対峙する時に呼び起こさねばならないのは、映画が「本物のスペアクル」を誇っていた時代の、あの狂気じみた情熱と、そこから立ち上る凄まじいまでの熱量である。何でもCGで、あるいはAIで再現できてしまう現代の映画産業において、この『ベン・ハー』という作品が内包する圧倒的な「実物」のスケール感は、もはや二度と到達できない天空の頂として君臨している。これをただの「古いハリウッドの遺物」と呼ぶならば、それは映画という芸術の肉体性を忘却した者の言葉だ。
本作の本質、そしてそれが現代に投げかける強烈な違和感と批評性を、あらゆる角度から解体し、血の通った言葉で論じ尽くそう。
狂気と執念の肉体:100万ドルと血の戦車レース
『ベン・ハー』の背骨であり、映画史における絶対的な到達点として語り継がれるのが、あの9分間に及ぶ戦車レース(チャリオット・レース)のシークエンスである。このシーンを巡る数字を並べるだけでも、当時のハリウッドがどれほどの狂気に憑りつかれていたかが理解できる。
制作費は当時の金額で100万ドル以上。撮影期間は5週間を超え、カメラが回された総延長距離は200マイル(約320キロ)に達した。現代の映画であれば、巨大なグリーンバックの前に俳優を立たせ、デジタルでモデリングされたローマの競技場と、物理演算で動く馬たちを合成して終わりだろう。しかし、1959年のワイラーとスタッフ陣は、イタリアのチネチッタ・スタジオに本物の、文字通り広大な砂漠の如き競技場を建設したのだ。
このレースシーンが今なお、公開から半世紀以上を経ても私たちの眼球を焼き、アドレナリンを沸騰させるのは、そこに「本物の重力」と「本物の恐怖」が映り込んでいるからに他ならない。凄まじい爆音とともに巻き上がる本物の砂塵。時速60キロ以上で疾走する4頭立ての馬たちの筋肉の躍動。車輪が噛み合い、火花を散らして砕け散る木製の戦車。
都市伝説のように「撮影中にスタントマンが本当に死亡した」という噂が35年以上も、いやそれ以上の長きにわたって実しやかに囁かれ続けたのも無理はない。それほどまでに、画面から漂う「死の臭い」がリアルだったのだ。実際には、徹底された安全管理とスタントチームの超人的な技術によって、人間の死亡者は一人も出なかったという事実がある(いくつかのレビューが「スタントマンが死んだ」と誤解していること自体が、この映像が持つ、嘘のつけない剥き出しの暴力性を証明している)。
しかし、ここで目を背けてはならないのは、その美しさの裏にある「動物たちの犠牲」という暗部である。100頭近い馬がこの過酷な撮影のために動員され、傷つき、命を落としたという指摘は、現代の倫理観から見れば明確な「汚れ」として残る。だが、その残酷さをも飲み込みながら、当時の映画人たちは「本物」をフィルムに焼き付けようとした。このシーンのカメラワーク、エディティング、そして凄まじい音響デザインは、アクション映画の教科書であり、今なおこれを超える臨場感を誇るカーアクションは存在しない。私たちはただ、その圧倒的な運動の美学に平伏するしかないのだ。
主人公の宿命とチャールトン・ヘストンの歪んだカリスマ
この壮大なドラマを牽引するのが、ジュダ・ベン・ハーを演じたチャールトン・ヘストンである。彼に対する現代の評価は真っ二つに分かれる。「濡れた紙袋ほどのカリスマ性しかない」「大根役者だ」という手厳しい声がある一方で、彼が放つ圧倒的な「肉体的存在感」が、この聖書的エピックを支えていたことは紛れもない事実である。
ヘストンという役者を語る時、どうしても後年の「全米ライフル協会(NRA)の会長」としての、保守的で、銃を誇示するタカ派のアメリカ人としての姿が重なってしまう。彼が劇中で見せる、ローマの圧政に抗う高潔なユダヤ人貴族の姿は、後の彼の政治的スタンスを知る観客にとって、奇妙な反転を伴って迫ってくる。
ジュダ・ベン・ハーは、友情を引き裂かれた幼馴染のメッサラによって奴隷に落とされ、ガレー船での過酷な労働(あの、太鼓の音に合わせて漕ぎ手の速度が上げられていく前段の船のシーンの緊張感も凄まじい)を生き延び、復讐の鬼となってローマへ帰還する。ヘストンのあの、岩石のように頑強な顎、怒りに燃える眼差しは、洗練された演技力というよりも、もっと原始的な「意志の力」を体現している。
しかし、彼がどれほど劇中で神の奇跡を体験し、復讐の虚しさを悟ったとしても、観客は彼の中に「銃を高く掲げるアメリカの保守主義」の影を見てしまう。このキャスティングの妙、あるいは歴史の皮肉が、映画『ベン・ハー』を単なる過去の宗教劇ではなく、アメリカという国家が抱える複雑なイデオロギーの鏡にしてしまっているのだ。
現代の瓦礫から見るユダヤ人の歴史的齟齬
映画『ベン・ハー』が、現代の観客の胸に最も鋭く、そして苦いトゲを突き刺すのは、その政治的・民族的な背景である。
劇中において、ユダヤ人はローマ帝国という絶対的な権力によって踏みにじられ、迫害され、アイデンティティを奪われる「絶対的な弱者」として描かれる。彼らの苦難と、そこからの解放を願う祈りは、映画の全編を流れる精神的支柱だ。第二次世界大戦の終結からわずか14年後に公開された本作は、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の記憶がまだ生々しく世界に刻まれていた時代に作られた。観客は、ローマ人に支配されるユダヤ人の姿に、ナチスに虐殺されたユダヤ人の悲劇を重ね合わせ、そこに深い同情と、彼らの復讐と救済の物語に心からの涙を流したのである。
しかし、21世紀の、まさに「今」を生きる私たちの眼に、その構図はどう映るだろうか。
現代の国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。政治において、ユダヤ人の国家であるイスラエルが、パレスチナに対して、あるいはイランをはじめとする周辺国に対して行っている軍事的な抑圧、そしてそれを全面的に支えるアメリカという超大国の構図を見た時、私たちは激しい「現実との齟齬」に直面せざるを得ない。かつてローマという帝国に蹂躙されていたユダヤ人が、今やアメリカという現代のローマ帝国と手を組み、他者を圧政の下に置く側に回っているのではないか、という冷酷な事実。
この現実の反転を知ってしまった以上、私たちは『ベン・ハー』の中で描かれるユダヤ人の受難に、当時の観客のように「素直に感動する」ことができなくなっている。映画がどれほど美しく神の正義を謳おうとも、劇中の台詞「彼(キリスト)が話した時、私の手から剣が落ちた」という平和への希求が、現在のガザの瓦礫の前では虚しく響いてしまう。映画の持つプロパガンダ的な側面、あるいは西洋中心主義的な「選ばれた民」の物語としての欺瞞が、現代の視点によって暴かれてしまうのだ。この齟齬こそが、本作を今観る上で最も重く、回避できない批評的テーマである。
覆い隠せない映画の「汚れ」:ブラックフェイスと時代錯誤
さらに、本作が内包する1950年代ハリウッドの悪しき因習についても、私たちは冷徹に指摘しなければならない。
最も顕著なのは、アラブ人の長老イルデリム役を演じたヒュー・グリフィスに施された「ブラックフェイス(黒人・有色人種風のメイク)」である。彼はこの役でアカデミー助演男優賞を受賞したが、現代の観客、特に文化的な多様性や人種差別の歴史に敏感な層から見れば、これは弁護の余地のない「文化的な汚点」であり、人種差別的な表現である。なぜ本物のアラブ人俳優を起用しなかったのか。なぜ白人に肌を黒く塗らせて、コミカルで、どこかエキゾチックに誇張された「他者」を演じさせたのか。
こうした「非白人文化の他者化」や、映画の至る所に散りばめられた男尊女卑的な視線は、本作を現代の観客から遠ざける要因となっている。一部の若いレビュアーが「この映画は不快なプロパガンダだ」「人種差別的なゴミだ」と切り捨てるのも、彼らが生きる現代の倫理的基準からすれば当然の拒絶反応と言える。映画は時代を映す鏡であるが、同時にその時代の偏見をも永遠にフィルムに閉じ込めてしまう呪いでもあるのだ。
融解するホモエロティシズム:密められた男たちの戦い
しかし、そうした政治的・倫理的な硬直性をすり抜け、本作を今なお奇妙に艶めかしく、そしてエロティックに輝かせている、もう一つの地下水脈がある。それこそが、巷で熱狂的に語られる「ジュダとメッサラの間のホモエロティックなサブテキスト(隠された文脈)」である。
ジュダ・ベン・ハーと、ローマの執政官として再会するメッサラ。少年時代に固い絆で結ばれた二人が、思想の違いから決裂し、憎悪の炎を燃え上がらせる。この物語の骨組みは、実は当時の脚本に関わった巨匠ゴア・ヴィダル(ゲイのための文学や先駆的な批評で知られる)によって、意図的に「同性愛的な愛憎劇」として肉付けされたという。
ヴィダルはワイラー監督に「この二人の決裂の背景には、かつての同性愛的な関係、そしてジュダに拒絶されたメッサラの報われない愛がある」と提案した。ワイラーはそれを認め、メッサラ役のスティーヴン・ボイドにだけその設定を教えて演技をつけさせたという。一方のチャールトン・ヘストンは、その保守的な気質から、このサブテキストを全く知らされていなかった。
この「一方はかつての恋人を激しく愛し、憎み、もう一方はそれに気づかぬまま友情の裏切りに怒っている」という非対称な関係性が、二人のキャッチボールに異常なまでの緊張感をもたらしている。再会した二人が杯を交わし、互いの腕を掴み、視線を交わらすシーンの、あの張り詰めた空気。それは単なる「男の友情」を超えた、文字通り「セラピーに行く代わりに、命懸けの戦車レースでしか決着をつけられない二人のトップ(攻め)の主導権争い」のような、濃密な官能性を帯びている。
ある意味で、『ベン・ハー』は映画史における最も壮大で、最も制作費をかけた「ボーイズラブ(BL)」の叙事詩であるとも言える。神の奇跡やキリストの救済という表向きの聖なる物語の裏で、男たちのドロドロとした、そして血飛沫のあがる愛憎劇が展開されているからこそ、この4時間は退屈を忘れるほどの熱量で私たちを魅了するのだ。
終焉の叙事詩として
映画『ベン・ハー』を観るという体験は、もはや現代の映画館では味わえない「失われた大陸」への旅である。6分半にも及ぶ序曲(オーヴァーチュア)の間、真っ暗な画面に音楽だけが流れるあの贅沢な時間の使い方。11個のアカデミー賞という、タイタニックやロード・オブ・ザ・リングに並ぶ不滅の金字塔。
それは、映画というエンターテインメントが、世界の中心であり、人々の信仰であり、最大のスペクタクルであった時代の最後の輝きだった。現代のスピード感に慣れた観客にとって、3時間半の展開は「長すぎる」「退屈だ」と感じられるかもしれない。しかし、あの船底の暗闇から、光り輝く競技場の砂塵へ、そしてゴルゴダの丘の雨へと至る、圧倒的な映像の旅路には、人間の手でしか作り得なかった「本物の奇跡」が確かに宿っている。
政治的な欺瞞に怒り、人種差別に眉をひそめ、男たちの妖しい視線に歓喜し、そして戦車の車輪が巻き上げる砂に息を呑む。その全方位的で、矛盾に満ちた熱狂を受け止めることこそが、この怪物的な傑作に対する正しい礼儀なのだ。映画は死なない。なぜなら、ベン・ハーの戦車は、今も私たちの心の中で、あの悍ましくも美しいスピードで走り続けているのだから。