エドワード・ヤン監督の1996年作品『カップルズ』(原題:麻將 / Mahjong)は、彼のフィルモグラフィーにおいて特異な位置を占める一作である。これまでのヤン映画が持っていた静謐で内省的なリアリズム、都市の孤独を冷徹に切り取る視線から一転して、ここでは過剰なメロドラマ性、ドタバタしたファルス的要素、ブラックユーモアが前面に押し出されている。1990年代中盤の台北を舞台に、若者たちの詐欺グループと外国人エクスパットたちが絡み合う群像劇は、まるで伝統的な香港ノワールやアメリカのスクリューボール・コメディを台湾の資本主義狂騒曲に移植したかのような異形のエネルギーを放つ。しかし、この表層的な騒々しさの奥にこそ、ヤンが一貫して追い求めてきたテーマ——近代化の加速がもたらす人間関係の崩壊、伝統と欲望の衝突、個の不在——が、より苛烈に、時には残酷に姿を現している。
物語は、台北の裏社会で30億台湾ドルもの巨額借金を抱えて失踪した実業家ウィンストン・チェンの行方を追うところから始まる。彼の息子であるレッド・フィッシュ(唐聰聖)は、若者ギャングのボスとして小規模な詐欺を繰り返す日々を送っている。仲間には、女たらしの香港(張震)、偽の風水師リトル・ブッダ(王啓燦)、通訳兼新参者のルエン・ルエン(柯宇綸)がいる。彼らは標的の情報を集め、霊的な警告をちらつかせて金品を巻き上げ、女性を共有する共同生活を営んでいる。一方、外国人グループとして登場するのが、破産して台北に逃げてきたイギリス人インテリアデザイナーのマーカス(ニック・エリクソン)とその恋人でビジネスパートナーのアリソン(アリソン・リー)、そしてフランスからやってきたマルテ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)だ。マルテはレッド・フィッシュの詐欺グループに狙われ、ルエン・ルエンと出会うことで物語は複雑に交錯していく。失踪した父親を探す過程で、銃撃、自動車事故、裏切り、恋愛、殺人が次々と発生し、最終的に登場人物たちはそれぞれの「救済」と「破滅」の狭間で決着を迎える。
このプロットは一見、因果応報のドタバタ劇のように見えるが、ヤンはそれを麻雀のゲーム構造に重ねている。原題『麻將』が示す通り、登場人物たちは牌を切るように互いの人生を操作し、偶然と計算が交錯する中でツモ(和了)するか、流局(流局)するかが決まる。レッド・フィッシュは「世界は詐欺師と馬鹿しかいない」という父親から受け継いだ哲学を信条とし、他人を「牌」として扱う。しかし、ヤンはそんな冷徹なゲームのルール自体を嘲笑しつつ、その中でわずかに残る人間的な「ずれ」を執拗に捉えていく。たとえば、香港が女性を口説くシーンでは、甘い言葉が吐かれるたびにカメラは彼の目ではなく、相手の微妙な表情の揺らぎを映し出す。言葉は完璧に計算されているのに、視線や仕草に生じる隙間が、計算の外にある感情の残滓を示唆するのだ。
ヤンの演出スタイルは、この時期に決定的な変貌を遂げている。『恐怖分子』(1986)や『嶺街少年殺人事件』(1991)で見られた長回しと深深度の構図は影を潜め、代わりに高速のモンタージュ、ジャンプカット、過剰なクローズアップが多用される。画面は常に動き、人物はフレームを飛び出し、飛び込んでくる。台北の街並み——ネオン、看板、ハードロックカフェの看板、アメリカ国旗——が過剰に前景化され、資本主義の記号が人物を飲み込む様子が視覚的に強調される。音響設計も特徴的で、環境音(クラクション、工事音、クラブのビート)が対話を掻き消し、会話が途切れ途切れになることでコミュニケーションの不可能性を体現している。音楽は最小限に抑えられ、代わりに登場人物の吐息やゲップ、叫び声が前景化される瞬間がある。これらはすべて、ヤンが「現代台北とは何か」を問うための装置だ。
撮影秘話として語られるエピソードのひとつに、キャスティングの異例さがある。張震(チャン・チェン)は『嶺街少年殺人事件』でヤンに見出されて以来の常連だが、ここでは香港役として、従来の内気で繊細な少年像から一転して、冷徹な色男を演じている。ヤンは張震に「君はもう子供じゃない。女を食い散らかす男になれ」と直接指示したという。撮影現場では、ヤンが役者にほとんど説明せず、「そのままやってみて」と繰り返すスタイルを貫いたため、張震は当初戸惑ったが、結果として彼の自然なカリスマ性がスクリーンに結実した。ヴィルジニー・ルドワイヤンもフランスから招かれたが、彼女は台北の街を初めて歩きながら役を掴んでいった。ヤンは彼女に「君はここで何を探しているのか、自分で決めろ」と言い、脚本の枠を超えた即興を許した。マルテとルエン・ルエンの出会いのシーンは、ほとんどアドリブで撮られた部分が多く、ヤンは後で「これが本当の恋の始まり方だ」と満足げに語ったそうだ。
もう一つの裏話は、クライマックスの銃撃シーンの扱いである。ヤンはこのシーンを極力リアルに、しかし過剰に劇的に撮ることを意図した。現場では本物の銃声に似せた音響を大音量で流し、役者たちは実際に恐怖を感じながら演じた。張震は「監督は僕に『撃つ瞬間、君は本当に人を殺すつもりでいなさい』と言った。あの目は忘れられない」と後に振り返っている。この過激な演出は、ヤンが単なる娯楽を超えて、暴力の日常化を観客に突きつけるためのものだった。低予算ゆえにセットはほとんど建てず、台北の実際の街路、クラブ、マンションをロケ地に選んだ。これが逆に、映画の混沌としたエネルギーを増幅させた。
公開当時の反響は極めて分かれた。台湾国内では「ヤンが堕落した」「下品すぎる」との批判が相次いだ。従来のヤンファンが期待した詩情や哲学的深みは影を潜め、代わりに俗っぽいギャグと暴力が並ぶことに違和感を覚えた批評家も多かった。一方、国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。的にはベルリン国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。映画祭などで上映され、欧米の批評家から「ヤンの最も攻撃的な作品」「90年代台北の真実の肖像」と高く評価された。特に、資本主義のグローバル化がもたらす文化の混淆と人間関係の商品化を、喜劇の形式で暴き出した点が注目された。フランスやアメリカの観客は、マルテやマーカスのような外国人エクスパットの視点を通じて、台北を「東洋の異国」ではなく「グローバル資本の最前線」として認識し直した。
日本での初公開時も賛否は激しかったが、近年4Kレストア版が上映されるようになって、再評価の機運が高まっている。ヤンの死後、彼の作品全体が見直される中で、『カップルズ』は「ニュー台北三部作」(『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』『ヤンヤン 夏の想い出』)の過激な中間項として位置づけられるようになった。『恋愛時代』の風刺がまだ優しく残っているのに対し、『カップルズ』は容赦なく笑いと絶望を同居させ、『ヤンヤン』でようやく到達する慈しみへの橋渡し役を果たしている。
テーマ的に見て、本作は「期待と欲望」の暴走を描いている。レッド・フィッシュは父親の成功神話を継承しようとするが、それが詐欺という形でしか実現しない。香港は女性を「征服」することで自己を確かめようとするが、結局空虚に終わる。マルテは純粋な愛を探して台北に来たのに、そこで出会うのは計算された誘惑ばかりだ。ヤンはこれらを「麻雀」のメタファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。で統括する。誰もが自分の牌を隠し、相手の牌を読み、和了を狙う。しかし、真の和了など存在しない。和了した瞬間、次の局が始まるだけだ。この無限のゲーム性が、90年代台北の、そして現代のグローバル都市の縮図となっている。
ラストシーンで、マルテとルエン・ルエンが鼎泰豊の前でキスを交わす瞬間は、映画全体の唯一の「救い」であり、同時に最大の皮肉だ。あの柔らかな光の中で、二人はようやく互いを「牌」ではなく「人間」として見つめ合う。しかし、その背後では銃声の余韻が消えず、街は変わらず騒がしい。ヤンはここで、愛が成立する可能性を肯定しつつ、それがどれほど脆弱で、どれほど偶然に依存しているかを突きつける。
技術面でも注目に値する。撮影監督のリ・イジュとリー・ロンユーは、35mmフィルムで色彩のコントラストを極限まで強調した。ネオンの赤と青、血の赤と夜の黒が交錯し、登場人物の感情を視覚的に増幅する。編集のチェン・ボーウェンは、ヤンの指示のもとで意図的にリズムを崩し、観客の期待を裏切るカットを連発した。録音のドゥー・ドゥージ(杜篤之)は、環境音をキャラクターのように扱い、静寂の瞬間を際立たせた。これらの要素が合わさって、『カップルズ』はヤン映画の中でも最も「騒々しく」、最も「静か」な作品となった。
現代から振り返ると、本作はSNSとグローバル資本の時代を予見していたように思える。詐欺師たちが情報を操作し、欲望を煽り、他人を騙す構造は、今日のインフルエンサー経済やフェイクニュースと驚くほど重なる。ヤンは1996年に、情報が通貨となり、人間関係が取引となる社会の到来を、笑いと怒りを込めて描き出していた。
『カップルズ』は、ヤンのキャリアにおいて過渡期の作品であると同時に、彼の最も攻撃的で、最も人間的な叫びでもある。観終えたとき、観客は台北の街の喧騒の中に放り出され、自分がどの牌を持っているのか、誰を騙し、誰に騙されているのかを考えざるを得なくなる。それが、エドワード・ヤンという映画作家が残した、最大の挑発であり、最大の優しさなのだ。
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