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西五辻為子(裏松勲光二女)1858-1915
◆西五辻 文仲(にしいつつじ あやなか)は、明治期の宮内官、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・五辻[1]、幼名・亀麿[3]、旧名・清純[1]。山城国京都で五辻高仲の三男として生まれる[1]。興福寺明王院住職[1][注 2]となるが、慶応4年4月(1868年)復飾を命ぜられ[1]、春日社新社司となる[3]。明治2年12月(1870年1月)、華族に列し西五辻家を創建した[1]。明治3年9月22日(1870年10月16日)元服し昇殿を許された[2]。1876年5月、永世華族となり、1884年7月8日、男爵を叙爵した[1][5]。
開成学校でドイツ学を修め、1873年、宮内省九等出仕となる[2][3][4]。以後、宮中祗候、歌御会始講頌、青山御所勤務、日本大博覧会評議員などを務めた[3][4][6]。
1890年7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1911年7月9日まで三期在任した[4][6]。1933年12月11日に隠居した[1][7]。
親族
父:五辻高仲
兄:五辻安仲(子爵)[8]
妻:西五辻為子(裏松勲光二女)[1]
長男:西五辻美仲(早世2歳)
長女:西五辻貞子(早世2歳)
次女:西五辻幸子(早世2歳)
三女:山口正子(男爵山口豊男夫人)[1][6]
次男:西五辻朱仲(嫡男)
三男:西村敬仲
四女:説田桃子(説田彦助夫人)[1][6]
五女:原清子(原正年夫人)
六女:石本留子(石本貫一夫人)
養子:西五辻光仲(男爵)[1]
◆父 裏松勲光
生没年:1823-1860
父:権大納言 裏松恭光
正五位下
右少弁
妻:四辻績子(父:権大納言 四辻公績)
1850-1915 良光
1853-1916 水無瀬忠輔(水無瀬家へ)
1856-1936 今子(夫:難波宗明および伯爵 大原重朝)
1858-1915 為子(夫:男爵 西五辻文仲)
◆母 四辻績子
四辻公績(よつつじ きんいさ)は、江戸時代後期の公卿。官位は正二位、権大納言。
官歴
文化13年(1816年):従五位下
文政5年(1822年):従五位上
文政6年(1823年):正五位下
文政8年(1825年):侍従、従四位下
文政10年(1827年):従四位上
文政11年(1828年):右権少将
文政12年(1829年):正四位下
天保2年(1831年):近衛権中将
弘化2年(1845年):近衛右中将、参議
弘化3年(1846年):従三位、踏歌外弁
弘化4年(1847年):東照宮奉幣使
嘉永元年(1848年):近江権守、正三位
嘉永4年(1851年):従二位、権中納言
安政2年(1855年):正二位
文久2年(1862年):権大納言
系譜
実父:徳大寺実堅
養父:四辻公説
子:四辻公健
子:四辻公賀
子:北河原公憲
子:室町公康
◆兄弟姉妹
裏松 良光(うらまつ たるみつ)は、幕末の公家、明治から大正期の陸軍軍人・政治家・華族。最終階級は陸軍歩兵少佐。貴族院子爵議員。裏松家10代当主。
経歴
山城国京都で右少弁・裏松勲光の長男として誕生[1][3]。
文久元年12月3日(1862年1月2日)元服して昇殿を許され従五位上に叙せられ筑前権介に任じられた[4]。中務権少輔、兼中宮権大進などを歴任し、明治2年8月22日(1869年9月27日)侍従に就任[2][4]。明治5年1月14日(1872年2月22日)依願免本官となりドイツ帝国へ留学[2][4][5]。1874年3月に官費留学生に帰国命令が出されたが、自費留学が認められ、1875年(明治8年)10月31日に帰国した[4][5]。祖父裏松恭光の死去に伴い、明治5年2月12日(1872年3月20日)家督を相続[1][3][4]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[6]。
1876年(明治9年)3月4日、陸軍歩兵少尉に任官し陸軍戸山学校附となる[2][4]。以後、名古屋鎮台歩兵第6連隊小隊長、東京鎮台歩兵第2連隊小隊長、同歩兵第3連隊小隊長、歩兵第17連隊中隊長、歩兵第32連隊中隊長などを歴任[2]。1898年(明治31年)4月1日、歩兵少佐に昇進と同時に後備役に編入された[7]。
1902年(明治35年)10月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[8][9]、死去するまで在任した[2][10]。
◆写真師・清水東谷
本名は清水三吉。父は狩野派幕府御用絵師・狩野洞章(静知齋洞章、狩野静知齋)。父から絵を学んだ。安政元年、鍛冶橋狩野派に入門して「狩野玉龍」を名乗る。安政 6 年、ドイツ人医師シーボルトに従い植物写生を手伝いながら、洋画と写真術を研究。文久 2 年、シーボルトが日本を去るとき、写真機や薬品を譲り受けたといわれる。 本間郡兵衛(本間北曜)と交流があったようで、慶応元年に本間郡兵衛に宛てた手紙が残っている。そこにはフルベッキ(上野彦馬、本木昌造、市川兼恭などとかかわった人物)と竹陽斎の名前が出てくる。なお、写真師・和田久四郎(二代)は、幕末に江戸に出て薩摩藩士・本間某から写真術を学んでいるが、この本間某が、本間北曜ではないかという説がある。
明治 5 年、横浜弁天通り住吉町に写真館を開業。明治 5 年、東京日本橋に移転。明治 5 年、呉服町に移転。その後横浜へ戻り、油絵を描いた。後に宮内省の御用写真師となっている。 明治 14 年の新聞に、写真業を止め、油絵と石版に従事するため横浜に移住すると書かれている。明治 14 年、第 2 回内国勧業博覧会の写真部門で最高賞。油彩も受賞。明治17年の新聞に、肺病で休養していたが、今川橋際で再開するという記事が書かれている。明治 40 年、死去。弟の鈴木東谷は野毛山で写真館を開業(のち 2 代目となる)。養子の清水条次郎は、妻の姉の子(3 代目となる)。長男の鈴木鈴之助は横浜太田調で開業。鈴木鈴之助の弟・鈴木雲は長崎・東京で開業するが、のち鈴木千里に事業を譲っている。
明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷、横山松三郎、内田九一、守山(森山)浄夢、加藤正吉、北丹羽(北庭)筑波、小林玄洞」の名がある。
*弟・鈴木 東谷
初代・清水東谷の弟。父は狩野派幕府御用絵師・狩野洞章(静知齋洞章、狩野静知齋)。野毛山で写真館を開業。のち 2 代目・清水東谷を名乗る。
同時代に同姓同名の根付師・鈴木東谷がいるが、同一人物ではないと思われ、関係性は不明。ただし、根付師・鈴木東谷も、東京浅草で活躍している。
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