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茨城県石岡市高浜にある広瀬酒造(白菊酒造)の元社長で考古学者の広瀬栄一氏が昭和期を中心に収集された拓本等を追加ご案内致します。
室町時代の第11代種子島時氏公治政下の文化革命功労者 中種子町南界校区田島の浄光寺にある「日良法印」の墓地です。中種子町の文化財に指定されています。浄光寺の正門をくぐるとすぐ左にあります。
日良法印は、室町時代の第11代種子島時氏公治政下の文化革命功労者で、法印は法華宗門祖日隆聖人に就いて本門八品の宗教を学び、先に法華弘通のため殉教せる日典上人の遺志を継ぎ、寛正6年(1465)35才で来島して、法華宗の普及を目指していきます。しかし、文明4年(1472)律宗従の坂井左京之進は法印を遠矢をにて射殺せんとしたが、法印は「矢違いの妙術」をみせ左京之進はその不思議の法術に感伏し、一族即党挙げて法印に帰伏していきます。その後此の地に浄光寺を創し学室を設けて、子弟の教育にあたっていきますが、明應4年(1495)9月19日65歳にして遷化御遺体を法印逆修石塔下に埋葬されています。鹿児島県熊毛郡中種子町南界田島浄光寺 出典:ふるさと種子島
中種子市街地から国道58号線を南種子に向かうこと約15分でこの地に着きます。ちょうど、日本一の大蘇鉄がある坂井神社入口附近の公園です。国道沿いですので、もちろん顕彰碑は見えています。写真で、右側に碑文があります。顕彰碑に刻まれている碑文は、次のとおりです。
日良法印遺徳顕彰碑 昭和三十八年九月十八日建之 日良法印遺徳顕彰奉讃会 協賛 京都 大本山 本能寺 尼崎 大本山 本興寺 本?寺閑士日宏 謹書 浄光院日良法印は室町時代種子島第十一代時氏公治政下の文化革命功労者である 法印は法華宗門祖日隆聖人に就いて本門八品の宗?を学びし碩徳にして、先に法華弘通のため殉教せる日典上人の遺志を継ぎ、寛正六年(一四六五)三十五才にして来島せり 時氏公は法印の偉徳にうたれ印の学徳を政治経済文化の維新に用いることこそ文化の維新を達成する策と考え文明年中に全島を律宗より法華宗へ改める改宗の布達を発す 然るに文明四年(一四七二)律宗従坂井左京之進は法印を遠矢をにて射殺せんとしに法印は「矢違いの妙術」をみせ左京之進はその不思議の法術に感伏し一族即党挙げて法印に帰伏す 然して此の地に浄光寺を創し学室を設けて子弟の教育にあたれり明應四年(一四九五)九月十九日六十五歳にして遷化御遺体を法印逆修石塔下に埋葬す 明治二年(一八六九)廃佛?釈によりて浄光寺は破却され境内の豊受神社のみ残れり而して今に百十余年浄光寺の再建成りて日良法印遺徳顕彰の気運興るや佛縁霊妙の然らしむるところ日良法印の御眞骨が旧境内地より新たに発掘され 茲に法印を敬慕する人々集いて矢止の霊跡に建彰碑を建立するものなり ?て浄光院日良法印の内秘外観の深徳高行の一端を綴る 維時 昭和五十八年九月十八日 日良法印遺跡顕彰会 会長
碑文の文章の中で、?は不明文字、或いは変換不可能な文字です。なお、読み違いがあるかもしれません。出典:ふるさと種子島
多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして、故郷に帰る事ができれば大変嬉しいです。
サイズは53×137.6㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケと破れがあります。
発送は追跡可能なクリックポストを予定しています。
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