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*人間や社会の在りようを見つめ、ひたむきに描き続ける姿から、「魂の画家」 と評された 平野遼 の 水彩作品 『家』 です。
(平野の抽象作品には必ずといっていいほど人の顔が見えます。ぜひご確認ください。)
作品の右下に 「家 素描 7.16 -」 と書かれています。 おそらく1950 年代の作品だと思われます。
1点もの 額装品 【真作保証】 です。 ( 万が一「真作」でなかった際には返品をお受け致します。)
この作品は、当時の若松市(現在の北九州市若松区)にあった「 サワヤマ洋装店 」での個展に出品された作品だと思われます。
*詳しい方、平野遼ファンの皆様、作品を探されていた方、作品を気に入った方、この機会にコレクションに加えてください。
・作家名:平野遼(ひらの りょう) 1927 - 1992
・作品名:家
・技法:水彩
・マット紙窓枠サイズ:約30 cm×約22 cm
・シートサイズ:約 32 cm ×約 24 cm
・額サイズ:約 53.0 cm ×約 41.5 cm
・制作年: 1950 年代? 7.16
・作品コンディション:イメージ部分は概ね良好ですが、作品は「サワヤマ洋装店」のシールで止められています。
九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、 11 月 24 日午後 11 時 48 分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年 65 。昭和 2(1927) 年 2 月 8 日、大分県北海郡に生まれる。本名明。同 8 年、戸畑市沢見尋常小学校に入学。 3 年生の頃から技法書等により絵を独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。同 14 年戸畑男子高等小学校を卒業。 3 歳で母を、同 15 年 13 歳で父をなくして同年より徴用工として働く。同 20 年除隊後戸畑に帰るが、同 24 年に上京。ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てつつ、同 24 年第 13 回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。同 26 年第 15 回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同 28 年第 17 回同展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。同 31 年第 20 回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、同 32 年第 21 回同展に水彩画「飛べない蝶」を出品して 2 年連続して佳作賞を受け、同 33 年同会会員に推される。同 34 年第 13 回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。同 37 年、第 5 回現代日本美術展に「修羅 A 」「修羅 B 」を出品するとともに、前年の第 25 回自由美術家協会展出品作「像」を第 5 回安井賞展に出品する。同 39 年 9 月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年 10 月主体美術協会を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同 50 年主体美術協会を退会して無所属となった。同 53 年 6 月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同 54 年 7 月には中央アジア、同年 9 月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和 30 年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開した。昭和 61 年 12 月、池田 20 世紀美術館で「平野遼の世界展」が翌年 6 月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれており、画歴は同展図録に詳しい。作品集には『平野遼素描集』 ( 大阪フォルム画廊 昭和 47 年 ) 、『平野遼自選画集』 ( 小学館 昭和 52 年 ) 等がある。
(出典:『日本美術年鑑』)
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